①氷炎の怪物の怪物に嫁いだ人形姫ですが、こんなに幸せでいいのでしょうか
アースガルズ国王女のヨルズは、祖国を滅ぼした英雄、氷炎の狼ヴァナルガンドの妻になった。
初夜当日。ヴァナルガンドから、彼の体に巻き付くひも状の黒い痣を見せられる。
これは精霊の力を抑える呪印で、精霊の加護を持つ者同士の婚姻により、互いの力を安定させないと死ぬ。しかし彼は死を受け入れ、ヨルズを形だけの妻として扱うから安心してほしいと言う。
これは、氷炎の怪物と人形姫の、夫婦になってから始める恋物語。
心臓が痛い。
ヨルズは胸を押さえたい衝動をこらえた。
視界は白いベールがうっすらと覆っている。花レースの長袖の下には腕が透けていた。純白のドレスの裾もベールも後ろに長く垂れていて、可愛らしい少女が持ってくれている。
ヨルズは白いベールの下で、夫となる男を見つめた。背が高く、肩幅は広い。ベールの向こうに薄っすらと浮かぶ男の顔は、細部は見えないけれど端正のようだ。
男の名はヴァナルガンド・フェン。男爵領領主で、彼の属するヴィーグリーズ国では氷炎の英雄。または氷炎の怪物と恐れられている男であること。それ以外は、顔も人柄も知らない。
王族の結婚などそんなものだ。ましてや自分は敗戦国の王女。ヨルズは諦めと自嘲をこめて笑うと、ベールの外でヴァナルガンドが動きを止めた。
不思議に思って、ヴァナルガンドを見つめる。今の彼は、ベールに施された繊細なレースに透けて、ぼんやりと浮かぶ曖昧な男でしかなかった。
氷炎の怪物としての姿なら、鮮烈に焼きついているのに。
本当にこの男は、あの怪物と同じ男なのだろうか。
ヨルズを蔑んでいた者たちを絶対零度で凍らせ、ヨルズを閉じ込めていた王宮を、苛烈な炎で薙ぎ払った氷炎の怪物と。
あの日。父王ベルヴェルクに敵兵の足止めを命じられ、静かに待っていた王の間の扉を、氷と炎で砕いた。
「ベルヴェルクはどこだ」
兜の隙間からわずかに覗く目と、漏れ出でる声は、どちらも冷たいのに奥底で苛烈な炎を孕んでいた。
冷気でぶら下がるシャンデリアが凍てつき、火焔が繊細な彫刻の施された柱や、壁にかかった重厚な絵画や豪奢な垂れ幕を灰にしていく。煌く氷と炎は美しく、それを纏った怪物もまた、ヨルズは美しいと思った。
「わたくしの後ろの隠し通路から逃げました」
ヨルズは押し寄せる熱に髪や衣服をはためかせながら、冷気に刺される両手を広げた。父王の命を守るつもりなどないけれど、立ち塞がる形になる。
別に父王を守ろうという情も、逃がそうという義理もない。
ヨルズはアースガルズ国の王女とはいえ、ベルヴェルクが市井の女であった母を手籠めにして出来た子である。物心つく前に母と引き離され、塔に幽閉されて育った。父王の顔を見たのも、言葉を交わしたのも、あの時が初めてだ。
「追いかけたければ、わたくしを殺して下さい」
怪物であれば、邪魔する者を躊躇いなく排除してくれる筈だ。
王女でありながら居ない者として振る舞われる、忌み子。王女としての教養と所作だけが、機械的にたたき込まれた人形。そんな人生にうんざりしていた。
ここで生き長らえたとして、新たな役の人形を演じなければならないだけ。それならば今ここで、この美しき怪物に終わらせてほしい。
そう願って立ち塞がったのに。次の瞬間、意識が途切れた。
何をされたのかさっぱり分からなかったけれど、当身を受けたのだと思う。
来ないと思っていた目覚めを迎え、ヴィーグリーズ国に保護されていた。
再び動き出したヴァナルガンドの手によって、ゆっくりとベールが上がる。霞のかかっていた世界が、鮮やかな色をさらした。
ヨルズは息を飲んだ。
精霊の加護を持つ者は、髪や瞳に強く精霊の色が現れるという。ヴァナルガンドの髪は青味がかった銀で、赤い眼球に金の虹彩が燃えていた。
けぶるような長いまつ毛も青銀。白い頬と薄い唇は淡い紅を差しているよう。精霊は余程彼を愛しているらしい。
青味がかった銀髪の下にある、切れ長の瞳に冷たく射すくめられて小さく震える。むき出しの肩に、大きな手がかかった。
怖いのだろうか。憎いのだろうか。嫌悪、侮蔑、それとも歓喜、ときめきか。
きっとそのどれでもない。
「誓いの口づけを」
戦場を駆ける男であるのに、白皙の美貌が近づいてくるのを、ヨルズはまばたきもせずに見つめ続けた。
いつしか心臓の痛みも、体の震えも止まっていた。
触れた唇も肩を掴んでいた手も、火傷するほど熱くもなく、冷たくもない。普通の人の温度で、微かな震えすらともなっていた。
唇に柔らかなものが、刹那の時間だけ触れる。
ああ、この人は英雄でもなく怪物でもなく、人間なのだな、と。
ヨルズはどうしようもなく安堵したのだ。
結婚式が終われば、当然初夜が訪れる。
湯浴みを終えたヨルズは、寝室で一人待っていた。
寝室には誰もいない。ヨルズの常識では、王候貴族の初夜というのは立会人がいるものなのだが。この国では二人きりで行うものなのだろうか。
それだけではなく、この国に来てから朝の起床、着替え、全てにおいて監視のない生活に驚きの連続だった。
全く人の目がないというわけではない。しかしそれは、監視というより見守っているようだった。使用人たちの目や声は温かくて戸惑う。
塔で周りにいた侍女、侍従たちは、じっとヨルズを観察し、基準に達しなかった事を指摘した。
伸びていなかった背筋、優雅に組めていない指先、解けなかった算式、音を立ててしまった食器。一挙手一投足に気が抜けなかった。
ところがここの使用人たちは、ヨルズの一挙一動を褒める。姿勢が綺麗、所作が美しい、難しい数式も解ける、残さず食べて嬉しい。出来て当たり前で、何でもないことなのに。
控えめなノックの音が耳に届いた。
「はい」
「入ってもいいだろうか」
声音の冷たさは変わらないけれど、内容は随分と気弱だった。
入っていいも何も、ここの主はヴァナルガンドその人であり、花嫁である自分は所有物だ。許可など取らずに入ってくればいい。
少し迷ってから、「どうぞ」と答えた。
そっと扉が開き、ヴァナルガンドが長身を室内に滑り込ませる。
ゆったりとしたシャツに、ナイトガウンを羽織っただけだが、それも様になっていた。
後ろでに扉を閉めると、そこにとどまった。
「今日付けで君と俺は夫婦になったが、安心してほしい。この結婚は形だけのものだ」
形だけの結婚は、想定内だ。
「俺は君の祖国を滅ぼし、家族を追い落とし、生活を一変させてしまった。形だけとはいえ、俺が夫など耐えがたいだろうが、そこだけは我慢してほしい。生活に何不自由はさせない。俺は君に指一本触れない。恋人を作ってもらっても構わない。そうなったところで君への待遇は変えない」
提示された破格の条件に、ヨルズはゆっくりとまばたきをした。
これは想定外だった。
まさかこの男はヨルズの祖国を滅ぼしたことに自責の念を抱き、ヨルズに同情しているのだろうか。
「祖国を滅ぼし血族を追いやったことを気に病んでおられるのでしたら、必要ございません。むしろ感謝しているのです。わたくしは祖国も王家の血族も、今までの生活も憎んでおりました」
ヨルズは背筋を伸ばし、挑むような視線を正面に飛ばした。
憐れみや同情など要らない。そんなもので、ヨルズを弱くしないでほしい。
「お好きにすればいいのです。妻は夫の所有物なのですから」
どうせこの男も同じなのだ。
「君は物ではない」
ヴァナルガンドの美麗な眉根が寄った。
「物です。わたくしの祖国での扱いは物でした」
ヨルズは背筋を伸ばし、険しくなったヴァナルガンドの視線を真っ向から受け止めた。
さっさと本性を出せばいい。そうすれば舌を嚙みちぎって、恥をかかせてやる。
「俺は君を物として扱うつもりはない」
冷たい声に硬質な憤りをにじませ、ヴァナルガンドがガウンを脱いだ。シャツのボタンも外し始める。怒りの感情に呼応してか、ちり、と熱と冷気がヨルズの肌をなぶった。
やはり、とヨルズは歯に舌を差し込む。
「これを見ろ」
しかしヴァナルガンドは、己の肌をさらしただけだった。
「痣……ではありませんね」
黒い紐のような痣が引き締まった体を這っていた。黒い紐から、大きな力を感じる。
「精霊の力を抑える呪印グレープニールだ」
硬かった声と瞳が急に硬度を失う。熱と冷気がぬるく溶けた。
そういうことか、とヨルズは納得した。
氷炎の怪物。あれほど強力な加護であれば、人間の許容量を超える。だからあの呪印で封じているのだろうが、それも限界がある。遠からず過ぎた力はヴァナルガンドの命を奪うだろう。そうならないための、結婚だったのだ。
王族は精霊の加護持ちが多く、ヨルズも大地の精霊の加護があった。
「俺の延命のために、テュールのやつが君の意思を無視して勝手に結婚を推し進めてしまったが、俺は君の同意なしに自分のものにするつもりはない」
精霊の加護を持つ者同士の婚姻は、互いの力を安定させる。夫婦の営みもない形だけのものでは、精霊が認めない。
「形だけの婚姻では、あなたは死ぬのですよ」
ヨルズはため息を一つ吐いて、覚悟を決めた。任務とはいえ、あの忌まわしい王宮から連れ出してくれた恩人の彼には、本当に感謝しているのだから死なせたくない。
「わたくしを抱いてください。あなたでしたら構いません」
「そういう行為は、好きな男とでないと駄目だ」
「どなたか他に想い人がいらっしゃるのですか」
「そんな女はいない」
死すらいとわないほど頑ななのは、他に好きな女がいるのかと思ったのだが、それも違うらしい。
余程のロマンチストか、潔癖なのか。それとも。
ヨルズは自分の体を見下ろした。ひょろりと伸びる生白い手足。胸はピンと張りがあるものの、大きくない。貧相だ。
「確かに、その気にならないほど魅力のない身体かもしれませんね」
「いや! き、君の魅力は有り余っているというか、出来るなら今すぐ……ゴホン!」
ヴァナルガンドの声が跳ね上がった。首まで真っ赤にして顔を背け、決まりが悪そうに咳ばらいをする。
「とにかく。愛のない行為はしない」
「分かりました。好いて頂けるよう努めます」
「……いや、そっちの方は……まあいい」
目を閉じたヴァナルガンドが、疲れのにじむ声を吐き出した。ヨルズは改めて、ベッドの上で三つ指をつき、頭を下げた。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「短い間かもしれないが、よろしく」
形から入った恋が、始まる。
 




