9.人でなし
私の体が燃えた。
正確には体が発火したのではない。私の体を炎が包んでいる。熱さより痛みが先に来た。
髪が焦げる匂いがした。骨が溶ける音がした。激痛と呼ぶには生ぬるい痛みが全身を刺す。背後から『何か』のおぞましい耳鳴りが聞こえる。
この上ない非常事態に、呑気な声が頭に響く。
『そうそう、それが人間だよ。感情に正直に生きたまえ、君』
『貴方、何が目的ですか』
声の主はあの純白の男だった。声だけだが、最初の爽やかで好青年然とした雰囲気は全くない。気楽で気まま、鼻歌を歌うように続ける。
『君は妬ましいんだ。エミリアの全てが。いかに格好をつけようが、どう言葉を取り繕おうが、中身はその辺の令嬢と同じだよ。ドロドロで、何処までも醜い。そして死ぬ手前にならなきゃそれに気づけないほど、愚かだ』
どうやら質問に答える気はないらしい。私はため息を吐き、話を合わせる。
『そう、かもしれません』
『かもしれないじゃなくて、間違いなくね。プライドだけは無駄に高いんだから』
どこまでも無礼な男だ。目の前にいたら迷わず殴っていることだろう。だが今はそんなことをしている場合ではない。私は何とか怒りを抑える。
『で、この炎も貴方の仕業ですか』
『違うよ。君を8階まで投げ飛ばしたのは間違いなく私だけど、この炎は君の力だ』
『嘘』
『じゃあない。誓って。君はその歳になって、自分のことすらよく知らないんだよ』
心底バカにし切った声が頭に響く。もはや私の心から、この男に対する淡い想いは消え去っていた。自然と声が冷たくなる。
『というかなんで話せているんですか、私たち。それとも全部私の妄想ですか』
『当たらずと雖も遠からず、ってところかな。ちょっと君の走馬燈にお邪魔しててね。まあ細かいことは気にしないでくれ』
『勝手に人の頭の中に入らないでください。率直に気持ちが悪いです』
『中々いい性格してるね、君』
貴方ほどじゃあない。そう言おうとして、遮られる。
『さて、そうはいっても時間には限りがある。もう一度聞いておこうか。もっとシンプルに』
指を鳴らす音が聞こえる。一々キザな男だと私は思う。
『君は今、生きたい?それとも死にたい?ウルペース家長女ではなく、ただのヘレナとして』
言いたいことも聞きたいことも山ほどある。だがその時間も、男が質問に答える気もない。
それに、死にかけてようやく見えたこともある。
『……まだよくわかりません。でも、二つはっきりしたことがあります』
『ほう』
『一つ。貴方は碌でもない男だということ』
『心外だね。私程良い男は世界中探し回っても見つからないだろう』
令嬢を8階まで投げる存在を良い男と認めてしまえるなら、私は誰とでも結婚できることだろう。
『まあいいや。で、二つ目は?』
この男になら言ってもいい。言っても許される。醜い願望も、汚い腹の内も。
そう、思えば最初からおかしかった。どれだけ見た目が美しくても、それだけで冷静さを欠くほど私は愚かではない。あの細腕で、膂力のみで人を8階まで放り投げるなど考えられない。頭に直接あたりかけるなど、まさしく人間業じゃない。
人外に人でなしだと認められても、何ら問題ない。
『エミリアの汚い顔が見たい。エミリアの苦悶に歪む表情が見たい。私が彼女に同情して、手を差し伸べてやりたい』
『屈折しきってるね』
『まだですよ』
そう。私はその光景を想像して、胸の高鳴りを抑えきれない。
『そして最後にその手を振り払って、踏みつぶしてやるんです』
『本当にいい性格してるよ、君』
空笑いを最後に、頭から男の声は消えた。
眼下のエミリアが近づくほど私を包む炎も熱く、強くなる。この炎のことはほとんどわからない。炎がどれほど熱いか、もはや想像がつかない。だのに私がその炎の中でなぜまだ生きているのか、それもまたわからない。
わかることはやはり二つ。この炎は私の身にはとても余るものであることと、炎はあり余る力の吐き出し先を探していること。
下を見ると私を助けようとしていたエミリアは倒れ、彼女が立っていた場所にはあの男が立っていた。
「良き夜ですね」
「いや、違うね」
男の腕は、大きく、黒く、醜い『何か』になった。その手から同じく黒い『何か』が放たれる。私を取り巻く炎は自然と、導かれるように男に向かう。
「最高の夜だ」
炎と『何か』がぶつかり、溶け合う。
最後に見えたのは、耳まで裂けた男の口だった。
ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました。これにて第一章は終了です。
第二章は舞台が変わり、新しい環境でのヘレナの生活となります。もう少し軽い雰囲気でお話が進んでいきますので、ぜひお楽しみに。