8.転落の炎
一体、何が起きた。
一瞬で今の景色が過去のものになる。全てを置き去りにして私は舞踏会のホールを高速で飛ぶ。何とか下に目をやると、お気楽に手を振るあの純白の男が見えた。少しだけ状況を理解する。
違う、飛んでいるのではない。投げられたのだ、私は。
だが理解は解決に全く寄与しない。空気の壁が厚い。耳鳴りと動機が止まらない。なぜ、どうして、どうやってこんなことが起きた。なぜどうしてどうやってなぜどうしてどうやってなぜどうしてどうやって――
「ヘレナ! 何をやっている!」
パニック状態の頭に、聞き慣れた声が染み込む。兄のアルゲオだ。
ダンスホールは吹き抜けの8階建て。彼はその最上階にいた。見ればチラホラと舞踏会を見物する生徒や教師が上の階にいる。
アルゲオは鋭い目をまん丸に見開き、グラスの中身を床にぶちまけていた。当然と言えば当然だろう、妹が突如空を飛んだのだから。驚かないほうがどうかしている。
しかし。こんな状況でも笑みがこぼれる。あの男のあんな間抜けな顔を拝める日が来るとは思っていなかった。「何をやっている!」とは、これまた間抜け極まる問いだ。私が知るか。
間抜けな兄のおかげで頭の方は少し落ち着いた。さっきより時間の流れが遅く感じる。さっきよりも周りがよく見える。
天井絵に頭が届くか、という高さで私の体は減速し、次は落下の感覚に脳が支配される。8階、高さにして30~40m。
高確率で死ぬな。
反射的に頭を守り、膝を曲げて体を丸める。頭と頸椎さえ守れば命くらいは――
しかし、心のどこかで声がした。
――守って、どうする。
手足から力が抜ける。
私が死んだところで、何の不都合があるのだろう。ウルペース家としては私が死んだほうが色々な面倒がない。私に嫌がらせをしていた学友にしても、皆が見ている前で惨めに死ねばさぞ清々することだろう。
私の生を望む人間など、誰もいない。
私を含めて、誰もいない。
しかし。
『――ヘレナ様!』
聞こえるはずのない声が、遥か下から聞こえた気がした。
私の落下地点に、エミリアはいた。周囲からは人がぽっかりと引き、カニスだけが必死に引き戻そうとしているが、彼女はそれすら気づいていない。
助ける技術も力もないただの人の身で、彼女は私を助けようとしている。
「ふ」
思わず微笑が漏れる。
本当は気づいていた。コロルの言っていた通りだ。彼女の本質は魔法適正の高さなどではない。美しく、しかし愛らしい容姿でも、慈悲深い心根でもない。
噛んだ唇から、鉄の味がした。
「貴女はどこまで私を」
惨めにするのだ。
ああ、今ならわかる。死にかけてようやく、私は少しだけ私を理解する。
どこまで取り繕っても、やはり私はエミリアに嫉妬していたのだ。才能でも容姿でも心根でもなく、その在り方に嫉妬していた。
溢れんばかりの才能を持ちながら不完全で、自分の身も省みず、私などを助けようとしてしまう。いつだって迷いながら進み、それでも周囲の人間をも巻き込み、輝く。
私にはできない生き方を選ぶ彼女が、心の底から憎い。
何よりも。そんな彼女に同情されるほど弱い自分が、燃え尽きてしまうほど憎かった。
「貴女に同情されるくらいなら」
死んだほうがましだ。
初めて本気でそう思った。
その瞬間、私の体が燃えた。