君の手を引くのは
子どもの霊は厄介だ、と言います。
道理を知らなければ加減も知らない。一度良くないものになってしまえば、それを止めるのは至難の業でしょう。ましてやそれが集団ともなれば。
「あれ、お父さん?」
やきそばの屋台の前で洋一が後ろを振りかえると、いっしょに歩いていたはずのお父さんがいなかった。人の波を掻き分け、歩いてきた道を戻っても姿が見えない。
このままでは、何も買えない。
今日のお祭りには、お父さんと来るので自分のサイフを持ってきていなかった。家からは歩いて来られる距離だから、帰る分には問題ない。しかしお父さんと合流できなければ、お祭りを一切楽しむことなく帰ることになってしまう。
運営のテントに行けば、放送で呼び出してもらうことはできる。
洋一がお父さんを呼び出してもらわなかったのは、学校の友だちもまず間違いなく祭りに来ているからだった。そんなことをすれば、誰かに聞かれて確実にからかわれる。
自力でお父さんを探そうと、しばらく会場を歩き回る。様々な背格好の人の中に、お父さんの姿はない。
諦めて呼び出しをかけてもらおうとしたところ、彼の背後から呼ぶ声が聞こえた。
「あれ、洋一じゃん」
「……英介か」
うわさをすれば、嫌なタイミングで友達の一人に会ってしまった。今の状況を知られたくはない。
「あっちでお父さん見たけど、一緒に回らないの?」
「えっ、本当!?」
「うん」
どうしようか、と洋一は少し考えた。
迷子だとばれるのは嫌だが、案内してもらえばすぐに合流できるかもしれない。もしこれで会うことができれば、英介にしか迷子になったことが伝わらない。少なくとも、今日のところは。
彼はおしゃべりな方ではないから、本人以外からからかわれることも多分無いはずだ。
「どの辺だった?」
「あっちの方だよ。ついてきて」
英介は洋一の手を取り、人混みの中へと歩き出した。
洋一が「おかしい」と感じたのは、英介に手を引かれしばらく歩いてからのことだった。
英介と共に向かっているのは会場の端で、彼がはぐれた辺りから遠い。こんなところで本当にお父さんを見たのだろうか。もしかして、からかわれているのでは。
彼が英介に声をかけようとしたとき、おかしなものが目に入ってきた。
もう一人の英介が、友だちと一緒に歩いている。
同じ人間が二人もいるはずがない。一人ならよく似た別人と思ったかもしれないけれど、一緒にいる友だちも同じ顔をしている。そんなことはまずありえない。
何がどうなっているのか分からなくなり、足を止めた洋一の方へ英介が振り向く。そして、その目線は、彼の見ているものの方へ。
「なんだ、ばれちゃったのか」
こっちはニセモノ!?
驚きと怖さで手を振り払った彼が後ずさると、英介のニセモノが正体を現した。お餅のように膨らんだ人型のシルエットが、白く細長いものにほどける。
血の気の引いた細い腕、それが無数に絡んだかたまりが洋一の前にいた。
「あーあ、あと少しだったのに」
「いいじゃん、あと少しなら」
かたまりから聞こえる声は、一言ごとに違う。
「無理やり、連れて行けばいい」
その言葉が終わる前に、洋一は走り出していた。
「ははは、鬼ごっこか」
「いいねぇ、この会場は広いし」
「やろうやろう」
後ろから音が聞こえてくる。足音とは違う、何かを引きずるような音。
何だかよく分からないあれが、追いかけてきている。
彼は助けを求めて人の多い方へ走ったが、誰もあの何かに驚く声を上げない。
なぜ、と思う洋一の心を読んだかのように、後ろから声がした。
「不思議に思ってるだろうなぁ。何で大騒ぎにならないのかって」
「僕らは普通の人には見えないからね。特に大人には」
「僕らだけじゃない。僕らの手を取った子も、そうなる」
「僕らの一部になり始める」
「だから、必死に走っても助けてなんてくれないよ。誰もね」
洋一の歯が、カチカチと音を鳴らし始めた。
少しでも多く息をして、走り続けなければならないのに。聞こえてくる言葉が、捕まってしまうことが怖くて震えが止まらない。
「まだ諦めないみたいだよ」
「あきらめなくても、走れなくなる時がくるさ」
「でも、その時まで追いかけるのも面倒じゃない?」
「そうだね。早く諦めてくれないかな」
「僕らの手を取ってしまった時点で、お終いなんだから」
「そうだよ、だから」
「早く僕らの一部になれよ」
最後の一言だけは、いくつもの声が重なって聞こえた。
いつまでも、逃げ続けることはできない。走っている間は追いつかれなかったが、歩いて逃げられるほど遅くはないはずだ。
どうすれば逃げられるのか。頭に思い浮かぶものはない。あの白い腕に飲み込まれる光景が、頭の中をいっぱいにしてしまう。
それでも諦めることなんてできず、逃げ回っていた洋一の目に一つの希望が映った。
これで助からなければ、どうしようもない。
最後の力を振り絞って、彼は走る。
「あっ、まずい」
「声に出すなバカ!」
「急げ!」
「そこが正しい逃げ道だ」という腕の声。
それが聞こえたのか、それとも聞こえないほど夢中で走ったのか。かたまりの手よりもほんの少し先に、洋一の手が届いた。
わずかに遅れたかたまりの白い手は、大きな破裂音と共に弾かれる。
「お父さん!」
「うわ!」
手の弾かれた音に負けない大きさの声。
急に後ろから大きな声が聞こえて、何事かと洋一のお父さんは振り向いた。
「なんだ洋一か、今までどこにいたんだ。ずいぶん探し……顔色が悪いな、どうした」
つい先ほどまで全力で走り続けていたのだから、体調が悪く見えるのも無理はない。息は上がり、汗はしたたり、顔は真っ赤になっている。
「ちょ、ちょっと急いで走りすぎ、たんだ」
「いったいどこから走り出したら、そんなになるんだ」
聞きなれたお父さんの声。
二度と聞けないかもしれなかった、声。
「くっそー、遅かった」
「バラしたのどいつだよ」
「あと少しだったのに」
まだ、あれは近くにいる。
まるで洋一が逃げ切れたかようなことを言っているが、それが正しいとは限らない。お父さんに触れている間だけ、触れることができないのかもしれない。油断させて、もう一度捕まえようとしているのかも。
そう考えると、お父さんとつないだ手に力が入る。
絡んだ腕の一本が彼の方へと伸び、手のひらにある口を向けた。
「『今日は』諦めるよ。でも、いつか君が今日のことを忘れて一人になった時。そうなった時にまた来て、今度こそ連れていく」
「嫌なら、手を離さないようにね」
「余計なこと言うな!」
「さっきのもお前か?」
「うるさいなぁ」
「好きにしゃべらせろよ」
腕同士でけんかをしながら、かたまりは夜の闇へと消えていった。
大人になってもこの経験を忘れなかった洋一は、自分の子どもと夜に出歩く時に決して手を離そうとしなかったそうだ。
あの男の子は何とか、彼らから逃れることができたようですね。運が良かった。
幽霊とはまた違う、かつて子どもだったもの達。
でも、二度目が無いとも限りませんよ。あれは一体だけではないのですから。
ほら、あそこにいる一体が、無数の腕で子どもを指差していますよ。標的を見定めたのでしょう。
「君にきーめた」