『一冊』のための物語
「何だこれ?」
一人の少年が、学校からの帰り道に拾ったノート。
そこに書かれていたのは、どこかの誰かが書いた物語だった。
一枚、また一枚とページをめくる。
特別に上手いわけではないけれど、彼にとってはどこか惹かれるところがあった。
「続きが、読んでみたいなぁ」
「なら、あなたが続きを書いて」
「えっ!?」
言葉と共に、ページから伸びた腕に肩をつかまれ、少年は本の中へと引きずり込まれた。
本の中、物語の舞台となる村で彼を待っていたのは、どこかで見た覚えがある少女。
「ようこそ、私たちの物語へ」
彼女は、この世界の核となるキャラクター。読者や作者のいるメタ世界に干渉することができる。
書きかけのまま、作者の手を離れてしまったこの物語に、作者の代わりとして続きを書いて欲しい。それが彼女の望みであり、少年をこの世界に連れてきた理由だった。
「書いた本人じゃなくても、いいの?」
「それは大丈夫。だって、この話の事を好きだと思ってくれているんでしょ?」
それなら、これを使えるはず。
彼女がそう言うと、空中に一本のペンが現れた。この世界を描き出し、上書きによって書き換える事もできる「作者のペン」。
手に取ってはみたものの、少年にはそれをどう使えば良いか分からなかった。少女に促されるまま振るってみれば、流されて使えない状態だった木造の橋が、石造りの頑丈なものに変化する。
「ほらね、あなたにも使えた」
――――
「村の外がぼんやりしてるの、つまらないなぁ」
少年がペンを手に取り、サラサラと走らせる。
小さな村が舞台のこの話には、その外側が存在しない。輪郭が滲み、その時々に違う風景が見えるだけで、そこに足を踏み入れることはできない。
小さな山を書き上げた彼がそこに行こうとしたとき、後ろから大きな声が聞こえてきた。
「大変よ!」
「どうしたの?」
「外から急に人が来たの!」
「ああ、ついさっき書いたからね」
急に外界が出現した事に驚いたのか、と彼は考えた。
違う違う、と彼女は首を振る。
「そうじゃないの。その人は『自分は徴税官だ。税金を取りに来た』って言って」
「えっ」
「あんまり偉そうにするから、怒ったみんながその人を捕まえちゃったの!」
「ええーっ!?」
――――
「何で野宿してんの?」
「家を書いてもらえなかったんですよ……」
ここの住人でありながら、家に関する記述が無いまま作者の手を離れたため、彼には自宅が無かった。
「じゃあ、家を書こうか」
「あ、ちょっと待ってください。ひとつ注文をつけさせてくれませんか?」
「うん?」
「ラジオを一台、置いてください」
「……この世界、ラジオってあるの?」
そもそも、電気があるようには見えない。照明はランプやろうそくで、電話や電線も見た事が無かった。
「よそにはあるかもしれないけれど、ここにそういうおしゃれなものは、まだ無いの。もし無かったとしても、あなたがあると書いたら、あるという事になるわ」
「いい加減だなぁ」
「そう。読者や作者に、私達は強く影響されるの」
少女は、ペンを握った少年の手を取る。
「だから、あなたがこのペンをよく考えて使ってね」
「たいへんな物を任されちゃったなぁ」
――――
楽しい時間は終わりを告げる。ある日からここに、『影』が現れるようになった。
それらは呪いを撒き散らし、この世界やそこに住む人々を消してしまう。
一体や二体なら、ペンの力で排除する事もできた。
しかし、『影』は現れるたびに数を増やしていく。
少年もペンの扱いに慣れ、対応できる数を増やしていったが、『影』の増加に追いつく事ができなかった。
世界そのものも蚕食され始め、とうとう彼らは追い詰められる。
迫る『影』たちをペンの力で押し返そうとする少年。その背後には、この世界の要たる少女。
「もう、もう良いよ……。ここまでしてくれて、嬉しかった」
少女は手に、一冊の本を出現させた。それは外の世界へと繋がる、この物語自体の分け身。
「お願い、手遅れになる前に帰って。あなたを道連れにしたくない」
少年は、彼女を振り返らず応える。
「今さら……、今さらできる訳ないだろ!」
ペンを振るう手は止まらない。叫びと共に、速さを増していく。
「この話は、僕のものだ」
あの日はまだ、誰かのものだった。けれど、今はもう違う。彼女からペンを受け取り、ずっとこの世界を描いてきた。
「どうなるかは、僕が決める。だれにも、だれにも渡さない!」
『影』の重圧は、刻一刻と重くなる。少年が必死に振るうペンの力はそれを押し返し、少しの間だけ拮抗してみせた。ほんの、少しだけ。
拮抗は再び崩れ、終わりが彼らに訪れた。
「……ごめんなさい」
――――
人気のないゴミ捨て場。結束のゆるい本の束から、一冊の本が零れ落ちる。
何かが動かしているかのように動く、その本。風もないのにページがめくれ、何かが飛び出してくる。
「ここが、あいつらの来る場所か。……なんか見覚えがあるな」
かつて愛した世界と、運命を共にしたはずの少年がそこに立っていた。
「どのくらい、『書き変え』が利くんだろう」
人差し指の先から、光るものが飛び出す。獣の爪のように尖った、ペンの先。
彼は指先を小刻みに動かしながら、指揮者のように軽く振った。パチリ、と何かが弾けたような音が鳴る。
「無いものを出したりするのは、無理か。じゃあこれなら……」
再び彼が手を振ると、突風が吹き周囲に落ちていた紙を巻き上げた。
ひらひらと周囲で紙が舞う中、三度彼が手を振れば、風が紙を切り裂く。
「元からあるものなら動かせる、か」
あの日から、途方もなく長い時間が過ぎた。
『影』はあの話を塗り潰し消滅させたが、外から来た彼だけはその影響を受けなかったのだ。
どことも知れぬ異様な空間に放り出され、頼れるのは手に握ったペンのみ。
作者としての力で混沌の中に世界を創り、そこを足場に別の世界へと渡り、あの『影』が居る場所を目指し旅をした。その終着点が、この世界。
少年は、『影』を追う旅の中でその正体を掴んでいる。
あれは、読者の感情の集合体。撒いていた呪いの言葉も、今の彼には意味が分かる。
「つまらない」「くだらない」「幼稚だ」
ひとつひとつは小さな、そんな思いがあの『影』を生み出した。
「つまらない、か」
あの『影』を根絶したいなら、この世界からそんな思いを根絶する必要がある。つまり、この世界を『面白く』すればいいという事だ。
どうすれば『面白い』のかも、ここに来るまでに理解している。
血、汗、涙。これらの流れる出来事を起こせばいい。つまり、争いを引き起こせばいいという事だ。
人と人との不和、使われないままの兵器。あちこちにある火種の存在が、彼には分かる。火種そのものこそ作り出せないが、ペンの力で火種を大きな炎にするのは簡単なことだ。
「そんな事、二度と言えないようにしてやる」
少年は、あまりにも長い時間を向こう側で過ごした。彼の体はもう、人間の時間を刻んでいない。
『面白いこと』で、この世界を満たそう。時間はいくらでもある。
そしてもし、それが実現したなら。『影』がいなくなったなら。
そうなったらまた向こうに戻って、話を書こう。あの話で過ごした日々を元に。
少年は片方の手を、いつの間にか手と一体化していたペンを撫でる。記憶以外にもうひとつ、彼の手元に残ったもの。
消えてしまったあの世界が戻ってくる訳ではないけれど、よく似た世界をまた創ることはできる。そうなったらあの時、言えなかった事を伝えたい。
「『ごめんなんて、言って欲しくなかった』なんて言ったら、あの子はどんな顔をするかな」
毎日見ていた君の顔が、もう一度見たい。