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[追憶] 『石ころ』の願い(Ⅱ)

 月日が経ち、住む世界は大きく変わった。

 学校が変わり、先生が変わり、クラスメイトが変わり、子どもは成長して少年になっていた。

 そんな中で、少年の心だけは変わっていなかった。

 新しくなった環境でも、少年は『普通』を志した。

 テストでは平均点をとり、スポーツでは目立たないようにし、部活には所属せず、彼女を作ろうと躍起になることもなかった。

 強くなった体を、蓄えられていく知識を、どんなことでも可能にしてしまう自らの特技をひた隠しにして、少年は平凡な自分を演じ続けた。

 それでよかった。少年にとって、誰にも羨まれず、誰にも恨まれない『普通』でいることだけが、世界に居場所を手に入れるたった1つの方法だったんだ。


 けれど、そうして手に入った普通の日常も長くは続かなかった。

 1人、また1人と――それまで仲良くしていた友人たちが、ある時を境に再び離れていってしまったのだ。

 突然のことに困惑するしかなかった少年には、理由を聞くことも、引き止めることも、選択肢には挙がらなかった。ただうろたえて、去っていく背中を黙って見ているだけだった。

 最後の友人が絶縁を伝えてきた時、ようやく少年は訳を尋ねることができた。

 返ってきた友人の答えはこうだった。


「だって……お前、オレらのこと内心見下してるだろ?」


 今度こそ少年は理解が及ばなかった。


「何言ってるんだ? そんなことしてるわけない」

「でも、みんな言ってるぜ? お前、本当はもっとすごいくせに、いろんなことで全然本気出してないってさ。体育の授業のときなんか、言われてみればって思ったし。そうやってわざと下手な振りしてさぁ、オレらに合わせてやってるとか思ってるんだろ?」

「そんなわけ……!」

「とにかく、お前みたいな腹黒いやつなんかとは付き合えない。じゃあな」


 少年は頭が真っ白になるのを感じた。

 どうして。なぜ急に? 誰だ? そんなひどいことを言ったのは。

 そうだ。言われた通りだ。自分は手を抜いている。合わせてやっている。『特別』な自分を恨んで(ひが)んで拒絶した『普通』なやつらを見下している。

 でも、それの何が悪いんだ?

 だって、そうしなければみんな離れていくんだろう? 『特別』が拒絶されるなら、演技でもして『普通』に溶け込むしかないだろう?

 なのに、なんで、『普通』の自分さえも拒絶されてしまうんだ!

 少年の慟哭(どうこく)は、誰に届くこともなく空へと吸い込まれていった。


 人の輪から拒絶された少年に、次に待っていたのは迫害だった。

 陰口を言われているのを聞いた。

 話しかけても無視されるようになった。

 みんなで何かするときは、自分1人だけ絶対に仲間外れだった。

 

 少年は怒り、歯噛みし、(なげ)き、悲しんだ。

 けれど――無計画に、無軌道に、無邪気に、無条件に、無尽蔵に――繰り返される悪意のすべてに(いきどお)っていてはキリがないと、聡明な少年はすぐに悟って気持ちを切り替えた。

 どうせ『普通』の自分からすら離れていくような連中なんだ。放っておけばすぐに飽きてやめるだろう。

 ならば、耐えていればいい。我慢していればいい。気が済むまでやらせておけばいい。

 ――黙っていれば、こんな茶番もきっとすぐに終わるはずだから。

 少年の覚悟は定まった。同時にその未来も定まった。

 結局少年は最後まで、人の輪の中に居続ける努力だけはしなかった。


 少年の思惑とは裏腹に、攻め立てる悪意は激しさを増していった。

 何をされても態度を変えず、顔色を変えず、立場を変えようともしない少年は――周りを囲う者たちにとって不満と嫌悪を(つの)らせる対象であり、同時に、溜め込んだ悪意を叩きつけるかっこうの(まと)だったのだ。

 いつしか少年の周囲には、学びの本分を忘れ悪法に酔いしれる問題児たちがうろつき始めた。

 アウトローを好ましく思う派手めな女生徒か。疑似的な指揮権さえ持つクラスの中心人物か。あるいは何もしないことで余計に他人の神経を逆撫(さかな)でる己自身か。誰が呼んだか定かではなくとも、そのことが意味する末路は変わらなかった。

 少年を襲う嫌がらせは、暴力が主体となり始めた。

 すれ違えば肩をぶつけられ、階段から蹴落とされ、顔を合わせれば殴られ、果てには校舎裏で私刑を受けた。

 まぶたは腫れ、青アザを作り、足を引きずる毎日だった。

 周囲が向ける感情も嫌悪から軽蔑へと様変わりし、陰口の代わりに嘲笑する声ばかりが少年を囲んだ。

 無惨な少年の有様には、誰もが(した)った『特別』の面影はつゆばかりも見えなくなった。


 それでも少年は(くじ)けなかった。

 耐え続け、(こら)え続け、我慢し続け、決して(あわ)れな自分に絶望しなかった。

 それはひとえに、見栄やプライドという下賤な感情の賜物。

 泣いて(わめ)けば『普通』以下の何かに成り下がる――そのことへの忌避が生んだ、少年の最後の砦だった。

『特別』じゃなくていい。みんなと違ったっていい。

 階層の一番下でも、列の一番後ろでも、教室の一番片隅でも構わない。

 けれど、どうか『普通』でいることだけは、許してくれ。

 人として生きるための、大切な何かだけは、奪わないでくれ。

 傷だらけの心と体を引きずりながら、少年はそれでも『普通』であることを渇望した。

 世界に自分の存在を告げる――たった1つの手段に、(すが)りついた。

 

 砦を突き崩したのは、クラスメイトでも、不良生徒でも、教師でも、学校という環境でもなかった。

 それは『普通』に縋る少年を生んだモノ。

 少年の生き方を決定づけた、最初にして唯一の存在。


「あんた、本当に大丈夫なの?」


 今日も少年は、『普通』を絵に描いたようなその人から平凡で特徴のない言葉を受けた。

 頬の絆創膏を取り替えながら、少年は乾いた笑みで答えた。


「大丈夫だよ、()()()。まあ……なんとかなってるから」

「本当につらくなったら言うのよ? 先生に相談してあげるから」


 当たりも(さわ)りも、立つ角も、子を想う親以上の要素もない、当然にして型通りの心配。

『普通』という存在のステレオタイプを見ているかのような、安心感と気味の悪さに複雑な感情を覚えつつ、少年は逃げるように私室へと駆け込んだ。


 少年にとって、両親の存在こそ呪縛であり()(どころ)であった。

『普通』の基準も、正しさも、『普通でない』ことへの恐怖心も、すべて彼らから学んだことであった。

 両親(ふつう)のもとに帰るたび、少年は己の在り方を見定めた。この『普通(おや)』の子ならば『普通()()あるべし、と己の意思で自らを呪った。

 すなわちは、もしも彼らが『普通』でなくなった時。それこそは『普通』でいなければならないという、少年の存在意義さえも根本から打ち砕くことに直結するのだ。


 ある夜。奇妙な寝苦しさに(さいな)まれ、少年は静かに私室を抜け出した。

 気分を鎮める手段を求めて、少年は居間に台所――それがありそうな場所を探る。

 途中、ふと明かりがついている部屋を見つけ、近付いて聞き耳を立てた。

『普通』ではない時間。そこでは『普通』でしかないはずの(もの)たちが、『普通』ではない会話をしていた。


「もう嫌よッ!」


 湿った声を震わせて、母は頭を抱えていた。


「あの子、親の私にまで愛想笑いするのよッ!? あんなになっても助けを呼ばないの! 誰も信じていないのよッ!」


 母は間違いなく、少年についての耐えきれない不満を吐き出していた。


「もう耐えられない! あの目に見られたくない! これ以上、あんな子と一緒になんて……いたくない……!」


 泣き崩れ、嗚咽を漏らす母の背を、父は懸命に撫でさすっていた。

 2人の姿は『普通』ではなかった。

 自分たちを襲った『特別』な事態に、何をするでもなく嘆くしかない、無力な『何か』に成り下がっていた。


 母の涙は、震えた声は、叫ばれたその言葉は、扉の向こうで聞いていた少年の心にまで突き刺さった。

 親の本音。自分が2人の『普通』を壊してしまった罪悪感。そして、叫ばれた言葉が示す意味。すべてが少年の心を等しく激しく打ちつけた。


 その時になって、少年はようやく理解した。

 なんでもできると思っていた。

 不可能なんてないと思っていた。

 けれど、自分にはたった1つ――できていないことがあったのだ。


 それは、誰かを信じること。

 誰かに助けを求めること。

 誰かに手を伸ばすこと。

『特別』でも、『普通』でもない、ただ1人の自分自身を、受け入れてくれる人を捜すこと。


『特別』になって周りの目を引くことも、『普通』になって周りに溶け込もうとすることも、意味なんてなかった。

 ありのままの自分を認めてくれる人を、探して、見つけて、「一緒にいてくれ」と言うことだけが必要だった。

 それができない自分には、最初から人の輪に入る資格なんてなかった。

 いくら大きくなろうと、いくら自分を飾ろうと――

 誰にも声をかけないまま、手足を動かすことのないまま、誰かに見つけてもらうのを待っていただけの自分は――人ではない。



 路傍に転がる、ただの『石ころ』だったのだ。



 諦念。後悔。無力感。絶望。

 自身のすべてを理解してしまった少年の心は、この時を境に壊れて折れて砕け散った。

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