第2話 消えた尽雷(Ⅱ)
ジリリリリリリリッ!
けたたましいベルの音で俺は目を覚ました。
朝……か。
カーテンからこぼれてくる光すらないから、起床のリズムというものはいつになっても掴めない。こういうところだけは地下暮らしのデメリットに感じるな。
毎朝目覚ましより早く起きて、家事をこなしながら俺を叩き起こしてくれていたマルクのことは、今になって本当に尊敬するよ。
まだ覚醒しきらない意識を引っ張り起こしながら、ソファのひじ掛けのあたりをまさぐり――
――バシンッ!
音の振動で本体まで揺れてる目覚まし時計を、無造作に叩いて止める。
虚ろな瞼を開いて針を見ると、時刻はいつもの起床より1時間ほど早い。
二度寝するか……?
……いや、そういえば今日は、朝から依頼が入ってるんだった。悠長にしてはいられないな。
「うぅ――んん……」
1つ大きな伸びをして、手近にあった服を手に脱衣所へと向かう。
これはソファ生活のデメリット。部屋をシリウスに占領されちゃったから仕方ないことだけど、せめて着替えスペースくらいはほしいと願うよ。どうせ顔を洗うついでにその場で着替えるし、そもそも慣れたから別にいいけどさ。
……寝起きだと、悪いところばかりが目について困るな。さっさと気合を取り戻そう。
(さて……)
身支度を済ませ、眠気覚ましにコーヒーを淹れてから……
俺はとあるドアの前に行き、ここに立つたびに毎回やってる瞑想タイムに入った。
二度三度深呼吸して、心頭滅却。心を落ち着かせる。
こうでもしないと、この部屋に俺が1人で入るのは危険すぎるのである。
本当なら、そもそも入らずに済むのが一番なんだが……どうせ今日もそういうわけにはいかないだろうからな……
コン、コン、コン。
音が大きく響くよう、少し強めにノックしてみる。
……が、シーン。やはりドアの向こうから返事はない。
行くしかない、か……
「……入るぞー?」
しっかりと確認を取って、ドアノブを回す。
覚悟を決めて、一歩踏み入れた俺へと向かってやってくるのは――まずはじめに、光でも空気でもなく、匂い。香りだ。
甘酸っぱくてクセになる、バニラみたいな特上の香り。部屋いっぱいに充満した女の子の匂いが、鼻孔をくすぐって蕩かそうとしてくる。
それだけでも頭がどうにかなりそうなのに、続いては風のように清涼な空気が口腔から肺へと透き通っていく。同じ地下にいるはずなのにこの差は一体なんなんだ。
そしてトドメを刺す視覚は、一拍遅れてやってくる。
部屋の中は、真っ暗ではなく薄暗い。簡素な机の上に置いてあるランプが、常夜灯代わりに部屋を仄かな明るさで照らしているからだ。
俺は真っ暗じゃないとなかなか寝つけないタイプなんだが、逆にこの部屋の主はこれくらい明るくないと寝られない性質らしい。世の中人それぞれだよな。
おかげで灯りをつけなくても十分見渡せる部屋の中は、ざっと六畳間程度の広さ。寝起きするだけの、本当の意味での寝室だからこんなもんだろう。家具も本を読むための机とクローゼット、ベッドくらいしかない。
そんなシンプルイズベストな部屋で恐る恐る視線を動かし、真っ白なシーツを被ったベッドに目を向けると……
いた。いましたよ。
我が家の眠り姫――メイリが。
白百合の花畑のようなそこで、穏やかに寝息を立てるお姫様は――
意外にも、あまり寝相がいい方ではないらしい。横向きに寝てこちらに背を向け、抱き枕みたく丸めた毛布にしがみつくような姿勢で眠っていた。
おかげで目の毒な、薄っぺらいネグリジェの前面が隠れて見えないのはいいことなのだが……
代わりに、毛布の面積が仕事していない後ろ側はフルオープン。丸まった背中と、こんなところまで白くキレイなひざ裏、そしてその、えっと……スカート部分がめくれてモロに出てしまっている、逆三角形のイケナイ布までが全部視界内で激しい主張をしている。
ここ数日、ほとんど毎日この光景を目にすることになってるけど……これを見慣れることは一生ない気がする。こんなのと一緒に何か月も寝てて手を出さなかったマルクには、再度敬礼だよ。
「……メイリ。朝だぞ」
ベッド脇でひざ立ちになり、呼びかける。
朝に弱いメイリの、起床の手伝い。これが俺の、最近の日課だ。
今まではずっと、マルクがやっていた……な。
(もう2週間、か……)
2週間。マルクが姿を消してから、今日までに経った時間だ。
あれからというもの、マルクが帰ってくる様子は一向にない。連絡も完全に途絶えてしまっている。何かマズいことが起こったんじゃないかという危惧は、とうの昔から生まれていた。
けれども、だからといって俺たちには何をどうこうする術もなく……マルクの現在に気をもみつつも、どうすることもできない歯がゆさに苛まれながら、ただ日々を生きている。
慣れというのは恐ろしいもので、そんな日常が続くうちに、マルクをルーチンから外した生活の流れが自然と作られていった。
俺のこの日課も、そんな事情で生まれてしまった悲しい仕事の1つだ。そう思うとやる気も失せちゃうから、あまり考えないようにしているが。
「ほら、起きろって。仕事に間に合わなくなるぞ」
突如として降って湧いた寂寥感を、頭の隅に追いやりながら――俺はそっとメイリの肩を揺らした。
何もなければもう少しくらい寝かせてやりたいところだけど、今日ばかりは大目に見てやるわけにもいかないからな。
「……んん……」
体を揺さぶられる違和感からか、メイリは唸るようにのどを鳴らした。
「ん……あと5分……」
「またベタな……」
半分寝言みたいな声に苦笑がこみ上げてきたが、それはそれとしてこれ以上は寝かせてやれない。
もう一度、ちゃんと起こしてやろうと肩に手を伸ばす。
しかしその手が――ぐいっ。
寝ぼけているのか……寝転がったままのメイリに突然掴まれ、強引に引っ張られた。
「うわっ……!?」
ドサッ。
予想だにしていなかった不意打ちと、その力が思った以上に強かったのも相まって、俺はなんの抵抗もできないままにベッドの上に引き込まれる。
枕元に手をついて、そのままのしかかってしまうことだけはなんとか避けたものの……
俺の腕を抱いたまま、仰向けになったメイリ。その美貌は、目の前だ。
いつぞやにも、こうしてメイリと鼻と鼻が触れ合う距離にまで接近したことがあった気がするが……
あの時にも思ったことだが、そうとしか表現できないくらい、本当に、本当に……メイリの顔は、キレイで。
真っ白な肌、流麗な頬のライン、そして微かに吐息を漏らす、柔らかそうなピンクの唇。
女神を描いた傑作の絵画でさえも、横に並べば霞んでしまいそうな――この世のものとは思えないその造形に、俺はしばらく我も忘れて見入ってしまっていた。
その上、あの時とは違って今のメイリは目を閉じている。
まるで何かを待っているかのように、無警戒の無防備だ。少し触れたくらいでは気付かれることもないだろう。
もしもこのまま、勢いのままに身を任せてしまったら。
このままあと数センチ。顔を下に下げたとしたら……一体どれほど至上の幸福が得られることだろうか。
そんな邪な願望が、一瞬頭の中で鎌首をもたげ――
「……んっ……」
それを察知したかのように、メイリが眉根を寄せた。
おかげで俺も我に返ることができたが、依然として腕に抱きつかれたままなので身動きが取れない。
ほどなくしてメイリが瞼を開き――とろんと虚ろなその瞳と視線が交差した。
「ナユ……タ……?」
「……お……おはよう」
「…………」
「…………」
ぱちくり。
何度かの瞬きと、呼吸が止まったかのような沈黙を挟んで――
唐突に、キッ! ほんの少し頬に朱を乗せた、メイリの両目に鋭い眼光が宿った。
「――不快っ」
「ぎゃーすっ!?」
そして繰り出された強烈な突風により、俺はベッドから突き飛ばされて床を転がることとなるのだった。
……なあ。
さすがに理不尽じゃないか? この流れ。




