ラブストーリーは必然に
朝だ……。鳥が囀ってる……。結局一睡も出来なかった訳だけど……寝れるわけないよね、これ。レギュラーサイズの布団に二人はやっぱり狭かったし、どう体勢を入れ替えても密着状態に持ち込まれるからレスリングで言ったらもう完全にフォール負けしている。
それでも頑張って寝ようとはした。したんだ。そうしないと理性という牙城を崩そうとする煩悩がけたたましく襲い掛かって来るから。
ただ。密着から感じる体温。漏れ聞こえる吐息。加齢臭をも吹き飛ばすシャンプーと謎の良い匂い……あらゆる感覚器を刺激された結果、健闘虚しく眠気は完全に抹消された。
何度か布団から出ようともしたんだけど、服を掴まれたり腕に抱き付いてきたりと悉くそれを阻止されてしまった。そんなんだから本当は起きてるんじゃないかって思いもしたけど、終始寝息が聞こえているもんだから変に声もかけられなかった。
自分の寝床でこんなに落ち着かなかったのは初めてだ。仕事柄、徹夜とかザラだから寝ない事に関しては耐性がある方だと思うんだけど、今回はそれとは比にならない心労を感じている。
俺が狼だったらどんなに楽だったか……。まぁ、ここで俺が狼なんてなってたら大家さんという猟師に抹殺されてただろうから、草食であることを恥じる必要はないでしょう。頑張ったな、俺。
「ん?おっ」
左腕に訪れる解放感。ようやく雪音ちゃんのホールドが解けたみたいだ。後半はずっと腕組み状態だったから関節から下の感覚が痺れて無い。手先はもうすでに末端まで冷たい。どんだけ強い抱擁だったんだ雪音ちゃんよ……。手、壊死してないよね……?
まぁ取りあえず動けるようになったしちょっと一服でも……って切れてるじゃねーの。
「はぁ……自販に行きますか」
上着羽織り、雪音ちゃんを起こさないように静かーに家を出る。それにしても、ずっと同じ体勢だったからか体がバッキバキになってて一動作一動作がぎこちないな。このバキバキ加減は連日の執筆でも味わった事ないかもしれん。
「んんーーーっ!!」
まだ薄明りの朝の中で伸びをしてみる。大丈夫かな?っていうぐらい骨が鳴ったけど、それはまぁ心地いい。
朝に外出てストレッチなんてこんな健康的なこと久しくやってないな。まぁ完徹状態だから健康的では一切ないんだけれども。
寝てないせいなのか、一連の事で心乱されているせいなのか。どうにも思考がまとまらないな。……取りあえず1本吸って落ち着こう。
「えっとタスポはどこだっけなー」
「三淵和生さん……でしょうか?」
「はい?」
不意に名前を呼ばれて恍けた感じでそっちを振り向くと、スーツ姿の気品あるご婦人がこれまた気品ある佇まいで俺の方を向いて立っていた。薄明りとは言え自販の明かりもあるから顔ははっきりと見えるけど、俺の貧相な記憶に間違いがなければ見覚えはない人だ。
「三淵和生さんでいらっしゃいますか?」
「あ、はい。そうですけど、どちら様でしょうか?」
「突然の訪問ごめんなさい。私、『ほしの家』の施設長の長倉です」
親切丁寧にお辞儀をされたんで、思わず俺も深々とお辞儀を返してしまった。誰だろう……?セールスとか何かかな?だとしたらこんな明け方から随分と仕事熱心なことで。
でも『ほしの家』の施設長とかって名乗ったけど一体どういう……ん?『ほしの家』?なんかそれは聞き覚えのあるワードだな。『ほしの家』……『ほしの家』……
「あっ!『ほしの家』!?」
「はい」
「『ほしの家』って俺がボランティアで行ったあの『ほしの家』ですか!?」
「思い出して頂けましたか」
「あーいやーその節はどうも」
思い出した。『ほしの家』って俺がボランティアサークルで行ったあの児童養護施設じゃねぇか。目の前にいる長倉さんも当時色々案内とか説明してくれてた人じゃん。何が見覚えのない人だ。完全に貧相な記憶じゃねぇか!
「ふふふ。いいんですよ無理はなさらなくて。もう10年くらいになりますか。あの時はボランティアって言ってもほんの1、2時間のものでしたからね。覚えている方が難しいですよ」
「今思い出したのはホントです……」
「いえ。責めてる訳ではないですよ。三淵さんにお話があって突然訪ねたのはこちらなのですから恐縮なさらないで下さい」
「え?俺に話ですか?」
「えぇ。もう分かってるとは思うのですけれど」
え?何その意味深な問いかけは?もう分かってるとはって、何も分かってないですよ?ちょっとやそっとの事で「ははーん。なるほどね」などと察する事が出来る読解力は持ち合わせてないです。
自分でも知らない所で俺なにか不手際不祥事でもしたのか?いやいや。それは無いと思う。そう信じてる。そもそも10年前のボランティア先で何かやらかしてたとしても今頃になって尋ねてくるか?いや、尋ねまい。心の中の自己弁解が止まらないです。
「えっとすいません。皆目見当もついてないんですが……」
「何も聞いてませんか?」
「え?誰にですか?」
「雪音にです」
「雪音ちゃん?……雪音ちゃん!?」
「そのご様子だと本当に何も知らないのですね」
「え?え?雪音ちゃんとどういったご関係で?もしかしてお母様ですか!?」
「ある意味では親みたいなものですね。あの子はウチの施設の子ですから」
「ウチの施設って、『ほしの家』の?」
「えぇ。そうです」
まさかのまさかですか。いやそうだよね。冷静に考えれば児童養護施設のこの方が俺の所に来た理由なんておおよそ決まってはいるよね。何テンパってお母様とか言ってんの俺?学校の先生をお母さんって呼ぶぐらい恥ずかしいわ!
「そうですか。いや今雪音ちゃんはウチにいますけど……って違いますよ!?決して連れ込んだとかそういうんじゃなくてですね!?」
「ふふ。そんなに慌てなくてもちゃんと分かっていますよ」
「あ。そうですか。記憶に新しいところで大家さんに思いっ切り誤解されたばかりなのでつい」
「色々とご迷惑かけているようでごめんなさい。雪音は今どうしてますか?」
「今は寝てますよ。あの、雪音ちゃんはどうして俺なんかの所に?」
「……あの子が自分からまだ何も言っていないのなら私からお伝えすることは難しいです。今この時はまだあの子を尊重したいと思っていますので」
ここで何も教えてくれないんですか?まさかのお預けですか?それは無いですよー。もう答え合わせでもいいんじゃないですかー。どっぷりと巻き込まれてるんだから教えてもらえてもバチは当たらないと思うんだけどなー。
……って、そんなみっともなくゴネても仕方ないのは分かってる。釈然とはしないけど、尊重するだのなんだのって何かやんごとない事情もありそうだし。巻き込まれているとは言え、ずけずけとそこに入り込んでいく度量も度胸も俺にはない。
「そうですか……いや、あーうん。しゃーないですよね」
「ごめんなさい。関係者なのに何もしない形になってしまって。でも三淵さん……今のあの子にはあなたが一番重要な人なんです。身勝手なお願いなんですが、もう少しだけお願いします」
「え?いや!そんな頭なんて下げないで下さい!全く何も飲み込めてないけど、頭下げられるほど気に病んではいないですから」
「私からは何もお話しはできませんけど、代わりにこれを」
「なんですかこれ?封筒?」
「あの子から預かっていたものですが、これは三淵さんに渡しておきます」
「これはどうすれば……?」
「お任せします。ごめんなさい。私はこれで失礼しますね」
行ってしまった……。何だったんだろうか。謎しか残ってない。なんか落ち着いて一服っていう気分じゃなくなってしまったし……うーん。朝冷えもするし、取りあえず戻るか。
さっきまではバッキバキで体が重かったけど、今はなんだか気が重い。何もわからなかったとはいえ、あんな含みを持たせた問答されちゃ本件の事案は暗礁に乗り上げてますよ。
あー……もう。このドア開けるのにも気が重いなー。自分の部屋戻るのってこんなに一苦労だったっけ?
参っちゃうなホント。
「ふぅ。ただいま~っと」
小声で帰途を報告してみたけど、応答はなし。さっきと変わらない薄暗さの部屋でまだ小さな寝息が聞こえる。雪音ちゃんはまだ寝てるみたいだ。
取りあえず起こさぬよう抜き足差し足で定位置であるいつもの座椅子へ。タバコは断念した分コーヒーでも淹れてブレイクしたいとこだけど、作業音が出るからダメだな。それは大人しく諦めよう。
「……」
とりあえず心の小休止てな感じで腰を下ろしてみたものの、これはこれで逆に落ち着かない。そもそも、静寂の中で物思いに耽れる玄人タイプの人間じゃなかったわ俺。
何しても落ち着かないなら現状の整理だけでもしとくか。さすがにこのままのらりくらりと流れのままにって訳にはいかないだろうし。
そもそも雪音ちゃんがあそこの施設の出身だということに普通に驚いてるんだけど、だからこそ尚更分からない。そこから俺に結び付く因果関係がさっぱりだからもうすでに行き詰ってるのは否めないんだけど、でも少なくとも俺と雪音ちゃんと『ほしの家』は無関係ではなくどこかで繋がっているのは間違いが無いことなんであろう。
でも早押しクイズみたいにすぐに心当たりが出てこないし出せない。人違いって線はないのかな?でもついさっき長倉さんを忘却の彼方へ追いやっていたのもあるから、ただ単純に俺に老いの波が押し寄せている可能性もあるっちゃある。まだ30代。それはそうであってほしくないって切に思うけど……。
でも、確実に雪音ちゃんは俺を俺だと認識してここまで来ているわけだから、やっぱりどこかで会っているのか……?それに長倉さんのあの『今はまだ尊重したい』って言葉もどこか意味深だし。今はって何か期間的な事があるって事なのだろうか?
もう色々と分からないんだけど、うら若き乙女のなにか大事な人生選択をこんな中途半端な物書きに一任しちゃダメだと思うな。
とにかく。俺と雪音ちゃんの関連性を紐解くのが答えへの最善の道のような気がするんだけど、情けない話完全にお手上げ状態なんだよなー。
「……答えへのピースってか?」
受け取ったこの封筒。手掛かりというかもう突破口はこれしか無い気がする。ただ、持ってる感じペラペラなこれに過度な期待が出来ないのもまた事実。
うーん、まぁ四の五も言ってられんか。見て大損ってことはないだろうし、中身確認してからまた考えようじゃありませんか。
「んーっと?中身は……写真?」
中にはポラロイドの写真が一枚。真新しいものじゃなく、所々ヨレていたり何かが滲んだりしたような跡もある。多分、何度も手に取って触ったかのようなそんな褪せ具合な気がする。
そしてビックリ仰天。そこに写ってるのは紛れもなく昔の俺だった。顔半分が前髪で隠れた一人の女の子の横で、どうにもぎこちない笑顔を貼り付けて親指を立てて写っている。写真写りの悪さには自信があるけども、こんな必死な被写体は見てるこっちがなんか恥ずかしくなるな。
「これは……あの時のだよな?」
この写真を撮った覚えはある。これは『ほしの家』でのボランティア訪問の時に撮ったやつだ。忘れるはずもない。なんたって俺の小説デビュー作の題材になってるものなんだから。
当時俺がいたサークルで定期的にやっていたボランティア活動。創作で演劇をしていて、それをイベントや施設訪問なんかで披露していた。そこで俺は脚本と台本を担当させられていて、新作発表の時は毎回観覧している人たちの反応にビクビクしていたのは今でも懐かしい。
あの時は確か、『ほしの家』から直接依頼をされて慰問公演という形でお邪魔した。活動の中心が主に町内会の催しであったり老人ホームの行事であったりした俺らにとって、観客がみんな子供たちっていうのは初めての事だった。
披露できる演目はそこそこに持ってはいたのだけれど子供向けっていうのは無く、二演目を依頼されていたのだがその両方をそれ用に書き下ろした記憶がある。色んな境遇の子がいるって思うと何がウケるのかそれこそ寝ないで悩んで台本を作ったのだけれど、意外にや意外、当日は二作とも大好評だった。柄にもなく舞台袖でガッツポーズをしたぐらいあれは嬉しかった。
子ども達の反応が嬉しくてつい袖から客席の方を見ていたのだけれど、そこに一人だけ周りとは違う反応の子がいた。いや。正確には反応が違うじゃなくて反応が無かった、が正解かな。ウケるウケない以前に、その子は劇を見ていなかった。顔は舞台の方を向いていたけど、今目の前に行われている事なんかまるで目に映っていないんじゃないか思わせられる雰囲気だった。前髪で隠れるそこから時折覗かせる目には、実際何も感情が入っていないようにも見えた。
気になった。自分の作品に対しての反応とかじゃなくて、見てるようで見ていないその子の目に何があるのかが気になってしまった。普段はお節介を焼くのも何かに首を突っ込むのもしない俺が、誰かの何かに踏み込むって事をしたのは後にも先にもあれだけだったと思う。
公演が終わって少しの自由時間に俺はその子の所に行ったのだけれども、その時俺はすっかり忘れていた。自分のコミュ力の低レベルさを。近付くものの笑顔はぎこちない、気の利いた事も口から出ない、テンパって無駄な動作が増える……もう悲惨だった。その子も少しの間は俺の方を向いてはいたけれど、挙動不審としか言えない男から目線を切るようにそのまま俯いてしまった。
ご察しの通り、もうすでにそこからDT道のど真ん中を歩いてる事になるんだけど、今はそれは置いておこう。
それから帰るまでの小一時間、自分でも何でそうしたのか分からないけど、うずくまるように膝を抱えて体育座りをするその子の横で肩を並べるように俺は正座をしていた。場を繋ごうと10分間隔で一問一答みたいな声かけをした記憶もある。
……今思うとそれって完全にカテゴリーが変質者じゃないか、俺?もしかするとそれで引いてた可能性もある。……まぁ、それも一旦置いておこう。
まともに会話も出来ないまま時間が来てしまい、心残りがあるまま帰る準備をしようとした時に事件が起きた。小一時間も正座などしていたからさも当然の如く足が痺れていて、わっかりやすく体勢を崩した俺は横にいたその子に覆い被さるように押し倒してしまった。完全にやってしまったと思った。色んなものが終わったと思った。
血の気が急速に引いていく俺の下で少し驚いたようにその子は俺を見つめていたけど、そこからは俺の予想に反した反応が返ってきた。泣くでもなく叫ぶでもなく、その子は我慢し切れないといった感じて吹き出すように笑った。
それには俺の方が驚いた。てっきりお縄に付く覚悟をしちゃっていたから。ひとしきり笑って、女の子は一息ついて俺に「セクハラですか?」とはにかみながら首を傾げた。
「滅相もない!!!」
そんな言葉を言って跳ね上がるように体をどけた俺を見て、女の子は再度笑い出す。もうなんのドキドキか分からなかったがとにかくドキドキが止まらなかった。
そこからはとにかく謝り倒す形になった。足はまだ痺れてたからまともに土下座も出来ず、上半身だけ動かしてまるでアザラシかのように謝罪をした。それを見てまた笑われたんだけれども、どうにも俺がいたたまれなくなって最後の最後に床に額を擦り付けて「なんでもしますっ!!!」と言い放った。
「なんでも……?なんでもしてくれるの……?」
「はいっ!なんでも!!!」
「じゃあそれ……約束ね?」
「はいぃ!!!」
それがその子との最後の会話だった。それからしばらく俺は大学でもその事でイジり倒されることになるのは言うまでもない。
これはその時に撮った一枚だ。それこそ長倉さんが慌てた様子でポラロイドを持って来て写したものだ。改めて見ると、このぎこちない顔はそんなどうにもいたたまれない気持ちが滲み出ちゃってるせいなのかもしれない。
ふと写真の裏を見てみる。そこには油性ペンのハッキリとした字で『約束』と書かれていた。
「約束、か」
「……約束、守ってくれるんでしょ?」
「ぬあ!?あれ?雪音ちゃん?起きてたの?」
「ふふ。思い出した、パパ?」
「そうか。君はあの時のあの子か……うん、思い出しましたよ」
まるで悪戯が上手くいったかのように布団の上ではにかむ雪音ちゃんは、あの日のあの子が見せたあの笑顔よりも少し大人びたように見えた。