夜戦開幕
悪い夢でも見たかのようにハッと目覚める。体を起こすと同時に顎にから頭にかけて響く鈍痛。そうだ。常人ならば絶命していたであろう大家さんの会心の一撃を喰らったんだった。
あんなにおっとりしている大家さんだけど、実は実家が結構有名な空手の道場らしくその英才教育をきっちりと受けた遊びなしの武道が叩き込まれてるらしい。以前このアパートに空き巣が入った時も、そこに居合わせた大家さんにその空き巣が出合い頭で瞬殺されてたのを鮮明に思い出させる。
「まさか空き巣の気持ちが分かる事になるとは……」
「空き巣?」
振り返ると、雪音ちゃんが本棚の前で本を一冊開きながら俺にキョトンと首を傾げている。
「えっと、うわ言みたいなもんだから気にしないで」
「そうなんだ」
「……大家さんは?」
「帰ったよ?さすがに2時間も居座る訳にはいかないだろうし」
「2時間!?え?俺2時間も倒れてたの?」
「うん。凄いね大家さん。パパは強そうじゃないにしても、大の男の人を一撃で昇天ってさすがに目を丸くしちゃった」
「強そうじゃないってのは余計だけど、まぁ貧弱なのも驚愕なのも事実っちゃ事実だよね。……大家さん怒ってた?」
「気になる?」
「そうね。主に賃貸問題で」
「現実的だなー。まぁでも大丈夫だよ。ちゃんと事情は説明したから。大家さんも早とちりだったって謝ってたよ」
「マ、マジすか?」
「パパが追い出されるのはさすがに私も困るから、そこで嘘はつかないよ」
「そうか~。危うく家も社会的地位も失うとこだったよ……」
ちゃんとその場で俺から説明出来ればなお良いのだが、大家さんは咄嗟だと言葉より先に技が出る人だから致し方ない。明日にでも再度事情の説明と詫びを入れに行こう。菓子折りはないけど。
「そういえば何読んでるの?」
「棚にあったやつ。なかなかパパ起きないから時間つぶしに読んでた」
「よく失神してる奴を2時間も待てたね。しかもヒマのお供は奇しくも俺の書いたのだし」
「へー。そうなんだ」
「一応それデビュー作。今や下降線気味作家の名をほしいままにしてるけど、それは世間的にも結構盛り上がった作品なのよ?」
「ハハ。自虐的だね。下降線でもこれ割と好きだよ私」
「あ、ホント?ティーンに引っ掛かるならまだ捨てたもんじゃないのかね」
当時は入選しそうなラインを狙って色々書いてたけど結局どれも掠りもせず、そんな中でお試し的に大学のボランティアサークルで行った先の事を話に盛り込んで書いたらまさかまさかの大賞だったんだもんなぁ。あれは自分でもビックリした。
そこからこの道に入ってここまでやってきてるけど、大当たりはその一回だけだもんなー。そりゃ自虐的にもなりますって。
それでも、間近で読者に読んでもらえるってのは有り難いことなのかもね。たとえそれが単なる時間つぶしであったとしても。
「この主人公とヒロインの小さな約束のシーンなんかはいいなって思う」
「おー。時間つぶしなのにちゃんと読み込んでるね。雪音ちゃん意外に文学少女なの?」
「そうでもないよ。大体の本はかじる程度に読むぐらいだし。でも好きなのはきちんと読む方だよ」
「それは好きな部類に入ってくれたって事?だとしたら本も俺も冥利に尽きるね」
「共感できるからね、これ」
「そうなんだ。なんか経験談があるの?」
「ふふ。ヒミツ。もう眠いし、今度気が向いたら教えてあげる」
はは。今度ね。……って今度っていつ!?
そう言えばナチュラルに雑談してたけど、そもそも俺が失神するハメになった原因って雪音ちゃんじゃん!?根本的な問題解決してないじゃん!?
俺だってそう何度も大家さんの鉄拳制裁は受けれない。だって死んじゃうから。仮に、それがそういうプレイの一環として昇華出来ればエンジョイライフとして逆にお楽しみになれるのかもしれないけど、生憎俺にはそっちの趣味はない。自分で言うのもなんですが健全なムッツリです。
どうする……?さすがにもう夜分遅いし、説得に再チャレンジするにしても明日に仕切り直すか?
「さて。パパ寝ようか!」
「え?あ、うん。そうね。じゃあ、おやすみ」
「?」
「ん?首傾げてどしたの?」
「パパはどこで寝る気なの?」
「今日は壁を背にして座位で寝るつもりだけど?」
「どうして?」
「どうしてって……布団は一つしかないし、今は大家さんに物を頼み辛いし、女の子を地べたになんて無いから今日のところは雪音ちゃんに布団で寝てもらってと思ってるんだけど」
「座位なんかしなくても一緒に寝ればいいんじゃない?」
「……ん!?」
「元々パパのだし、独り占めしたいなんて我が儘は言わないよ私?半々で狭いけど我慢するよ」
「んん!?」
「はい。遠慮せずにどうぞ」
「……雪音ちゃん?さっき見た大家さんのあの一撃を忘れちゃったのかな?」
「ん?覚えてるよ?」
「そう……ならば今のご提案はどうかなー?一緒の布団に男女二人って危ないんじゃないかなー?」
「ふふ。心配性だねパパは。こんな時間まで大家さんが押し掛ける事ないと思うし、それに一緒にって言ったってただ寝るだけだよ?おかしい事ないと思うけど?」
この子の倫理観はなんでこんなにストロングスタイルなの?真っ当な思春期の娘さんならお父さん属性には漏れなく反抗して然るべきでしょ。この子はただ寝るだけなんて言ってるけど、人間の三大欲求である睡眠を満たすにあたってその三大の中には性欲もいますからね?一緒にだのなんだのって、絶対嫌な予感しかしないからね?
「いや、いいよ。使って使って布団。元々大きくないのに無理して二人はそりゃダメだ。うん。雪音ちゃんは女の子なんだし、やっぱここはレディファーストでしょ。俺は当初の予定通り座位寝でOKOK」
「ふーん。でも体痛くなりそうだよ?」
「もう玄人だから大丈夫。小説家はみんな座位寝を習得してるの」
「へー。でも夜はさすがに冷えるんじゃない?」
「いやもう全然?ほら俺暑がりだからむしろ適正かな」
「そっか。でもなんかやっぱり私一人使うのも気が引けるし、大家さんから寝具借りてくるね」
「え?」
「何か困ったことがあればって言ってたし、ちゃんと事情を説明して助けてもらおうかなって」
「えーっと雪音ちゃん?ちなみにどう事情を説明する気なのかな……?」
「ん?パパが一緒に寝てくれないって」
「あーーー!急に疲れが出て来たぞ?これは座位じゃ厳しいかー?うん、よし!今日は横になって寝よう!是非そうしたい!」
「大家さんの所行かなくていいの?」
「うん大丈夫。むしろ行かないでください」
「そっか。じゃあ一緒に寝よっか♪」
……確信犯だ。大家さんチラつかせて自分のフィールドに持ち込むなんてカードの切り方がえげつないよこの子。
最近の女の子ってみんなこうなの?違うよね?そうじゃないって三十路男は祈りたい。
「どうしてこんな地味男と寝たがるかな……」
「それはなんてったってパパだから」
「それ、ずっと理由になってないと思うんだけど」
「いいからいいから。じゃ、おやすみなさい♪」
「あ、はーい。おやすみー……」
電気を消し目を瞑る。いつも聞こえるウチの家電の鈍い機械音とは別に、この狭い室内にいつもと違う小さい吐息が聞こえてくる。
さっき暑がりなんてしょうもない事言ったけど実際はそうでもないし、どっちかって言うと寒がりな方かなと思う。でも今は、横から伝わってくる温もりが少し暑いくらいに感じる。
……寝れるかい!!!無理無理。こんな状況で健やかに上質な睡眠など不可能!YESの選択肢しかなかったとはいえ、これは平常心を根こそぎ刈り取られてもおかしくない状況だよ。
吐息が聴覚を、ジャンプーの香りが嗅覚を、温もりが触覚をちゃんと刺激してくる。しかも次第に夜目に慣れて来て薄っすらと雪音ちゃんの横顔が見え……ダメだ!!これで視覚までやられたら俺の五感の知覚レベルが一瞬にしてカンストされる!これは背中を向けて回避しなければ……!!
「パパ」
「おぅう!?」
背中に接触を感じる。感覚的に手の平だということは分かるがそこだけが異様に熱く感じる。たぶん今の俺をサーモグラフィーで見たら真っ赤なんじゃないか?
「寝れない」
「さ、左様ですか……」
いや、俺も寝れないけど……。これどうしたらいいの?今起きている事全部がお初にお目にかかるものなんですが誰かご教授下さい!
一つハッキリと分かっている事は、絶対暴発させてはいけないということ。何度も攻めぎ合ってきたけど、ここまでまんじりとした接近戦となると並みの精神状態じゃ煩悩の108連打を喰らう事になる。保守的かつ強硬な政治をしたかの首相のように鉄の意志にならねば。
「ねぇパパ……して」
「ん?んん!?」
して!?してって何を!?それは有らぬことですか!?そうなんですか!?この場合の需要と供給はどうしたらいいのですか!?
あー……もう……すでに煩悩が襲い掛かって来ている。マウントポジションでタコ殴り状態だ。クソ……!ダウンさせられるな!立ち続けろ俺の理性!そしてお前は勃つな息子……!!
「雪音ちゃん落ち着いて……」
「寝れないし、なんか話してよパパ」
「一旦落ち着こ……って、ん?話?」
「うん。話」
「……話をしてほしいの?」
「うん?そうだけど?」
「あー……」
さて。この場合、主語が無かった雪音ちゃんとスケベ無双に入りかけた俺とじゃどっちが悪いのかな?……うん。紛らわしいとはいえ一時でも邪な感情に流された俺が悪いね。鉄の意志なんてほざいたけど、俺の意志なんざナトリウム以下の練度しかなかったんだね。
「落ち着いてってどういう意味?」
「え!?いや!なんでもないよー。ハハー。えーっと話、あー話ね。どんなのがご要望かな?」
「そうだなぁ。恋バナとか?」
「え?俺の?」
「うん。パパの」
「それって普通女の子同士がキャッキャキャッキャとしながらするもんじゃないの?」
「気にしない気にしない」
「気にしないったって、そこの経験値0なんだけど」
「パパは誰かと付き合った事とかないの?」
「……ないっす」
「へー。そうなんだ」
ふふ……。舐めないでもらいたいな雪音ちゃん。俺にだって告白の一つや二つ経験はある。そう。妄想の中で!
それはもうシュミレーションはばっちり!そこに関してはもう手練れと言っていいだろうフハハハハハ!
……やめよう。これは世間でヤケクソと言うものだ。I am チキン。そう俺は、単純に臆病で片思い歴だけを蓄積したチキンなのです。
告白など出来ず遠巻きにその相手を見ながら想いを馳せていた奥手男子……あれ?それってストーカーじゃね?
いや違う……!予備軍、そう予備軍なのだ!付きまとってはいないし危害も及ぼしてない。大丈夫。俺は予備軍だ。……うん。事実とは言え、こんな自分のフォローってなんか悲しいな。
「意外だね。さっき読んだあの小説じゃ結構リアルっぽい恋愛の描写があったから、パパの経験談なのかと思ってた」
「え?あーあれ。確かに実体験を元に書いてるから描写はしっくり来てるかな。まー恋愛の描写は妄想……いや想像力ですけど」
「実体験なんだ」
「そう。大学の時のボランティアで行った先でそんな事があってね。そこでなんか引っ掛かったものを何とは無しに書いてみたら思いの外世に受けたって感じかな」
「へー。パパは何に引っ掛かったの?」
「うーん。なんて言うのかなぁ。その時に俺が行ったボランティアっていうのが大学近くの児童養護施設でのお手伝いでね。そこで関わり合った子たちがさホント色んな境遇だったのよ。たぶんいち大学生が踏み込んでいいものじゃ無かったと思うし、当時の俺なんかが何か出来るものじゃないのかなってそんな実感はしてたね」
「その子たちの境遇に同情とかしちゃったり?」
「いや。同情なんて感情は持てなかったよ。一緒に行ってた他の奴らはどうだったか分からないけど、俺はそれはダメな気がしてならなかったんだ。辛いとか苦しいとかそういうの想像は出来てもその感情に意味を見出すのは誰でもない当人でしょ?子どもだからって外の俺らが勝手に決め付けていいもんじゃないって青臭い青年だった俺でも思ったんだよなぁ」
「へー。じゃあパパはそこでどうしたの?」
「そんな風に思ってはいても自分の考えをちゃんと具現化する力量は無くてね。だから当時は特に手段なんてなくさ。もう不器用ながらにその時思う自分の気持ちでその子らに向かって行ってたよね」
「それで?そうしてどうだったの?」
「まぁ玉砕も玉砕だったね。物凄く嫌われたりとか敵意持たれたりとかは無かったと思うけど、まぁほとんど心は開いてくれなかったよ。あの小説はその中の一人の子との話でさ。自分の無力さに打ちひしがれながらも言葉を交わして、僅かでも時間を共有したあの子とのやり取りがその時の俺にはなんか胸に引っ掛かったんだよ」
「……」
「雪音ちゃん?」
「……」
「あれ?おーい」
「すー……すー……」
あ、寝てる。お話希望があったから赤裸々に学生時代の1ページを話したんだけど、気付けば子守歌になってましたかい?
いや、この密着に心中穏やかじゃない状態だったから寝てもらって全然構わないんだけどさ。でも独り言ってそれはそれで恥ずかしいものなのよ?しかも「あの頃はね……」みたいな思いを馳せちゃってる自分なんか、後々フラッシュバックされて羞恥心なんかが手加減なく襲ってくるんだよ?下手したら恥ずか死しちゃうよ?
まぁ、おっさんの羞恥心ぐらいどうでもいい事はないのかもしれないけど。
「んん……忘れないで……あげる……せっかくの……んん……約束だから……」
おー、長い寝言ですな。しかもそれ、多分俺の小説の一文じゃないですか。そこまで読み込んでくれたのは小説家として有り難いけど、完全に睡眠の機を逸した俺はここから悶々とした時間を消化しないといけないと思うと素直に喜べない。
せめて服を掴むその手を緩めてくれればって思うけど、俺のだらしない背中の肉まで巻き込んで掴んでるそれを無理矢理には振りほどけないですよ。地味に痛いし……。どっちしても眠れないかな、こりゃ。