空虚の間
リーザイ王国ミジュアの中央に威容を誇る、バルツハインス城。
王の間があり、そこには当然玉座がある。
だが、玉座に王が腰掛けたことはない。
王の間に、王が姿を現したことはない。
現在の国王ユリウス六世だけでなく、歴代の王全てが。
王が民の眼に触れることはない。
王族は、産まれてすぐに城の中央から上空に伸びる塔の頂上に幽閉されるためである。
リーザイ王国の民の間で、都市伝説のように語り続けられている噂だった。
あながち間違いではない、とストラームは思った。
城にある塔の最上階にいた。
塔を降りていけば、王の間である。
更に降れば、地下になる。
この城の最下層、地下百三十階まで続いている。
塔の最上階だが、広かった。
広間と呼べるだけの空間がある。
冷たい空気が漂い、ストラームの身を包んでいる。
広間には、ベールが掛けられていた。
その奥に、王がいる。
市民どころか、極一部の者を除いては、大臣や将軍さえ顔を拝むこともできないリーザイの王が。
王とその家族が、そこで生活しているということになっていた。
こちらとベールの向こうに行き来できるのは、三人の侍女だけである。
侍女の一人は、眼が見えない。
王の全てを理解することは、許されていないからである。
侍女の一人は、耳が聞こえない。
王の心情を理解することは、許されていないからである。
侍女の一人は、口が利けない。
王のことを他者に伝えることは、許されていないからである。
侍女たちが塔を出ることはなかった。
外界と接触することなく、王の身の回りの世話をすることに生涯を費やす。
「……攻めてくるか、『コミュニティ』が」
ベールの奥から、声が響く。
そこにいる。陰だけが見える。
現リーザイ王国国王ユリウス六世が。
あるいは、リーザイ王国初代国王ガイウス一世が。
「ストラーム、君がこの国に仕えるようになってからは、『コミュニティ』に戦争を仕掛けられることがなくなったのだがな」
「ザイアムでしょう。あの男が、動くようになった。まるで、クロイツの駒のように」
『コミュニティ』は、どんな勢力が相手でも戦争を仕掛けられるだけの戦力を得た。
「始まりは、いつになるか?」
「わかりません。近日中、というのは間違いないでしょう」
「目的は?」
「……兵士の動きからして、街を取り囲む配置になるでしょう。ですが、頷けないものがあります」
「ほう」
「ザイアムの居場所です」
ザイアムは、どの部隊の指揮も執らず、廃墟となった第九地区にいる。
誰も、ザイアムを倒しにいけない。
それが無駄なことだと、みんなが知っている。
どう動かれても対処できるよう、注視するしかなかった。
「包囲は、第二地区から第八地区に掛けてのものです。第一地区に、圧力はありません。ここには、リーザイ王国最大の戦力が揃っています。これを攻略できる部隊は、『コミュニティ』といえどもありません」
「部隊としては、攻略できない。よって、部隊の指揮を執る意味はない、か」
「私には、あの男の狙いが見えるような気がします」
強国を滅ぼすのが目的ならば、軍を率いなければならないだろう。
そして、軍に迎え撃たれる。
強国の王を殺すのだけが目的ならば、軍を率いる必要はない。
使者として訪れ暗殺を試みる方が、可能性はある。
ザイアムは、リーザイ王国を滅ぼしたいわけではないのだろう。
だから、部隊は牽制に使う。
ザイアムの目的は、ここにある。
部隊を率いては大規模な戦闘は避けられず、軍とぶつかっても勝ち目は薄い。
それよりも、個人でここを目指そうということだろう。
ザイアム一人ならば、混乱に乗じてここに至るというのは、不可能ではない。
「やはり、目的は……」
ベールの向こうで、ユリウスの陰が顔を上に向ける。
釣られてストラームも視線を上げた。
天井の近くに、亀裂が入っていた。
天井に亀裂が走っているのではない。
天井の下の空間が、ひび割れている。
「これは、『真影』に至る道。そして、クロイツは『半影』までの道を制覇している」
「『倉庫』と『半影』を繋げたクロイツだけではありません。何者かが、『半影』の管理をしているようです。エスの報告によれば、ドラウ・パーターに匹敵する魔法使いであると」
「パウロ・ヨゥロは、『死神』ソフィアに殺された。我々には、『真影』にも『半影』にも至る手段はない。死守せよ。ここだけは、譲れぬ」
「その点ですが」
ストラームは視線を下げた。
ベールの向こうから、ユリウスに見られているのを感じる。
「パウロ・ヨゥロの従兄弟であるシーパル・ヨゥロという者が、昨年冬眠状態に陥った際、『半影』に至った形跡があります」
「その者は、今どこに?」
「ルーアと共にあります」
「そうか」
ユリウスの陰が身動く。
「その者の扱いは一任する。疑似『ルインクロード』と同じくな」
「はっ」
「今は、目前の危機に対処しなければなるまい」
「ライア・ネクタスと、ミシェル・エインズワースを召集します」
「……エマ・ネクタスとアヴァ・ネクタスの守護はどうする?」
「レジィナ・ネクタスがおります。ルーアも」
「わかった。好きにせよ」
ストラームは、頭を下げた。
「ストラーム、ここを守れよ。ライア・ネクタスを、エマ・ネクタスを、アヴァ・ネクタスを守れ。それ以外の全ては、犠牲にして構わぬ」
「必ず」
「ルトゥスとよく話せよ」
「はい」
ルトゥスは、『バーダ』第一部隊の隊長だった。
彼を知る者の中には、最強はストラームではなくルトゥスだと言う者もいる。
だが、ルトゥス個人の強さは世間に広まっていない。
名を知る者も少ないだろう。
ルトゥス自身が、部隊の前面に出て剣を振ることがないからだ。
それは、指揮官の役割ではないと考えているのだろう。
ストラームとザイアムが一対一で戦ったことについても、否定的だった。
ルトゥスとしては、部隊を率いる者の一騎討ちなどもってのほか、というところだろう。
ザイアムを撃退するには、第一部隊との連携が欠かせない。
ユリウスに一礼して、ストラームは背を向けた。
入れ替わりに、侍女たちが螺旋階段を登ってきた。
ストラームを見上げ、会釈する。
この塔に幽閉されているといってもいい女性たちだ。
やがて、ユリウスには眠る時がくる。
次に目覚めるのは、いつになるか。
そうなれば、彼女たちは用済みだろう。
それでも、塔から出ることはできない。
自分の人生についてどう思っているのか。
聞いてみたいという衝動はあったが、ストラームは黙って急な階段を降りていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
木剣と木剣がぶつかる冴えた音が、『バーダ』第八部隊基地の訓練場で響く。
剣を合わせているのは、デリフィスと、ルーアの後輩だというミシェルだった。
訓練場の壁に凭れ、テラントは二人の試合を眺めていた。
審判役を任されたのだ。
対戦を希望したのは、デリフィスである。
ミシェルの実力は、剣を持って向かい合わなくてもわかる。
そういう雰囲気を持つ者が、稀にだがいる。
ミシェルは、デリフィスの相手をすることを嫌がった。
立場上当然か。
両者同意の上での試合だとしても、基地に招いた客人に怪我でもさせたら、問題になるだろう。
『相手してやれ。お前も勉強になるから』
やや無責任にそう言ったのは、『バーダ』第八部隊副隊長代理だというライアである。
ほどほどのところで止めてくれとテラントに頼み、ライアは基地を出ていった。
どうやら、本当に忙しいようだ。
たびたび外へ出ている。
大きな怪我をした時のために、一応シーパルも待機させていた。
剣術について詳しくないシーパルにも、おそらくは理解できているだろう。
デリフィスが押されている。
剣士としては劣っていない。
むしろ、デリフィスの方が優るかもしれない。
技量に大きな差はない。
身体能力は、デリフィスの方が上か。
なにしろ、体ができあがっている。
ミシェルは、若い。
ルーアよりも一つ下らしい。
この基地についた昨晩、ルーアから聞いた話をテラントは思い出した。
酒を飲みながらのことなので、細かいところで記憶違いがあるかもしれないが。
ルーアが『バーダ』に入隊したのは、十四歳と四ヶ月の時。
これは、当時の最年少記録だったということだ。
ただ、当人が言うには、これは自慢できることでもなんでもないということだった。
本来『バーダ』の隊員になるには、軍人は三年、警察は五年の実務経験が必要になる。
更に相応の実績と、上司の推薦があって、初めて試験を受けられる。
ルーアは、試験を受けていない。
軍人や警官としての実務経験もなければ、実績も上司の推薦もない。
第九地区消滅の際に家と家族を失った子供が、ストラーム・レイルとランディ・ウェルズに拾われ、うやむやのうちに隊員になっていた、ということだった。
『英雄』ストラーム・レイルならば、権力や発言力もあるだろう。
おそらく、ストラーム・レイルがルーアを『バーダ』に捩じ込んだ。
裏口入学ならぬ裏口入隊だな、笑いながらルーアはそう言った。
ルーアの最年少記録を破ったのが、ミシェルだということだった。
こちらも、実務経験などはない。
ランディ・ウェルズに才能を見出だされ、特例として『バーダ』に入隊したらしい。
特例を政府に認めさせたのは、やはりストラーム・レイルなのだろう。
才能が違うからな、ルーアは言った。
確かに、才能に溢れている。
若さを考えると、恐ろしくもなる。
だが、それにしてもデリフィスは押され過ぎだった。
ミシェルは、常に忙しなく体のどこかを動かしている。
剣の先が向く方向は定まらず、足でリズムを刻み、正面から斬り掛かろうとしない。
必ず死角へ回ろうとする動きを見せる。
一度の斬撃の前に、フェイントを二つ三つは入れる。
変則的な戦い方。
まともに剣を合わせようとはせず、デリフィスの攻撃をいなし、勢いを逸らしている。
(……あの馬鹿め)
デリフィスの剣は、空回りしていた。
ミシェルの攻撃を、ぎりぎりのところで受け止め、かわしている。
今のところ有効的な一撃はもらってないが、試合形式で判定するならば、間違いなくミシェルの判定勝ちだろう。
一方的に押されている。
以前のデリフィスならば、互角に近い勝負になっていたはずだ。
自覚はなかっただろう。
テラントも、今の今まで気付かなかった。
まともに斬り合わない相手、かわす戦い方をする相手に、苦手意識を植え付けられている。
ミシェルに植え付けられたのではない。
おそらく、もっと前。
一度の敗北が、デリフィスの感覚を狂わせた。
「ノエル、か」
呟きにシーパルが反応したが、テラントはなんでもないと手を振った。
『コミュニティ』に所属する、黒ずくめの剣士。
デリフィスとルーアから、話は聞いている。
動きも剣も、なにもかもが変則的だったという。
斬撃をまったく読むことができず、徐々に付いていけなくなり、デリフィスは完敗した。
ルーアの話では、棒立ちの状態から、打ち出された大砲の弾のような勢いで、剣を投げ付けてきたということだった。
剣を投げ終えた時も、姿勢に変化はなかったらしい。
二人の話から、テラントはノエルの動きを分析しようとした。
デリフィスが浴びた斬撃を、再現しようとした。
わかったことが一つ。
ノエルの動きは、人のものではない。
人の姿をした、人以外の者である。
テラントは、ノエルの剣をかわしたことがある。
囚われのティアを救出した時のことだ。
不意を衝かれたが、かわせた。
背後からの一撃だからこそ、避けられたのではないかと今にしては思う。
正面から剣の軌跡を見ていたら、かわせなかったのではないか。
そして、デリフィスのように感覚を狂わされた。
今のデリフィスでも、並みの相手なら変則的な動きをされても簡単に斬れるだろう。
ノエルやミシェルのような使い手は、そういるものではない。
だから、これまで感覚の狂いに気付けなかったのだが。
ラグマ王国の砂漠で対戦したナルバンも強かった。
複数の武器を隠し持ち、複雑な攻撃を仕掛けてきた。
そういう意味では、変則的である。
ただ、ナルバンは正面から向かってきた。
体格を活かした力押しが戦闘法の基盤にあった。
苦手意識は、簡単に払拭されるものではない。
特定の相手にだけ顕れる、感覚の狂い。
デリフィスの斬撃の勢いが増していった。
木剣だが、当たれば人の体を断ち割るのではないかという斬撃である。
ミシェルは、汗びっしょりになりかわしていた。
ミシェルの剣も鋭くなっていた。
そろそろか。
これ以上やらせると、どちらかが、あるいは両方が、取り返しのつかないような事態になる。
声を上げて、テラントは二人を止めた。
デリフィスの体が突っ込みかけるが、それでも踏み留まる。
なんのために審判役の者がいるか、デリフィスもわかっているはずだ。
「……また今度、相手をしてもらいたい」
「嫌です。もう二度と、あなたとは剣を合わせたくありません」
息を弾ませ、顔をひきつらせ、ミシェルは即答した。
優位に試合を進めていても、デリフィスの剣を捌くことに神経を使ったのだろう。
袖口で顔の汗を拭き、テラントたちに頭を下げて、ミシェルは足早に訓練場を出ていった。
デリフィスが、静かに木剣を壁に掛ける。
武器は、どんな物でも丁寧に扱う男だ。
「言うまでもないと思うけどな」
「わかっている」
ぎこちない戦い方をしたと、自分が一番感じているはずだ。
「負け癖までは付けられるなよ」
デリフィスの横顔は、強張っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
赤ん坊が二人、床に敷かれたマットに寝かされている。
ルーアの昔からの仲間である、ライアとレジィナの娘たち。
(この子たちが……)
『ネクタス家』の血を引く子供。
そっくりな双子を、ユファレートは眺めていた。
レジィナに見ているよう頼まれたのである。
そのレジィナは、ティアと調理場にいるはずだ。
台所に立つティアを止められる自信が、ユファレートにはない。
レジィナは、家事万能らしい。
ティアに料理を教えてくれと頼まれ、レジィナは快く承諾していた。
以前にも、同じような展開があったような気がする。
あの時は、とある主婦が打ちのめされた。
レジィナがティアの相手をする間、ユファレートは赤ん坊たちの世話である。
赤子の面倒をみることに慣れているわけではないが、なんとかなるだろう。
昼寝の時間の間は、二人ともおとなしい。
なにかあった時は、レジィナを呼べばいいことだ。
ティアの調理に付き合わずにすむのはありがたかった。
飢えたライオンの口の中に手を突っ込むよりも、ティアの料理は危険である。
安全地帯で、エマとアヴァを観察する。
本来なら産まれることのなかった、『ネクタス家』の女児。
祖父であるドラウから、この世界で起きていること、そしてティアとルーアに起きたことを聞いている。
『ネクタス家』の力を持つ者は、男児を一人残し大体二十歳で死ぬ。
それが、七百年繰り返されている。
まるで、どこまでも続く螺旋階段のように。
一年や二年ずれてしまうことはあったらしいが、それでも決定的な変化は生まれなかった。
『システム』に大きな狂いが生じたのは、五年前である。
狂わせたのはルーア。
ライアとレジィナの間に男児は産まれず、ライアが死ぬこともなかった。
三年遅れて産まれた子供は女児で、双子だった。
この子たちのどちらかが、『ネクタス家』の力を継いでいるのだろうか。
両方継いでいる可能性もある。
両方継いでいない可能性もある。
ストラーム・レイルに会いたかった。
『バーダ』第八部隊隊長。
ルーアの師であり上司。
祖父ドラウの友人。
元々ユファレートは、兄であるハウザードを捜すために旅に出たのだ。
ハウザードの死という形で、目的は果たされた。
ドラウもいなくなってしまった。
そこで、ユファレートの旅は終わるはずだった。
故郷に帰れば、祖父が蓄えた財産がある。
生活に苦しむことはない。
旅を続けたのは、ティアが『コミュニティ』に捕らえられたからだ。
ティアを助けることはできたが、他にも目的はある。
このままでは、ルーアは助からない。
ティアにもルーアにも、救いがない。
だから、ストラーム・レイルに会いたかった。
ストラーム・レイルは、ルーアの現状を理解しているだろう。
エスとの繋がりもある。
あの『英雄』ならば、きっとルーアを助ける方法を知っている。
だが、ストラーム・レイルはここにはいなかった。
ミジュアの第一地区にいるらしい。
会いに行きたいが、行き違いになる可能性がある。
素直に帰りを待つのが賢明であると思えた。
エマが、眼を覚ました。
ぼんやりとした瞳で、ユファレートのことを見ている。
にこりと満面の笑みを浮かべた。
他人を怖がらない。
手の掛からない子供だ。
レジィナも、助かっていることだろう。
やや覚束無い足取りで、歩き出した。
これまでにも歩いているところは見ているが、少し心配である。
エマは、低いテーブルにしがみつくような姿勢で、その上にあるお菓子などを漁り始めた。
物音で目覚めたか、アヴァがぐずりだす。
ユファレートを、怯えた眼差しで見ていた。
泣きながら、部屋の中を歩き回る。
一周して戻ってくると、アヴァは泣いたままユファレートに抱きついてきた。
これは、怖がられているのか懐かれているのか。
エマが、手を向けてくる。
なにかを握り締めているようだ。
反射的に掌を出す。
にこにこしながらエマが手渡してきたのは、唾液でべちゃべちゃになった枝豆の皮だった。
(……これは、手を出したわたしが悪いのかしら)
なかなか行動を読むのが難しい。
鼻を刺すような匂いが漂ってきた。
「あ、出来上がった」
ティアの料理が完成したのだろう。
離れていても、匂いを嗅ぐだけで危険である。
アヴァにしがみつかれて立ち上がれない。
ユファレートは魔法で風を操作し、換気のために開け放しになっている扉を閉めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
レジィナはなんでもできる。
主婦としても家事万能であるし、一般的な知識も豊富である。
魔法使いとしても完璧だった。
ただ、生真面目で天然なところがあり、冗談が通じない。
そして、実は怖い。
レジィナだけは、師や家庭教師に迎えたくない。
魔法を教える時のユファレートよりも厄介だった。
そんなレジィナならば、ティアの料理できない病を治してくれるかもしれない。
一縷の望みを託し、ルーアはレジィナに、ティアを見ているよう頼んだ。
今回は、まともな食事が出てくるかもしれない。
だが、傾く太陽を窓から眺める頃には、ルーアは落胆していた。
台所からはどたばた騒音が響いてくるし、甘ったるいような酸っぱいような、しかし決して甘酸っぱくはない臭気が漂ってくる。
ルーアは、腹筋を擦った。
拒絶反応に胃が痙攣しているためでもあるが、内臓の造りを意識するのが目的だった。
背中を向けて逃げるのは難しい。
テラントやデリフィス、シーパルの妨害が入るからだ。
ならば、正面突破しかないだろう。
ティアを仕留める。
料理を喰わせようとする時のティアは、なかなか手強い。
普段からは考えられないような素早さと腕力を発揮する。
だから、不意を衝く。
「……扉が開く。そして、背後から近付いてくるオースター……」
声に出すのは、その方がイメージしやすいからだ。
「……間合いに入り次第、振り向き様の左……角度を付けて横隔膜を……」
女の腹を打つことに、若干ならざる抵抗はある。だが。
(死ぬよりはマシだ。そうだろ?)
いくらなんでも、横隔膜を打ち抜かれたら動きが止まるはずだ。
その後、首筋に手刀を落とすか一目散に逃げるかは、初撃の手応え次第だろう。
危機を乗り越えるために、集中力を高めていく。
背筋に悪寒が走った。
後ろ髪で隠された首筋に、痺れを感じる。
背後に、いる。
「ルーア、できたよ!」
聞こえ方からして、扉を開いてからの声だったはずだ。
だが、ドアノブが回る前から声が聞こえたような気がした。
異様なまでに集中できている。
先の先まで視える。
ティアが駆け寄ってくる。
速い。背中で感じる。
躊躇いは、命取りだった。
振り向き、左の拳を繰り出す。
ティアの顔を見てしまったのは、失敗だった。
その笑顔に、罪悪感が生まれたのは事実である。
勢いがいくらか失われたかもしれない。
「えいっ」
虫を払うような仕草で、ティアはルーアの渾身の拳を、片手で叩き落とした。
「えとね、味見して欲しいんだけど……」
「待てぇぇぇっ!」
平然とした顔のティアに、ルーアは叫んだ。
「なんで防げる!?」
「え? だって、痛いの嫌だし」
「そういうことじゃなくて、体格差とか、身体能力の差とか、アホみたいに戦闘訓練受けてきたこととか! そういうのを『えいっ』で一蹴するなって言ってんだよ!」
「やあねえ。蹴ってないわよ」
「だから、そういうことを言ってるんじゃ……くおっ!?」
ガラスの器が、顔に突き付けられる。
黒くて粘り気がありそうな液体の中に、サイコロ状に切られた肉と、スライスされたきゅうりが浮かんでいた。
これは、なんだ。
なんという料理なのだ。
ティアと共に台所にいたはずのレジィナに、ルーアは視線を向けた。
「なんで止めてくれなかったんだよ!?」
「止める? 見ているように言われたから、見ていたんだけど……」
小首を傾げるレジィナ。
見ていただけか。そうだった。天然だった。
ティアの手首を掴み、なんとか顔に変な物を押し付けられるのを喰い止める。
「ま、待て。まずは話し合おう!」
「……話し合えば、食べてくれる?」
「レジィナは、料理も得意だ! その意見を聞きたくはないか!?」
ティアからの圧力が弱まる。
レジィナを見ていた。
「……えっと」
少し戸惑っているようだ。
拳を唇に当て、レジィナは考え込んだ。
「フライパンで肉を切ろうとしてたんだけど……」
「あー、包丁代わりにするやつな。それ、前にもやった」
「フライパンを裏表逆にして肉を焼いていたのは……」
「なんでだろうなぁ?」
「それと、フライパンで……」
「お前は、フライパン一つでいくつの過ちを犯すつもりだ?」
「う、うるさいわね!」
ティアが喚くと、ガラスの器に盛られた物がたぷたぷ揺れた。
そのたびに匂いも撒き散らされる。
「……なにがあった? なにを作ろうとしてこうなった?」
「……」
今度は、ティアが考え込む。
「よく思い出してみよう」
時間稼ぎの策である。
「……今日ね、レジィナさんの食料の買い出しに付き合ったのよ」
ややあって、ティアが語り出した。
「牛肉が凄く安かったのよ。特売だったんだって」
「ああ」
「それで、あたし頑張ったの。おいしく焼こうって」
フライパンの裏で。
「でも、ふと気付いたのよね。お肉だけじゃ栄養が片寄るって」
「うん、まあ……」
「それで、レジィナさんに聞いたの。なにかないかって。そしたら、家庭菜園で採れたきゅうりが残ってるって言うから」
ルーアが旅に出ている間に、レジィナは家庭菜園など始めていたのか。
確かに基地の建物の裏に、それらしきものを見掛けたが。
私的に使い過ぎではないだろうか。
ストラームの許可が降りたのだろうが。
隊員たちに手料理を振る舞うことも多いレジィナだ。
「きゅうりで、思い出したことがあるの」
ティアの語りは続いている。
「きゅうりに蜂蜜かけると、メロンの味になるよね?」
「……らしいな。試したことはないけど」
「閃いたのよ。フルーツポンチだって」
「……うん?」
「それで、こうなったの」
「……」
ルーアは、天井を仰いだ。
わからん。いつものことだが。
「……フルーツが、ないよな……?」
「でも、ソースとかドレッシングとかは掛けたよ?」
なんの解決にもならない。
レジィナは、思考の迷宮に落ちていた。
生真面目にも、ティアの説明を理解しようとしているのだろう。
「……なにか独自の料理を作っているのかと思ったけど」
そう考えるレジィナの思考回路も、相当である。
「びびるだろ? これ、ギャグとかじゃないからな」
「わたしも、ちょっと試食を……」
「そんなっ!? だ、駄目です、レジィナさん! お体に障ります! 死んじゃいますよ!」
俺はどうなってもいいというのか。
レジィナはスプーンで黒い液体を掬うと、迷いなく口に運んだ。
表情を曇らせ、俯く。
「あ、あの、レジィナさん……?」
「……」
「感想とか、言ってもらえたら……」
「……酷いわ」
まあ、そうだろう。
「いつも、こんなの食べていたの……?」
「最近は、逃げるのがなかなか難しくなっている」
レジィナは、細く溜息を付いた。
「……わかったわ。ティアさん」
「は、はい」
「わたしで良ければ、料理を教えさせて」
「本当ですか!?」
眼を輝かせて喜ぶティア。
「……やめといた方が」
ルーアは、小さく呟いた。
いくらレジィナでも、ティアを治すのは難しい。
そしてレジィナの指導は、容赦がない。
大人の男が泣いてしまうレベルである。
「時間の無駄になるんじゃないかと……」
レジィナに視線を向けられる。
睨まれているわけでもないのに、ちょっと怖い。
「……ルーア、このままじゃまずいでしょ?」
「確かに、二重の意味でまずいが」
「うるさいのよ!」
「あなたも料理できないでしょ、ルーア」
「まあ、できないけど……」
「じゃあ、ティアさんができないと将来困るじゃない。子供の食事とかどうするつもり?」
ぶっ、とティアと二人で吹き出す。
「なんでそんな話になる!?」
「なに言ってるんですか、レジィナさん!?」
「え?」
同時に突っ込まれ、レジィナは不思議そうな顔をした。
ルーアとティアを見比べ、頷く。
「ああ、そういうこと」
なにを納得したのか。
「とにかく、ティアさんが普通に料理できるようにしてみせるわ。いいかしら、ティアさん?」
「はい、頑張ります!」
元気一杯にティアが言う。
「じゃあ、まだエマとアヴァがおとなしいし、すぐにでも練習しましょう」
「はい! あ、でももったいないから、これをルーアに食べてもらってから……」
「……ふざけているの……?」
レジィナの視線は、特に冷たくもない。
だが、なにか感じるものがあったのだろう。
ティアは、身を震わせた。
「じゃあ、彼女借りていくわね、ルーア」
「あ、ああ」
正直、ティアがまともな料理を作る姿を想像できない。
だがレジィナは、できるようになるまで続けるだろう。
一体、どうなってしまうのか。
ティアが台所に連れていかれる。
とにかく、今回は助かったようだ。
安堵から、ルーアは胸を撫で下ろした。