孤影
争う気配にも、ティアは反応しなかった。
剣が肉を裂く音にも、断末魔にも。
クレア兄弟が率いる『コミュニティ』の部隊と、ミジュアの軍の戦闘だろうか。
ステヴェ・クレアの叫びが聞こえた。
叫びながら、剣を振っている。
ぶつかり合いは、束の間だった。
車輪が回る。
争う声は小さくなっていった。
イアン・クレアの指揮する声が響く。
ミジュアの軍は、クレア兄弟を止められなかったようだ。
空気が変わるのを、ティアは感じた。
肌にまとわりつき、皮下に染み込んでくる重たい空気。
似たような空気を知っている。
ドニック王国東部の、ユファレートとハウザードが戦った地、そして、ラグマ王国の砂漠。
同じような空気だった。
砂漠でも、ティアは囚われの身だった。
頭がおかしくなるような、不快な空気。
ドラウからミスリル銀で刺繍された服を与えられていたが、それがなければ頭がおかしくなっていたかもしれない。
ミスリル銀には、耐魔の効果がある。
第九地区に入った。
眼を開かなくても、ティアは理解した。
魔導災害により壊滅した、ミジュアの第九地区。
そこに、連れてこられた。
逃げられないのではないか。
第九地区に、住民はいない。
軍や警察も、迂闊に踏み入ることはないだろう。
クレア兄弟から逃げることは、ますます難しくなった。
絶望感に押し潰されそうになるが、それでもティアは数え続けた。
約五分ごとに魔法の縄を掛け直されるのは、変わらない。
魔法を掛けられてから、二百八十秒を過ぎた。
そろそろか。
少し気温が下がったような気がする。
日が完全に沈んだか、常に瘴気に覆われ、地表に日光が届くことのない第九地区に入ったからか。
「兄貴」
ステヴェ・クレアが、イアン・クレアに呼び掛ける。
注意を促しているようだ。
「来たぜ」
来た。
軍ではない。
警察でもない。
だけど、みんななら。
みんなが、助けにきてくれた。
「一人だけか?」
「一人だけだな。魔法で身を隠していなければ、だけどな」
「魔力の波動は、ルーアの飛行の魔法の分しか感じない。少し自信がないが」
兄弟の会話を、ティアは聞いていた。
瘴気が満ちている状態では、魔力の感知は難しいのだろう。
それでも、イアン・クレアの魔法使いの実力を考慮すれば、ある程度正確に感知できているのではないかと思える。
だが、それでは。
(……ルーアだけ?)
「そうか。本当にルーアだけか」
ステヴェ・クレアの口調には、嘲笑うかのような響きがある。
助けにきてくれた。
だけど、ルーアだけ。
他のみんなは、やられてしまったのか。
ユファレートたちは、ティアのことを見捨てたりしない。
多分、ティアは人質になっていたのだろう。
人質を取られていては、いくらみんなでもやられてしまうことはある。
助けにきてくれたのは、ルーア一人。
クレア兄弟は、大勢の兵士を率いている。
おそらく、二十人くらいいるだろう。
ルーアのことは信頼しているが、いくらなんでも勝てるわけがない。
「ここで戦うか」
ステヴェ・クレアの声。
車輪が回る音が止まる。
兵士たちに陣形を組ませているようだ。
剣を抜く音が次々響く。
「取り敢えず、仕掛けてみるか」
イアン・クレアの声。
魔法を使おうという気配。
飛行の魔法で移動中のルーアを、撃ち落とすつもりなのかもしれない。
時間は、計り続けている。
前に魔力の縄の魔法を掛けられてから、三百二十秒は過ぎている。
ルーアは、一人でも来てくれた。
だけど、人質がいるのに一人で二十人に勝てはしない。
迷いはなかった。
手足に渾身の力を込める。
縄が肌に喰い込むことで手首と足首に痛みを感じたのは、一瞬の間だけだった。
魔力の縄がちぎれる。
まず足が、続いて手が自由になる。
ずっと寝転がされたことで体に痺れがあるが、ティアは即座に跳ね起きた。
眼は開いている。
夜になっていた。
暗い。
だが、イアン・クレアが作り出していたのだろう、魔法の明かりが微かに辺りを照らしている。
荷車の上だった。
「貴様っ!」
ステヴェ・クレアの声。
聞こえる方向の逆に、ティアは飛び降りた。
着地。身を屈める。
兵士が、覆い被さろうとしている。
ティアは、スカートの中に手を入れ、短剣の柄を握っていた。
身を伸び上がらせた時には、ホルダーから抜き放っている。
頭から、兵士にぶつかる。
短剣が、兵士の胸に深々と突き刺さる。
手首に痛みが走った。
挫いてしまったかもしれない。
自分の体重より重たいものに、頭から突っ込んだ。
衝撃で、顎が歪んだような気がする。
深く刺さり過ぎた短剣から手を離し、倒れていく兵士から剣を奪った。
重たい。
それでも振り回す。
なんとかして逃げなければ。
正面にいる兵士の胸が割れる。
右にいる兵士の首筋が裂ける。
敵は、まだたくさんいる。
だけど、きっとあと少し。
もう少し頑張れば、逃げ切れる。
振り切った剣の重さに、体が流れる。
足が縺れる。
「はっ!?」
衝撃があった。
息が詰まる。
背中を打たれたのか。
転ぶ。
警棒を手にした兵士がいた。
腰に剣を提げている。
剣で斬り付けなかったのは、今はまだ殺すつもりはないからだろうか。
「これ以上手を煩わせるな、ティア・オースター!」
ステヴェ・クレア。
馬乗りになり、首を絞めてくる。
また、失神させるつもりか。
懸命にもがいた。
だが、体重差があり、どうすることもできない。
剣も、いつの間にか失っていた。
(ルーア……!)
助けに来てくれているのに。
人質になっている場合ではないのに。
ティアの首を絞める、ステヴェ・クレア。
額に、青筋が浮かんでいる。
イアン・クレアは魔法を中断し、こちらの様子を確認しているようだ。
飛行の魔法で向かってきているルーアが見える。
(逃げてっ……!)
クレア兄弟という強敵。
大勢の兵士。
人質を取られているという状況。
いくらルーアでも、どうしようもない。
それでも、ルーアは向かってくる、真っ直ぐに。
(逃げてよ……!)
意識が白んでいく。
ルーアに、名前を呼ばれたような気がした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ティア・オースターは、再び失神してしまったようだ。
忌々しそうに見つめながら、ステヴェが立ち上がる。
そこでイアンは、意識をルーアに戻した。
掌を向けると、ルーアは飛行の魔法を解除した。
飛行の魔法を使用中は、防御の魔法を使えない。
距離は、二十メートルほど。
丁度良い距離かもしれない。
遠距離での魔法の撃ち合いで、負けるつもりはない。
だが、距離があればあるだけ、魔法は通用しにくくなる。
一般的に、防御魔法よりも、攻撃魔法の方が発動が遅い。
距離があれば尚更差が出る。
距離計算と制御が困難になるからだ。
魔法戦闘で負けはしないが、時間が掛かる。
そして、人数の利を活かせない。
これだけの人数差があるのだ。
活かさないのは、愚かといえるだろう。
距離が縮まれば、魔法使いとしての地力の差が出る。
だが、近付かれ過ぎるのも危険だった。
ルーアは、剣も遣うのだから。
接近されることは、避けるべきだ。
だから、この二十メートルという距離だった。
魔法で攻撃も防御もしやすい距離。
間に入るステヴェや兵士たちの援護もしやすい。
前衛の背後から、存分に魔法を使える。
援護があれば、ステヴェたちも接近戦に持ち込みやすいだろう。
こちらの戦力を最大限活かせる距離。
兵士たちを前に出しつつ、イアンは後退した。
そうすることにより、兵士たちの陰に隠れる。
ルーアがイアンのことを見たのは、ほんの一瞬のことだった。
意識は向けているだろうが、視線が指しているのは。
ステヴェ、そして倒れているティア・オースター。
不意に、嫌な予感がした。
悪意のある大きな手で、頭を押さえられているかのような感覚。
ステヴェが、抜き身の剣を手に不敵な笑みを浮かべる。
闘争心が、ルーアに向かっている。
左腕の負傷を除けば、充実している状態といえた。
また、嫌な予感がした。
なぜ。
ルーアか。
今日は、運に恵まれている。
いくつもの不利な状況を越えてきた。
強敵たちを相手にしても負けなかった。
自分もステヴェも、死ななかった。
勘も、冴え渡っている。
その勘が、伝えてくる。
この小僧は、危険だ。
しばらく飛行の魔法を使い続けていたのだろう。
肩で息をしている。
消耗は、かなりのものだろう。
それなのに、ルーアがとてつもなく大きく感じられた。
ステヴェが、躊躇いなく足を前に出す。
いつも通りのステヴェだ。
強敵にも、動じない。
恐れを知らない。
兄が感じている脅威を、弟は感じていないのか。
勇敢な弟だ。
臆病な一面もあるイアンとは、違う。
それが、眼を曇らせていないか。
臆病者は、勇敢な者より考える。
臆病者だけに感じられるものもある。
ルーアの脅威を、ステヴェは見えていない。
戦闘になれば、ルーアは真っ直ぐに、ティア・オースターの前にいるステヴェを狙うだろう。
ルーアの殺意を、ステヴェが捌けるのか。
左腕を使えない、眼が曇っているステヴェが。
いや、ステヴェ・クレアだ。
ルーアなどに殺されはしない。
それに、自分がいる。
ステヴェが見えていない部分は、この兄が補う。
「ステヴェ」
突っ込ませようとした。
それを、イアンは援護する。
当初から考えていた戦法だ。
弟と共に戦うなら、他の戦い方はないとも言える。
ふと、頭を過るものがあった。
『コミュニティ』でも特別とされている十二人。
死んだボス。
最高幹部である、ザイアムとクロイツとソフィア。
ザイアムの下には、ズィニア・スティマとノエル。
クロイツの下には、ハウザードともう一人。
ソフィアにも、側近が二人いた。
そして、『百人部隊』隊長と副隊長の、ウェイン・ローシュとイグニシャ・フラウ。
特別な十二人。
彼らに睨まれたら、ズィニア・スティマやノエルに剣を向けられたら、ハウザードに魔法で狙われたら、今のような脅威を感じるのではないか。
ルーアは、彼らに並んだのではないか。
いや、まさか。
そんなはずはない。
だが、ソフィアの側近たちは死んだ。
『バーダ』第八部隊との戦闘の中で、散っている。
ルーアがその一端を担ったのは、紛れもない事実である。
ウェイン・ローシュとは、互角の勝負をしている。
イグニシャ・フラウのことは、部下諸とも殺している。
本当に、並んだのではないか。
特別な十二人と。
「ステヴェ!」
突っ込め。言おうとした。
突っ込み、斬れ。
それが、兄弟の力を最大限活かせる戦い方。
「退け!」
そう叫び、イアンは混乱した。
言うべきことの、真逆である。
ステヴェも、表情に戸惑いを見せる。
すぐに言い直すべきだ。
兄弟で力を合わせれば、確実に勝てる。
「ザイアムを殺したいのだろう!? ティア・オースターを連れて、行け!」
ますます混乱する。
ルーアが、特別な十二人に並んでいると感じているのか。
だから、ステヴェと戦わせたくないと思っているのか。
だが、ルーアとの戦闘を避けさせるのは、ステヴェにザイアムの元に行けということである。
(まさか……)
ルーアはザイアムに匹敵すると、ザイアムを超える存在だと、思っているのか。
ルーアと戦わせるよりも、ザイアムに挑ませる方が、ステヴェが生き残る可能性は高いと。
冴え渡る勘が、イアンにそう告げているのか。
そんなはずはない。
「いいのか……?」
ステヴェは、迷っているようだ。
そんな弟の姿は、久しぶりに見る。
「……行け。ルーア一人、私と兵士で充分だ」
それは、事実だろう。
兵士を前衛に、ルーアと戦う。
ほぼ絶対に勝てる条件である。
「……わかった。任せる」
ティア・オースターを担ぎ上げ、ステヴェが駆け出す気配が伝わる。
イアンは、もうステヴェを見ていなかった。
ルーアだけに集中していた。
気を抜けば、この子供に喰われる。
「どけよ……」
ルーアの低い唸り声が、この距離でも聞こえた。
臆するな。
女をさらわれた男の気迫が、過剰にルーアを大きく見せているだけだ。
ただ、ステヴェは戦わせられない。
左腕が使えない分、万が一がある。
戦えば、ルーアは殺せる。
自分は生き残る。
だが、ステヴェは死ぬ。
万が一が起きる。その予感があった。
だから、ステヴェは先に行かせる。
ここで、速やかにルーアを排除する。
そしてステヴェに追い付き、ザイアムへの無謀な挑戦を止める。
兄として、弟の脅威を打ち砕く。
「どかんよ。貴様は、ここで殺す」
ティア・オースターの予想外の奮戦により、兵士三人が倒された。
それでも、まだ十五人の兵士がイアンの前にいる。
ルーアが、息を吸い込む。
「どけっ!」
壊れた第九地区に轟くのは、雄叫び。
戦闘が、始まった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
剣を手に、前進する。
イアン・クレアは、シーパルやユファレートにも比肩するかもしれない魔法使い。
さらに、兵士十五人ほどが前衛としているのだ。
魔法を自在に使える。
接近して、斬るしかない。
ルーアは、疲れていた。
第九地区に入ったところで、馬が潰れたのだ。
しばらく飛行の魔法を使うことになった。
疲労があっても、前に進む。
止まれば、それだけティアは遠ざかる。
追い付きかけたが、ステヴェ・クレアに連れていかれた。
それは、ルーアにとって有利に働くか、不利に働くか。
クレア兄弟を同時に相手にすれば、敗北は必至だったかもしれない。
ルーアは、ティアの側にいた、負傷の影響が残っているはずのステヴェ・クレアだけを狙っただろう。
側面から、イアン・クレアと兵士たちの攻撃を受けることになっていた。
手足の一本や二本は、奪われたかもしれない。
それでも、ステヴェ・クレアだけは殺し、ティアを助ける。
そして、なんとかして連れ帰る。そのつもりだった。
だが、ステヴェ・クレアはティアを連れて去った。
危険な敵の一人がこの場からいなくなったということだが、まだまだ不利な状況には変わりない。
ここで時間を掛ければ、ステヴェ・クレアはザイアムと合流する。
ザイアムとの戦闘を避けられなくなる。
イアン・クレアという強い魔法使い。
隙のない陣形。
それでも、倒すために進むしかない。
前衛の兵士たちが、左右に分かれる。
正面にイアン・クレア。
手を上げている。
「ル・ク・ウィスプ!」
「ルーン・シールド!」
無数の光弾を、魔力障壁で受け止める。
一発一発は軽い。
だが、全ての光弾が、的確にルーアが発生させた魔力障壁を叩く。
そして、次が速い。
「ル・ク・ウィスプ!」
光弾が、再度放たれる。
魔力障壁を維持し、防ぐ。
腐った大地を穿ち、土煙が起きる。
「ル・ク・シェイド!」
次にイアン・クレアが放ったのは、闇色に染まる無数の弾丸。
土煙が舞い起こり、視界が悪い。
夜の闇の中では、完全には見切れない。
左右に逃げることはできなかった。
魔力障壁の維持を続けなければならない。
完全に足を止められた。
魔力障壁を叩く衝撃が響く。
兵士たちが、左右から接近していた。
後退しながら、剣や槍を捌く。
複数でなければ、どうにでもなる程度の腕である。
だが、連携が取れている。
イアン・クレアの指揮がいいのだろうか。
兵士たちを、番号で呼んでいるようだ。
生前の名前の記憶など、兵士にはないのかもしれない。
槍を掻い潜ろうとした先に、剣の切っ先がある。
一人も倒せない。
敵はまだ、ここにいるだけでも十数人いるというのに。
逆転の手はないか。
魔法。それが、頭にすぐ浮かんだ。
強力な魔法で、一掃か、それに近い打撃を与える。
イアン・クレアの指示で、兵士たちが一斉に退いた。
そして高らかに響く、魔法を発動させる声。
「グランド・ジャベリン!」
大地が隆起し、錐となって突き進む。
防御魔法を思い浮かべ、だがルーアは頭から追い出した。
受けるな。
左右に振れない直線的な魔法だ。
かわせ。
左に跳躍した。
大地の錐の一本が耐刃ジャケットの表面をかすり、バランスを崩す。
それでも、無傷でかわした。
後退する兵士の一団に、掌を向けた。
七、八人はいるか。
まずはこれを一掃する。
最大出力で放つべく、魔力を引き出し、練り上げていく。
「ヴァイン……、……!」
兵士たちの前に現れる、イアン・クレア。
止まらない。
「……レイ!」
「ルーン・シールド!」
最大出力で撃ち出した光の奔流が、受け止められる。
イアン・クレアの展開した魔力障壁が、傾いた。
障壁の表面を滑るように、光の奔流が曲がっていく。
イアン・クレアや兵士たちの頭上を灼き切り、ルーアの魔法は消失した。
最大出力で放った魔法を、受け流された。
膝を付きそうな疲労感がある。
動きと思考を、完璧に読まれた。
そして、魔法を釣り出された。
移動に魔法を使いすぎた分、魔力が枯渇気味だった。
その状態でも放った、渾身の魔法だった。
だが、逆転を信じ放った魔法は、一枚の魔力障壁によりあっさり防がれた。
兵士の一人も倒すことなく。
失った魔力以上の喪失感がある。
大地の錐が崩れた。
その陰から飛び出す、兵士の一団。
刃を受け止めるが、同時に斬り付けられルーアは転んだ。
魔法を使いすぎた影響が、足にもきている。
回復まで、少し掛かるか。
悟られてしまえば、一気に畳み掛けられる。
騙せ。
そして、倒せ。
ルーアと兵士との距離が近い分、イアン・クレアは攻撃よりも防御と補助に魔法を使うはず。
魔法に関しては、先手を取れる。
「ディレイト・フォッグ!」
霧を発生させる。
夜の闇に、霧である。
視界を奪われ、兵士たちは攻撃を躊躇うはずだ。
個で戦うルーアとは違い、兵士たちには同士討ちの危険性が生まれるのだから。
だから、イアン・クレアはまず、この霧を消し去ろうとするはずだ。
そこまでは、読めた。
先程は読みきられたのだ。
今度は、こちらの番である。
イアン・クレアが霧を消去する魔法を使う前に、ルーアは速度重視で瞬間移動の魔法を発動させた。
目眩に耐え、息を殺す。
イアン・クレアは、ルーアが瞬間移動の魔法を使ったことを感知したはずだ。
反射的に、転移先を探す。
だが、ルーアが転移したのは、その場だった。
ドニック王国で、対グリア・モート戦の時に使った手と同じである。
転移先を知るまでは、イアン・クレアは魔法を使えない。
どこから魔法が飛んでくるかわからないのだから、防御を固めるしかないはずだ。
間接的に、イアン・クレアの攻撃は封じた。
兵士たちの足も、霧の中で止まっている。
ここで、数を減らす。
ルーアは、踏み出した。
ここにいるのは、全て敵。
味方を傷付ける心配はない。
思い切り剣を振ればいい。
手応え。一人、斬った。
二人には、受け止められている。
イアン・クレアの、魔力の波動。
ルーアの居場所は、知れたはずだ。
兵士と剣を合わせていることも、剣撃の音で知った。
ならば、同士討ちを避けるために霧を消し去る魔法を使う。
ルーアは、後方に大きく跳躍した。
「リウ・デリート!」
イアン・クレアの魔法が発動した。
ルーアが魔法を使ったのは、その直後だった。
消去の魔法を発動させた直後では、思うように防御の魔法を使えないはずだ。
霧が晴れる。
兵士たちの姿。
そして、イアン・クレアの姿。
ルーアは、腕を振り上げた。
イアン・クレアの背後には、ステヴェ・クレアがいる。
あるいは、ザイアムとも戦わなければならないかもしれない。
それでも、出し惜しみはできない。
そんなことをして勝てる相手ではない。
「ヴァル・エクスプロード!」
また、最大出力に近い力を放出する。
それを、より速く。
イアン・クレアが、魔力障壁を展開させる。
消去の魔法を使用した直後になる。
イアン・クレアでも、兵士たちまでは守りきれない。
ルーア自身も巻き込みそうな位置で大火球は破裂し、イアン・クレアの魔力障壁の前にいる兵士たちを、破壊の中に呑み込んでいく。
吹き飛んだのは、七、八人か。
敵を前にしながら、ルーアは顔を上げそうになった。
息が切れている。
魔力も尽き掛けている。
まだ、敵の半数ほどは生きている。
戦いは、まだこれからだった。
圧倒的に不利な戦いは続く。
それでも、通用している。
ルーアという者の凡人の力は、強敵たちに届いている。
戦力差をひっくり返すための作戦はない。
拓けた場所であり、身を隠すこともできない。
正面から、戦うしかない。
ここからは、生存するという本能、敵を倒すという意志に懸ける。
奥歯を噛み、震える足に力を込め、敵中に突っ込む。
イアン・クレアは後退する。
兵士たちは、ルーアを包み込もうと動く。
大火球が間近で炸裂したという影響は、五感にあるはずだ。
あるいは、精神にも衝撃を与えたかもしれない。
全てが、わずかに狂う。
正面と右から剣、左からは槍が伸びてくる。
わずかに乱れがあった。
連携の齟齬を、ルーアは見逃さなかった。
剣よりも先にくる槍を、右に払う。
体勢を崩した兵士が、他の兵士とぶつかる。
首を二つ飛ばし、ルーアは前進した。
イアン・クレアを倒す。
それで、兵士は戦意を失う。
「ブレイジング・ロー!」
イアン・クレアの放った炎が、突き進んでくる。
体の位置をずらし、簡単にかわした。
本能に身を任せ、思考を止めた。
反射に委ねた。
それが、ルーアを鋭くしている。
イアン・クレアが魔法を使う前から、反応できた感じだった。
魔法をかわした隙に、兵士たちが斬りかかってくる。
受け流しながら下がる。
イアン・クレアが番号を二つ言いながら、さらに後退する。
兵士が二人、イアン・クレアに付いていた。
ルーアの前に立ち塞がる兵士は、三人。
三人は、ルーアの動きを止めることが役割だろう。
二人は、ルーアの魔法からイアン・クレアを守るための盾か。
そしてイアン・クレアは、距離を取り、味方に守られている安全圏から、魔法で攻撃するつもりだ。
おそらく、兵士たちを巻き込んでも構わないというような、大きな魔法を使ってくる。
兵士の相手をしながらでは、イアン・クレアの全力の魔法を受けきれない。
半端な魔法攻撃では、イアン・クレアまで届かない。
切っ先をかわしていく。
間に合うか。
イアン・クレアの体内から放出される魔力が、膨れ上がっていく。
三人の兵士に牽制され、思うように身動きが取れない。
頭部を狙って振られる剣を身を低くしてかわし、ルーアは斬撃を繰り出した。
足下目掛け振ったものである。
兵士が、跳躍してかわす。
体が宙に浮けば、動きが取れなくなるものだ。
わずかに与えられたその時を逃さず、地に足を付いた二人の兵士に、ルーアは向き直った。
突きを逸らしながら、踏み込む。
小さく振った剣が、兵士の首筋を裂いた。
もう一人の兵士の剣。
右肩で受けた。
剣の根元である。
そこでは、耐刃繊維が縫い込まれているジャケットを、破ることはできない。
さらに踏み込んだ。
剣が、兵士の胸を破り、深々と突き刺さっていく。
イアン・クレアが空に翳す掌の先で、炎が膨張している。
魔法が完成する直前。
強烈な魔法が放たれようとしている。
ルーアは、剣で打たれ痛む右腕を上げた。
「エア・ブリッド!」
風塊が、跳躍した兵士の胸を打つ。
簡単な魔法だが、一点集中したものを至近距離で当てれば、骨を折るくらいはできるだろう。
折れた骨が、心臓などを傷付けることも有り得る。
致命傷になったかもしれない。
右手を伸ばし、悶絶する兵士の胸ぐらを掴む。
イアン・クレアの魔法が完成した。
「ヴァル・エクスプロード!」
先程のお返しと言わんばかりの、大火球の魔法。
咄嗟に、魔力障壁を展開させる。
大火球が破裂する。
巨大な炎が、熱が、ルーアを包む。
魔力障壁が砕け散る。
炎が消えると同時に、ルーアは息を吐いた。
剣で貫いた兵士と、右手で掴んでいた兵士の死体を捨てる。
魔力障壁と、兵士の死体。
複数の盾で、なんとかイアン・クレアの魔法に耐え抜いた。
全身の軽い痛みを無視して、ルーアは駆けた。
あとは、イアン・クレア、兵士が二人。
イアン・クレアは、必殺の意識を持って魔法を放っただろう。
それを防いだ事実を勢いに乗せ、押しきる。
剣を先に兵士たちとぶつかる。
右手を振り抜いた。
「ヴォルト・アクス!」
近接戦闘用の電撃魔法が、兵士二人を灼き払っていく。
焼死体を蹴り倒し、また進む。
下がりながら、イアン・クレアが手を上げていた。
「フォトン・ブレイザー!」
光線。魔法の使い終わりを狙われた。
「ルーン・シールド!」
それでも、充分な強度を持つ魔力障壁を展開させる。
近距離からの光線の破裂に、魔力障壁が破砕する。
衝撃で後方に転びそうになるが、無理矢理ルーアは足を前に付いた。
イアン・クレアは、一人になっている。
接近すれば、勝てる。
あと二歩踏み込めば、剣が届く。
魔法使いであるはずのイアン・クレアの表情には、これだけ近付かれていても余裕があった。
近付かれたのではない。敢えて近付かせた。
表情が、それを物語っていた。
無茶な魔法の使い方をしなければ、距離を詰められなかった。
その分、消耗は激しい。
接近されても、押し返せる自信があるのだろう。
「ヴォルト……」
イアン・クレアが、手を振り上げる。
同時に、ルーアも。
「……アクス!」
電撃と電撃が、ぶつかり弾ける。
衝撃と光の交錯に、視界を失う。
体が流れる。
剣を地面に突き立て、倒れるのを防いだ。
いくらか回復した霞む視界の中で、イアン・クレアがこちらに掌を向けている。
ルーアも、掌をイアン・クレアに向けた。
魔力を引っ張り出す。
炎に変わっていく。
どれだけ魔法を連発したのか。
これ以上は、魔法を使えない。
持たない。魔力が。
驚愕の様子で、イアン・クレアが叫ぶ。
「持つわけがない!」
「持たせるんだよ!」
至近距離で、ルーアは叫び返した。
イアン・クレアの元にあるルーアの情報は、少し古いものなのだろう。
魔力が、持つわけがなかった。
去年までのルーアならば。
ドラウ・パーターと出会う前のルーアならば。
互いに撃ち合った炎が、二人の間で衝突する。
互いに干渉し合い、威力を削り合い、軌跡を変える。
イアン・クレアが放った炎が、ルーアの右肩に着弾し、破裂する。
地面を転がりながらも、ルーアは剣を離さなかった。
イアン・クレアから意識を外してもいない。
ルーアが放った炎は、イアン・クレアの胸を灼いていた。
苦悶に顔を歪め、膝を付いている。
立ち上がったのは、わずかにイアン・クレアの方が早かったか。
一息つくつもりはないようだ。
ルーアも、それは同じだった。
渾身の力で戦い続ける。
「グランド・ジャベリン!」
大地から生えた錐が、ルーアを襲う。
「フォトン・ブレイザー!」
光線が、打ち砕いていく。
目眩がした。
足が縺れる。
イアン・クレアは、すでに次の魔法を放つ準備をしている。
剣を投げ付けた。
「フレン・フィールド!」
魔法を切り替え、力場で剣を弾くイアン・クレア。
左の指先で地面に触れ体勢を立て直すと、剣を手放し少し軽くなった体で、ルーアは前進した。
負傷した右腕は、動かせないようだ。
剣も失った。
だが、素手でも敵は倒せる。
左手一本でも殺せる。
接近戦に、勝てる可能性はある。
イアン・クレアが、よろけている。
テラントやデリフィスと、シーパルやユファレートと戦ってきたのだ。
消耗していないはずがない。
イアン・クレアもまた、限界が近いのだ。
間合いを潰していく。
「ブレイジング・ロー!」
近距離で撃ち合った炎。
尻餅を付きそうになる。
炎が撒き散る中で、ルーアは地面を跳ねる剣を見た。
イアン・クレアの足下に転がる。
魔法よりも、剣の方が速く、有効な距離。
イアン・クレアが、剣を拾う。
ルーアは、体勢を崩している。
かわせそうにない。
剣がルーアの足下に転がっていれば、勝てたかもしれない。
だが、運に恵まれなかった。
デリフィスやシーパルと同じか。
運は、とことんまでイアン・クレアの味方をするつもりか。
なんのつもりか。
イアン・クレアが、一度は拾った剣を捨てた。
勝機。
おそらく、最後の勝機。
「グランド・ジャベリン!」
大地の錐を発生させる魔法。
ルーアは、指を地面に向けた。
最後の魔力を振り絞る。
攻撃魔法よりも、防御魔法の方が早い。
「ルーン・シールド!」
地面すれすれに展開された魔力障壁が、大地の錐が伸びるのを防ぐ。
砕けた大地の錐と魔力障壁で不安定になった足場で、ルーアは踏み出した。
もう、手が届く。
左の拳を突き出した。
焼け爛れたイアン・クレアの胸の中央に、全力で叩き込む。
呻き、倒れ込むイアン・クレア。
すぐに跳ね起き、身構える。
魔法を放つための姿勢。
イアン・クレアが捨てたことにより、ルーアの剣がまた地面を跳ねていた。
左腕を伸ばし、逆手で柄を掴む。
魔法よりも、剣の方が速い。
体を伸び上がらせるようにして、左腕を振りきった。
手応え。
剣が、イアン・クレアの右の脇腹を裂き、肋骨に引っ掛かりながら左肩まで斬っていく手応え。
血を散らしながら、イアン・クレアが倒れる。
腕を振った勢いだけで、ルーアは転びそうになった。
転ばなかった。
力尽きるのは、全てが終わってからだ。
イアン・クレアには、まだ息があった。
逆手で剣を遣った分、致命傷よりも少し浅かったか。
すぐに血を止めれば、まだ間に合うかもしれない、といった傷。
だが、イアン・クレアは虚ろな眼で血を吐くだけだった。
どうやら、傷を癒すだけの余力は残されていないようだ。
イアン・クレアの隣に、ルーアは両膝を付いた。
ルーアにもまた、余力はない。
張り詰めたものが途切れ、全身の痛みを感じるようになった。
特に、右肩の痛みは深刻だった。
今は、それを和らげることもできない。
イアン・クレアが、弱々しく口を開く。
「……ザイアムは……」
その名前を聞き、危うく途切れ掛けた意識が覚醒するのを、ルーアは感じた。
まだ、なにも終わっていない。
ティアが、攫われたままだ。
「……私たちの兄である……フロリンを殺した……」
「……」
「……ステヴェは……ザイアムを殺し……兄の仇を討つつもりだ……」
脳が疲れている。
理解するのに少し時間が必要だった。
理解してしまえば、なんのことはない。
『コミュニティ』は一枚岩の組織ではないということを、思い出しただけである。
「……ステヴェは……ザイアムに挑む……。……邪魔しないでくれないか……?」
「……べつに、好きにしろよ。敵が同士討ちしてくれるなら、こっちとしては、ついてるなってだけだ。オースターを助けられるなら、俺はそれでいい」
「……そうか……」
イアン・クレアの体から、ゆっくり力が抜けていく。
まだ、かろうじて生者のままでいる、といった感じだった。
「……ついている、か……。……つきは、私にあった……だが、負けたな……」
「……そう言えば、なんで剣を捨てた? 魔法使いとしての誇りが、魔法にこだわらせたか?」
あれがなければ、多分ルーアが負けていた。
苦しそうに、イアン・クレアが笑う。
「……重たくて、振れそうにない……それだけだ……」
「……そうか。だったら、俺の勝ちだ」
失うたびに、剣の重さは変えている。
肉体の成長に合わせ、より良い物を選んできた。
前に使っていた剣は、ザイアムに折られている。
それがなければ、同じ剣を使い続けていたかもしれない。
イアン・クレアは、剣を捨てずに、振りきったかもしれない。
「……私の……負けだ……」
イアン・クレアの瞳から、光が失われていった。
間もなく、命が尽きる。
「……ステヴェは……ザイアムを殺すだろう……。……兄の仇を……ああ……お前も、ステヴェにとっての兄の仇になるな……」
そこで、イアン・クレアはにやりとした。
「……お前も……ステヴェに殺されてくれ……」
「……悪いけど、それは聞けない頼みだな」
それが、ルーアがイアン・クレアに掛けた、最後の言葉だった。
イアン・クレアが、眼を閉じ、息を吐いた。
もう、眼が開かれることも、息を吸うこともない。
ルーアは、立ち上がれなかった。
それだけの体力も、傷を治すだけの魔力も残っていない。
まだ終わっていない。
だが、少し休む時間が必要だった。
残る敵は、あと二人。
ザイアム、ステヴェ・クレア。
いや、あと一人になるのか。
イアン・クレアの言う通り、ステヴェ・クレアはザイアムに挑むのか。
では、残る敵は、ザイアムかステヴェ・クレアか、どちらかになるのか。
「……ザイアムが勝つに決まってるだろ」
ルーアは、独り言ちた。
先程までは、ここに大勢の者がいた。
今は、ルーアだけである。
以前は大勢の市民が暮らしていたここで、孤影としてルーアだけが残っている。
死の臭いが濃いこの場所から、まだしばらくは動けそうになかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
一人で、ザイアムは待っていた。
誰かが来るという予感は、ずっとあった。
『ダインスレイフ』を背に、佇む。
ミジュア第九地区。
かつて、『ティア』やルーアと暮らした土地である。
家は、残っていない。
五年前に、全て消し飛んでしまった。
そして、全てが変わってしまった。
狂ってしまったという表現の方が、正しいのかもしれない。
夜半過ぎ、ザイアムはいつの間にか閉ざしていた瞼を開いた。
暗い。
第九地区に満ちる瘴気は空を隔て、地に月と星の光が届くことはない。
夜は、真っ暗闇に近かった。
それでも、眼がすぐに暗闇に順応する。
気配を殺すのは無駄だと悟っているのか、堂々と現れたのは、ステヴェ・クレアだった。
すでに、右手に抜き身の剣を持っている。
意識がないであろうティア・オースターを右肩に担ぎ、腕で挟むようにして固定していた。
左腕は、完全に動かせないようだ。
負傷していても、眼に力はあった。
闘志というよりも、もっと暗い、復讐に染まった眼差し。
無言で近付いてくる。
ザイアムも、無言でただ待った。
ステヴェ・クレアが、あと十歩ほどの所で立ち止まった。
片腕しか使えない状態なため、担ぐだけで、ティア・オースターに刃は向いていない。
だが、その気になれば、ティア・オースターの体を捨てると同時に、一刀両断にできるだろう。
ティア・オースターを、娘のように育てた『ティア』と同じ姿の女を人質に、ザイアムと向かい合っている。
イアン・クレアの姿は見えない。
置いてきたのか、ルーアと戦い死亡したか。
ルーアは、どうなったのか。
クレア兄弟に追い付かなかったのか、イアン・クレアに足止めを喰らったか。
死んだ可能性もある。
この場にいるのは、人質になっているティア・オースターを除けば、ただ二人だけ。
片方はザイアム、片方はステヴェ・クレア。
邪魔は入らない。
ステヴェ・クレアにとっては、復讐を果たす好機である。
唸りのようなものが聞こえた。
ステヴェ・クレアが、息を吐いたのか。
緊張しているのか、興奮を押さえているのか。
暗い視界の中央で、ステヴェ・クレアが口を開いた。
「武器を捨てろ、ザイアム」
それは、ザイアム自身がステヴェ・クレアに教えた、ザイアムの殺し方。
ザイアムもステヴェ・クレアも、『コミュニティ』の一員だった。
そしてザイアムは、『コミュニティ』最高幹部の一人である。
ステヴェ・クレアにとっては、後戻りできない行為になる。
これでザイアムが要求を飲まなかったら、ステヴェ・クレアは躊躇わずティア・オースターを殺すだろう。
それは、別の意味で復讐を果たしたと言えるのかもしれない。
ザイアムは剣帯の留め具を外し、鞘ごと『ダインスレイフ』を放り捨てた。
途端に、不快感が全身を包む。
第九地区を侵す瘴気から、『ダインスレイフ』は自動でザイアムを守ってくれていた。
また、唸り声が聞こえた。
ステヴェ・クレアが歓喜を噛み殺しているのだ、とザイアムは思った。
今こそ、兄の仇を討つ時、と考えているのだろう。
『ダインスレイフ』が転がるのは、丁度二人の中央辺りだった。
ステヴェ・クレアが、じりじりと進む。
ティア・オースターのことは、まだ担いだままである。
どこかで、解放するはずだ。
左腕が使えない状況では、人を担いだまま剣を振れない。
自決しろ、などといった要求を出すはずがない。
そんな要求をされても、ザイアムは頷くつもりはなかった。
ステヴェ・クレアは、間違いなく達人の域にいる。
それが武装し、人質を取っているのだ。
それでも、『ダインスレイフ』を捨てろという要求を呑んだ。
まだ、返り討ちにできる可能性が残るからである。
ここまでは、譲れる。
最大限譲歩されたステヴェ・クレアは、全力でザイアムを殺しにくるだろう。
達人であるステヴェ・クレアの剣を、素手で捌けるか。
待つ間、ザイアムは構えもしなかった。
それが、ステヴェ・クレアを刺激することになる。
転がる『ダインスレイフ』の所まで到達したステヴェ・クレアが、後ろ足で蹴飛ばした。
ザイアムの位置からではすぐに回収できない所に、『ダインスレイフ』が転がっていく。
さらに、ステヴェ・クレアが進む。
立ち止まったのは、三歩手前だった。
あと一歩踏み出せば、剣が届く。
あと一歩を踏み出す直前に、ティア・オースターを捨てるだろう。
その瞬間から、決戦は始まる。
ステヴェ・クレアは、強張った笑みを浮かべていた。
「……兄、フロリン・クレアの仇だ、ザイアム」
「そうか。すまないことをしたな」
無感情にザイアムが言うと、ステヴェ・クレアの表情はますます硬いものになった。
だが、ふっと力が抜ける。
無駄に力が入りすぎていると、気付いたのだろう。
最高の斬撃を繰り出すために、最良の精神状態になろうとしている。
そして、ステヴェ・クレアはそれに成功したのだろう。
ソフィアの『邪眼』のような、特別な能力はない。
だが、ザイアムはステヴェ・クレアが斬り掛かってくるのが視えるような気がした。
ステヴェ・クレアは、剛の剣士である。
この場面で、フェイントはないとザイアムは読んだ。
敵を惑わすよりも、自身の最善を出すことに力を入れてくる。
ほとんど無意識のうちに、ザイアムはステヴェ・クレアと息を合わせていた。
来る、ということを、来る前に察知した。
ステヴェ・クレアが、ティア・オースターの体を後ろに落とすようにして捨てる。
ほぼ同時に、踏み出す。
剣を持つ右腕を振り下ろす。
ザイアムの上体を、左の肩口から右の脇腹まで斬り裂く軌跡。
ステヴェ・クレアにとっては、おそらく理想に限りなく近い斬撃だろう。
斬られる前に、ザイアムは反応していた。
左手が動く。
ステヴェ・クレアの、理想の斬撃。
剣の重量、そしてステヴェ・クレアの体重が完璧に乗った、重たい一撃。
それを、ザイアムは左手で掴んだ。
刃が、掌に喰い込む。
滲み出した血が、手首を伝っていく。
渾身の剣だっただろう。
あらゆる感情を剣身に乗せただろう。
だが、受け止めた。
親指とそれ以外の指で挟んだ剣は、ザイアムの体を真っ二つにする前に止まった。
掌の痛みを、ザイアムは自覚した。
ステヴェ・クレアの剣は片腕でも、ライア・ネクタスの剣よりは重く、鋭かった。
ステヴェ・クレアが、歯を軋ませる。
強引に押し切ろうとしている。
だがザイアムは、びくともさせなかった。
剣から、風が巻き起こる。
魔法剣だったか。
至近距離から烈風を浴びたが、ザイアムは瞬き一つしなかった。
後ろに引っ張られる伸ばした髪を、煩わしいと感じただけである。
なにもしていない右手を、ゆっくり上げた。
拳を作り、腰に溜める。
ステヴェ・クレアが、眼を血走らせ必死に足掻く。
すでに自由は奪っていた。
剣を掴み、固定させた。
剣を伝わり、ザイアムの力はステヴェ・クレアにまで届いているはずだ。
上から掌で頭や肩を押さえ付けているようなものである。
ステヴェ・クレアは、足を上げることもできないだろう。
つまり、ザイアムのことを蹴りつけることもできない。
左腕は、負傷している。
ステヴェ・クレアがこの状況を脱するには、剣を捨てるしかないだろう。
だがそれは、敗北に等しい。
次の瞬間の敗北をステヴェ・クレアが避けられるとしたら、ただ一つ。
ザイアムの右の拳をかわすことだけである。
ステヴェ・クレアの体の中央、鳩尾に狙いを定める。
「……惜しかったな。両手で剣を遣えていたら、お前は私を殺せたかもしれない」
ステヴェ・クレアの眼の端が、吊り上がる。
「ザイアム……!」
怨嗟の声を、ザイアムは聞き流していた。
そんなもので、殺されはしない。
どれだけ罵られようと、唾をかけられようと、痛痒はない。
息を吐く。同時に、拳。
ただ真っ直ぐに突き出す。
ステヴェ・クレアが、わずかに体を捻らせようとする気配を感じた。
だが、それより先に、ザイアムの右拳がステヴェ・クレアの鳩尾に触れる。
拳が、破壊する。
鍛え上げられた腹筋を貫き、肋骨を砕く。
ステヴェ・クレアの体が、中央から折れ曲がる。
ザイアムの拳は、ステヴェ・クレアの背骨までへし折った。
ステヴェ・クレアの体が吹っ飛び、腐った地面を転がっていく。
ザイアムは、大きく息をついた。
動かなくなったステヴェ・クレアの方に歩を進め、途中で『ダインスレイフ』を回収する。
それ以上、進まなかった。
生死を確認する必要はないと判断したからだ。
ステヴェ・クレアの眼が、こちらを向いている。
それに執念のようなものを感じたが、それだけだ。
死者の眼では、傷一つ付けることもできない。
『ダインスレイフ』を背負い直す。
左の掌の傷は、浅いものだった。
血が滲んでいるが、そのうち止まる。
打突に使った右手の痛みの方が気になった。
力を入れすぎたようだ。
それだけ、ステヴェ・クレアが危険な相手だったということなのだろう。
手首を振り、状態を確かめた。
挫くなどはしていないようだ。
数分もすれば、痛みは消え去るだろう。
戻り、ティア・オースターの様子を確認する。
意識はないが、命に別状などはないようだ。
「さて……」
意味もなく、呟く。
ティア・オースター。
そして、ザイアムと『ティア』とルーアが家族として暮らした、この場所。
準備は、整った。
ルーアを待ち受ける、準備が。
本当にルーアは来るのか。疑問を感じた。
ルーアは、イアン・クレアと交戦しているのかもしれない。
そうだとしたら、イアン・クレアには最低でも十人以上は兵士が付いているだろう。
それだけの戦力を相手に、ルーアは勝てるのか。
(……いや、来るな)
必ず、ルーアは現れる。
三人で暮らしたこの場所なのだから。
ティア・オースターが捕らえられているのだから。
ザイアムが、来いと言ったのだから。
必ず、一人で来る。
例え、どんな妨害があろうとも。
ルーアには、もう時間がない。
これ以上、時間は掛けられない。
全てが狂ったこの場所で、決着を付けよう。
言葉にする必要は、きっとない。
決戦の中で、全てを伝えよう。
ルーアなら、受け止めてくれる。
大きな力の前に、諦め、立ち尽くしたザイアムとは違う。
ルーアは立ち向かい、『システム』を狂わせたのだから。
暗い大地の上で、ザイアムは待った。
ティア・オースターに、意識を取り戻す気配はない。
死亡したステヴェ・クレアは、黙して語らない。
『ティア』と、ルーアと。
以前三人で暮らしたこの場所で、ザイアムは孤影となり待ち続けた。