チェス
最初に会った時は、美しさに感嘆した。
次に見た時は、こちらに注意も向けなかった。
3度目に顔を合わせる今、彼はこちらをただ見つめていた。
「今日は息子も連れて来たわ!」と目を輝かせながら現れた王妃に「御機嫌よう王妃様今日のお召し物もとても素敵ですねでは急用を思い出しましたのでこれで失礼します」と一息で言い切り立ち去ろうとした自分の肩が、すぐさま抑えつけられる。
「あらあら、照れちゃって可愛いわねえ」と言われつつ、割と強い力で席に押し戻された。
最初に訪問した時より明らかに彼女のお腹は大きくなっていて、間違えてもその身に傷一つ付ける訳にはいかない。そんなことになったら処刑台の刃か、最悪ジャグリーンによる産まれた事を後悔させる拷問が待っている。
ジャグリーンは唯のメイドだと思っていたが、実は王妃が母国から連れて来たとんでもないハイスペックメイドだったのだ。
城に呼ばれるようになってすぐ、告げ口の復讐をする為に彼女のメイド服をフリフリミニスカートにしようとした事がある。使用人用の個室に入ってクローゼットを漁ったら、大量の刃物が出て来た。しかも床に落ちた武器達を前に呆然としていた所、ジャグリーンが真後ろに立っていたのだ。物音に気をつけていたにも関わらず。
「大丈夫ですか?」と全く表情を変えず言った女の恐ろしさはいかばかりか。本気で消されるかと思った。
特に目立った怪我もなくそのまま解放してもらったが、それ以来ジャグリーンに対して逆らってはいけないと生存本能が働くようになってしまった。
ちなみに本来一番逆らえないはずの王家の方は、笑顔で城中の部屋のマスターキーを貸してくれた。
婚約者として相応しくないと判断されたら良いと思ってやった事でもあるのに、とても複雑である。
2週間ごとに呼ばれるようになって数回目、自分は王妃から面白いと思われているらしい。
少なくとも嫌われてはいないらしく、どう見たって無礼と取れる言動も、緩く許されるようになってしまったのだ。
これはいけない。
生憎自分は鈍感でも楽天家でもない。
目指すは自立なのだ。
1日18時間王妃の身につけるべき学問を学び続けたり可愛い女の子達と修羅場を繰り返す趣味は全く無い。
どうやってそれを回避するか。
幸いな事に、一番分かりやすい方法が目の前にあった。
「来て頂きありがとうございます、殿下。ミュート・アクスバリと申します」
「知ってる」
無機質な返事に、思わずガッツポーズをしそうになった。
興味ない!興味ない御声ですねありがとうございます!
「光栄です殿下。是非お会い「何それ」
したいと思っておりました、と続けようとしたら割り込むように返された声に驚いて、初めて彼の顔をちゃんと見た。
凄まじく整った顔だ。
しかしそれが今は、不快げに歪んでいた。
「もう良い」
ーーそのまま歩き去っていく背中を、何も出来ずに眺めていた。
「あらあら、ごめんなさいねえミュートちゃん」と言われ、こちらこそ大変ご無礼を致しました、と返す。
……やばい。
嬉しくて泣きそうだ。
引きつりそうになる口角を抑える事が出来ない。
これはどう見ても嫌われただろう。
帰りは教会まで祈願しに行こうこんなに上手くいって良いものか後は頑張れザラド殿。
しかし、まだ浮かれるわけにはいかないのだ。
此処から攻め込まねば。
「しかし、殿下を御不快にさせてしまった事は事実。やはり私のような者がこの場に居るのは、分不相応なのかと思います」
遠回しに城に来るのは嫌だと伝えてみる。
今なら、そう苦労せずに家での引きこもり生活を再開できる気がする。
給仕をしていたジャグリーンからの目線が冷えていく自覚はあるが、それでも此処は引けない。
イエスの返事を必ず取ってやる、と勇んで居ると、ドアが開く。
ーードアの向こうには、チェスの盤駒を持った王子がいた。
「勝負だ」
如何してこうなった。
いや本当に如何してこうなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最初こそ驚いたが、チェスは嫌いではない。
「……もう一回だ」
本当はチェスが出来ないと嘘をつけば良かったのだろうが、その場合王妃様から教えてあげなさいと気遣いをされる恐れがあった。
適当に手を抜こうとも思ったが、あくまで目的は嫌われる事だ。
遠慮なく戦わせていただく事にした結果、チェックメイトの声と共に盤上では黒のルークの射程が行き場をなくした白いキングに届く。
この勝ちを含めると3勝1分だが、殿下はなかなかの負けず嫌いらしい。
ハンデを付ける事も嫌がったのでせめて白になっていただいているのだが、それでも実力差は明らかだ。
もう一度ですかもう一度だ疲れませんか疲れない。
すっかり機嫌をよくした王妃様は彼女の夫の所に遊びに行ってしまわれて、子供二人の話し声と駒を動かす音だけが部屋に響く。
ポーンを進めると、相手が口を開く。
「何でだ」
「え?可笑しい手だったでしょうか」
「違う。王妃だ」
「ジュビア様が如何されましたでしょうか?」
「それも違う。お前だ」
互いに盤に向けられていた目が、まっすぐに合う。
「妃にならないのか」
合わせられた瞳は、空虚なようで確かに光を持っていた。
人形では無く人なのだと、はっきり分かる。
「……公爵家としては、それを願うでしょう。しかし私は、それ以外の道を選んでみたいのです」
なぜだ、と問われる。
返す声は、明らかに震えていた。
「自信も、力もありません。王妃として生きる事が、嫌な訳でもありません。けれど、それでは手の届かない物があるのです」
目はそらさずに言い切る。
「守りたい物を守り、愛しいと思うものの為に、生きてみたいのです」
自分が後悔しないように生きたい。それがどんな事なのか、今の自分には分からない。けれど今、真っ直ぐに聞いてくれた彼になら、正直に答えられると思った。
そうか、と呟くように言った彼が先程進めたポーンを取る。
いつの間にか形勢逆転をしてすっかり敗勢へと転じた盤面に思わず眉をしかめる。
どうにか引き分けまで持ち込むと不満げに鼻を鳴らされた上に再戦を申し込まれた。
初期配置に並べていると、ジャグリーンとは違うメイドが部屋に駆け込んで来た。
蒼くなった顔で王子の安全を確認すると、震える声でそれでもはっきり伝える。
「城内に賊が侵入、マーサ様がお怪我をされました」と。