エピローグ
古ぼけた窓際の椅子に、黒髪の女が座っていた。
齢は二十程だろうか。肩にかかる位の髪を無造作に垂らし、同色の瞳を窓の外の庭に向けながら、木枠を手でなぞる。
色の薄い手に傷があった。
刃物で切ったように真っ直ぐな一筋の、白く盛り上がった古傷。良く見れば女の至る所にそれらがあった。
例えば歪に曲がった爪先。首筋の火傷痕、足首の茶色い痣が、元は白かった肌を不自然に彩っていた。
若い女として相応しくない痕を数多残しながら、その顔には何も浮かんでいない。ただ窓の外にだけ視線を向ける。
誰かを待つように。
此処に居ない誰かを、探すように。
差し込む陽の眩しさから眼を伏せれば、細い睫毛が揺れる。
温くなった窓の向こう側、一陣の風が空気を攫ってゆく。
赤、桃、白、黄、真紅。
眼を見張るほど鮮やかな花々を揺らし、滑らかな花弁を舞わせ、踊らせ、光と空の色を鮮やかに彩る。
それは、どうしようもない程に美しい光景だった。
* * *
久しぶりと、震えずに言えるだろうか。
早鐘を打つ心臓を掌で抑え、見慣れた扉のノブに指を掛けた。今まで一度だって開く事に躊躇いなど無かったのに、随分と現金だと自嘲する。
微かな傷が目立つそれは二月ぶりで、触れるだけではうんともすんとも言わない。
「在る」物を見つけるのは得意だ。
だから隠しもしない向こう側の気配など直ぐに分かるし、それが彼であることも察せる。
寧ろ彼じゃなければ困る。折角大量の書類や周囲との攻防の合間を縫って此処に来たのだから、居ないなら途方に暮れる他無い。
いつだって此処に居たから、他の選択肢は知らなかった。
固まる指を動かそうとしても上手く行かず、手首ごと捻ってノブを回す。湿っている掌は勘違いではない。
笑えば良いと頭の中の道化が囁くが、そんな余裕が有るものかと冷静な部分が反論する。
指先が震える。頭を垂れて溜息一つ。音にならない息が空気に溶ける前に、手元の金属が勝手に動いた。
がちゃり。ぎぃ。
無情にも開いた扉の金属質な音を止める事は出来ず、映るのは見慣れた部屋と見慣れた彼。
何も変わらない濃い茶色の髪と目。割と整った、柔和さを隠し切れてない顔立ち。背の窓から射す日光に、髪の先端が薄く反射していた。
見上げた視線が交差する。立ち竦む自分に目を見開いた彼は大きく瞬きを一つして、遅えよと笑った。
大惨事。そうとしか言えない状況だった。
張り詰めた糸が切れて、無意識に堪え続けた数年分は泣き続けた。本当に目も当てられない顔をしたし、無様な姿も晒したことだろう。
泣き疲れて、気付けば朝日が昇っていて。
馬が逃げたので徒歩で帰る途中、気付けば寝落ちしたらしい。気が付けば自宅のベッドの上、半泣きの弟に名を呼ばれていた。
案の定引いた風邪で意識は途切れ、漸く意識が明確になったと思えば一月以上が経っている。
碌に記憶はないが、家で書類を捌いたり王城で雑用をしていたらしい。意識が無くとも手が勝手に仕事を始めるとは、我ながら恐ろしい社畜精神。
唯一愉快と言えば真相を知った周囲の変化だが、そこまで重要ではないので割愛しよう。
ほんの少しの畏怖と、今までとは違う意味で奇妙な物を見る目で見られるようになった、それだけだ。
野良犬の如く走り回って、毛布と薬湯片手に追いかけて来る人間からは逃げ出して幾日か、一段落つきそうな時に書類をぶちまけて、王子専用お見合いカタログ美少女コレクションを発見した時思い付いた。
そうだ、外国に行こう。
王妃様とジャグリーンの母国なんてどうだろう。とても楽しそう。色々有るらしいし。彼女達から故郷の思い出話を聴く度に楽しそうだとは思っていた。郷土料理も建築物も、この世は知らない事だらけ。
今迄はそんな物に興味を寄せる余裕などはなかったが、どうせ続けると決めた命なら後悔の無いように使いたい。
言葉は話せる、これからの予定も特に無い、興味関心好奇心は溢れんばかり。ついでに周囲の目からも逃げ出せる。
テンションの上がるままにひゃっほいと叫んで片手を上げガッツポーズ、一回転してから1.5倍速で書類を捌く。溢れる熱いパトスのまま、死刑執行の申請書に判を押した。
例え三徹明け下らないお茶会に出向かされ質問責めに合った後だろうと数百枚の書類の山を一晩で捌く深夜テンションの真っ最中であろうと自分の判断力は低下しておらず、従ってこの判断は完全で完璧に幸福に違いない。
徹夜で数百の刺客を倒し切り腱鞘炎になった両手を振りながら、書類を収めたその足で外国行きを志願した。
少し渋られたものの見事了解を得、るんたったと家に帰って荷造りをした所で気が付く。
外国に行くなら暫く彼と会えなくなる、と。
彼、は勿論王子の事ではない。
森の先に住む、非常に恥ずかしい告白をして来やがった彼である。
なんだ心中って。なんだ一緒に死んでやるって。笑って言うなよ惚れるだろう、唯でさえ顔が好みなのに馬鹿野郎。
思い出せば頬に朱の一つも浮かぶが、重要なのはそこでは無い。ベルナールに会えなくなる、また会いに行くと言ったのに。
何という事をしてくれやがったのでしょう、数時間前の自分は!
思いっきり壁に頭を叩きつけた。ついでに拳で殴れば多少の出血と痣が出来た。痛む頭を擦りながら、馬舎に歩く。
取り敢えず、会って土下座せねば。
………そして、現在。
笑って手を引くベルナールの顔が良い、いや違う。
良いというよりは好みだ、いやそれも違う。違うから。違うってば。
慣れた手つきで紅茶が淹れられる。昼に会うのは初めてだなと言われて、初めてその事に気が付いた。
太陽の下で彼を見るのは初めてだった。思わず顔を見れば、楽しげな顔に見返される。
そのどうやってもこそばゆくなる、少し前の記憶から欠片も変わらない彼に、話を切り出した。
隣国に行く事にしたと言った。後数年は会えなくなるとも続ける。
自分で決めた事だ、後悔はない。けれど彼ともう会えないのは嫌だった。
心残り、未練と言っても良い。そんな物が出来るとはと自嘲するが、感情をコントロール出来るほど器用だったらそもそも此処にいない。宝石よりもこの場所を、王子よりも彼を好いてしまった時点で負けだった。テーブルの上の震える手が、見開かれた瞳がこんなにも愛おしく、だからこそ心苦しい。
さよならと言おうとした瞬間、自分の意思なのかと聞かれて頷く。いつの間に手が震えていたのか、カップの中の水面が揺れる。
間髪置かず、待つよと声がした。
たかが数年だろう?と彼は言った。
「……………良いの?」
「待つのは慣れてる」
まじかよと呟くと、勿論と返事。本当に良いのだろうか、いや良くない。良くないがどうしよう、嬉しい。
思わず凝視するが、何を当然の事を聞いているのかと言わんばかりの瞳に返される。
「……土産は何が良い?」
散々黙って聞くことがこれか。間をおかずにいらないと言われ、今度こそ項垂れた。
「……………………惚れそう」
「知ってる」
ぐうの音も出ない。
俺もと付け足され、けれど平然と返されるその耳が赤くなっているのを見ればもう無理だった。
謎の敗北感。
けれど仕方ない好きだった、ずっと好きだった。ずっと抱え込んでいた感情は、紛れもなく恋だった。
まだ言葉にはしないけれど、この感情を押し殺す必要はもう無くなった。
帰ると言って見送りを受けながら帰路に着いた。明日捌く書類の枚数を数えながら、そのずっと後の、再会を望みながら。
* * *
それから三年後の事。
ミュート・アクスバリは無事死亡した。
旅行先の隣国で、更にその敵国のいざこざに巻き込まれての暗殺だった。皮肉な事に、その死によってこの国が隣国は同盟を結び、戦争は避けられた。
……要はお国同士のどったんばったん乱痴気騒ぎだった。
この三年、何処ぞの貴族の不倫スペクタクル大惨事や貴族子女集団誘拐事件などなど愉快不愉快含めて色々有った。外国ならゆっくり出来るかなあと呑気に考えていた自分の頬を抓りたい。そういや自分は巻き込まれ体質だった。
最終的に隣国とその敵国の戦争を回避する為に馬車ごと爆破事故に巻き込まれたが、馬と御者含めて死者0なのでオールオッケーとする。ミュート・アクスバリとしては死亡したがそれも問題無い。後は弟や既に王位を継いだ元王太子がどうにかしてくれる。
ミュート・アクスバリはもう居ない。
青い血の女は死んだ。此処にいるのは何の後ろ盾もない、唯の人間だ。
それならば。
君に好きだと、君が好きだと、伝えられるだろうか。
握り込んだ掌が震えていた。
もし彼が来なかったら、来たとしても既に隣に誰かいたら、もしも、もしも、もしも、もしも。
目の前でナイフをちらつかされるより、余程臆病になっている。胃が痛い。
ふと、窓の外に蝶を見つけた。
様々な色の、小さな花が集まって丸を作った、一本で花束にさえなりそうな、名も知らない花々の中。
丸い葉が地面を緑に染める向こう側に、誰かが居た。
触れれば搔き消えそうな小さな身体。日光に透けながら、白く長いワンピースの裾を翻す少女を見た。
酷く小柄なのか、自らの身体が成長し切っただけなのか。この世の優しく美しい物を集めたような光を纏って、小さな女の子は花より愛らしく、くるくると舞っていた。
幻覚だろうか。
夢ですら出会えなかった、彼女を一目見られるならそれはどんなにか幸せな夢だろうと思って、けれど決して届かなかった希望。
どうしてあなたがと思って、けれど口に出来なかった。唇一つ、指一本として動かせなかった。
たった一つの希望だった人。その余りにも若い、光溢れる筈の未来の途中で、その将来を奪われた人。
ふわりと、窓の向こうの少女が笑った。
この世全ての命が愛おしいと言わんばかりの、柔らかい笑みだった。
美しいひとだった。
美しい物を知っているひとだった。
美しい物を、教えてくれたひとだった。
目線は合わない。彼女は此方を見ない。
きっとこれは幸福な夢だ。触れれば消える泡沫。硝子の向こうに、貴女はいない。
透ける白い肌が、体重を全く感じさせず飛び跳ねる薄い足が、全く踏み荒らされない足下の花がこれは夢だと物語る。
ああ、けれど、やっと、やっと。
もう一度、あなたに会えた。
頬を伝う雫を堪えようと瞬きをした瞬間、空を攫った風が去った時、彼女は一筋の光を残して消えた。
目が痛くなる程鮮やかな、赤い花を残して。
がたがたと、忙しなく走る音がする。
玄関の鍵が開いていた事に気付いた誰かでも居るのだろう、足音からして息急き切って走る音。
そう言えば、待つのは初めてだった。彼に言えば否定するだろうが、この部屋で一人きり、今までずっと待たせていた。申し訳ない事をしていたと、目尻を拭いながら思う。
まあ、詫びはこれからしよう。
欲しいというなら、これから残りの人生をくれてやるのも吝かではないのだから。
窓から離して向けた、視線の先で。
随分と激しい音を立てて、扉が開いた。




