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或る庭師の答え







週末の夜の来訪者が貴族で、しかも途轍もなく身分が高い女だと知ったのは、招かれざる客人の所為だった。



俺は庭師の家の次男で、貴族の庭師の見習いになり、もう使わない家の清掃と云う雑用を任せられたのが5年前。

屋敷は森の奥、丘の上にある。夕方になれば落ちる太陽が外壁の煉瓦を橙に染め、風で木の葉が揺れて照り返す光に影が出来る。白橙の光の筋が窓に降り注いで夕焼け色になり、風見鶏が廻る別荘だった。


時々師匠のガウディさんから注意を受けて、昼は家を掃除して、夜は自室に籠もって本を読むかとっとと寝るか。退屈極まりないが働きによっては貴族の庭師になれるかもしれないと、それなりに努力していた。

出来ない事はやらなくて良いと言われていたし屋敷は気に入った。退屈だが細かい作業は嫌いじゃない。力仕事に弟子入りした奴より恵まれた待遇なのは、疑うまでも無かった。




あいつが現れたのは、任されてすぐの事だった。



或る週末の深夜、唐突に、それこそ幽霊の様に扉から顔を覗かせた女がいた。

同い年位だろうか。真っ黒な目と髪をした、白い肌の涼し気な顔立ちの少女だった。

軽い問答をしてすぐ居なくなったが、触れたら搔き消えそうな雰囲気と胡散臭さ、不気味さは残った。

また来るよ、笑って言い残した言葉に、どうしようもなく不穏な気配を感じた。



真っ暗な目と触れた手の冷たさは、人間のものとは思えなかった。

あれは幽霊か、若しくは化生の類だったのだろうか。馬鹿げた話だ、有り得ない。精々物盗りだろう。きっともう来ないか、来ても顔を合わせる事は無い。この家に盗まれて困る様なものは何一つ無いから、二度と会う事は無いだろう。


そう考え忘れかけた一週間後、また少女は現れた。遊びに来たよと軽く笑い、ほんの少しの時間居座って、影も残さず消えた。

次の週も、その次の週もそうだった。長居する事はなく、素性を語る事もない。面白い話題を手土産に、茶化して戯けて此方をからかった。


この女は、語り部か何かの幽霊か。

そうではないらしい。試しに紅茶を淹れれば飲み、茶菓子を出せば手を付けた。次の週返礼なのか街で人気の紅茶を土産に持って来られた。


じゃあ物盗りか。手持ちの小銭を目に付く所に置いておいた。不注意だと笑われた。序でににコインを使った手品を披露され、戻って来た小銭は銅貨が一枚増えていた。


何を求めているのかは分からない。暗夜に道を毎週通るだけでも信じ難いのに、此処に何があるというのか。聞いたらはぐらかされた。


不思議と、迷惑と思った事は無かった。偶に訪れる老人の他に人と関わる事はなく、人恋しさが勝ったのかも知れない。

これではいけない、仮にも管理を任されているのだから毅然と追い返すべきだ。思う事は多々あったけど不思議と口に出せなかった。言葉にする前に詰まった、の方が正しいかもしれない。

言ったら間違いなく、二度と来ないだろう。不思議と確信があり、来ないのは嫌だと思ってしまった時点で俺の負けだった。



飄々と現れ、猫より気紛れに去っていく。

唯のアクスバリ家の関係者だと言ったのは、きっと嘘だろう。唯の少女がこんな所に来るものか。何か秘密があって、隠しているのかも知れない。

それならまあ、それで良いと思っていた。

数奇にも時折顔を見せるだけで、あいつと俺は他人だ。晒された所で受け止めきれなくなるのが目に見えている。背負う事も出来ないのに隠した物を奪うのは無責任だと思ったし、そこまで関わりたいかと問われれば否だった。





転機は、あいつよりずっとずっと暗い、沼底の眼をした女が運んで来た。

ジャグリーン。それが転機の名前だった。

ミュート・アクスバリはここで何をしているのですかと感情を含まない声で聞いて来て、そんな人間は知らないと返せば黒い鼠っぽい女ですと言われた。

鼠というより猫だろうと答えると、うろちょろしているでしょうと生気のない瞳が俺を見た。


ジャグリーンは、あの女の事を知っているらしい。


如何して此処を知ったのかと問えば尾けましたと答えられてドン引いた。今更でしょう、と逆に驚かれた。

今更ってなんだ。あの女とあんたの間では常識なのか。

如何してあれは此処に来ているのですか?と問われても碌な返事が出来ず、何も知らないのかと使えない物を見る目をされた。


何をしているのかと問われて初めて、詳しく話せる程あいつを知らないと気づいた。何が好きで何が嫌いなのか、驚く程何も知らなかった。


知らないなら、知れば良い。


交換だ、と言った。

此処でのあいつを教えるから普段あいつが何をしているのか教えろと、気付けば口が動いていた。

少しの沈黙の後、構いませんと答えられた。




交換とは言ったものの、差し出せる情報に大したものはなかった。それに比べて齎された情報は、簡単に俺の度肝を抜いた。

あいつは貴族、しかも次期王妃だったらしい。この家の持ち主の娘で、本来なら関わり合いになれない人間だと女は言う。

絶句する俺に誰にも言うなと残して、女は去った。

勿論誰にも、あいつにすら伝えるつもりはなかった。誰がこんな話を信じるのか。ましてやあいつを問い詰めた所で、二度と此処に来なくなるだけだろう。


脳内で飽和する疑問を潰して、手元の蝋燭を消した。

何も無かったことにしよう。これは、土足で踏み込んではいけない事だ。




月日は流れた。俺の身長は大分伸びたし、あいつは少女と呼べない年齢になった。

それでも、不自然な程に俺たちの間の距離は変わらなかった。深夜に話をして立ち去る事だけを繰り返していた。部屋で向かい合う事もあれば、庭で雑草を毟りながら話す時もあった。


ジャグリーンはあれから、年一位の頻度で来た。

変わりがないか問われ、何も無いと返せばすぐに居なくなった。一度、何故そんな事を聞くのか質問したことがある。異常だからだ、と返された。

あいつは本来、此処にいる筈が無いから。


あれは使える駒であると同時に、守られる存在ですから。此処に来ると云う行動を取るなら、何らかの理由があるのでしょう。それなら此処に来る事の邪魔はしません。唯、あまり不穏な動きをするなら対処しなければいけない。だから来ています。


淡々と吐き出される言葉に、寒気がした。

あいつは此処で話して笑ってすぐ帰る、それだけだ。

けれどそんな事が異常と呼ばれる場所に、あいつは身を置いているのか。

機械の部品が変な動きをしているが使えるのでそのままにしている。唯定期的に確認が必要になっていると、あいつがまるで機械であるかの様に目の前の女は言い切ったのだ。



怒りは湧かなかった。唯、爪先から冷たくなる感覚が止まなかった。あいつと初めて会った時よりずっと不気味で、知らない生き物に対峙しているようだった。

数日後何も知らずにほのぼのと屋敷に来たあいつに、酷く安心した記憶がある。

ジャグリーンが嘘を吐いている可能性も有るが、俺を騙す事にメリットが無い。ならば真実なのだろう。

ふとした動作が綺麗すぎたり市街の流行に疎かったり、あいつが一般人と思えない事も時々あった。





週末の夜にやって来る来訪者は貴族で、しかも途轍もなく身分が高く、更に驚く事に異常な状況に身を置いているらしい。

どうしようか何回も、何十回も悩んだ。いくら悩んでもどうしたら良いか分からなかったから、現状維持を選んだ。


あいつがやって来る度、俺は何食わぬ顔で迎えた。あいつは素性について何も言わなかったし、俺も聞かなかった。

唯ほんの少しだけ、あいつを見る事が増えたように思う。

カップは薄手の物が好き。茶葉は好みこそ無いが、香りが強過ぎると駄目で、案外甘党。

飲む時に小指を立てる癖。

時々とても優しく、寂しげな目をする事。


知れば知るほど、何も知らないと思い知らされた。


あいつは知らせようとしなくて、俺は知ろうとしていなかった。あいつが名乗った名前で呼ばなかったのは、せめてもの抵抗だった。









大体の場合あいつは明るく、下らない話題を笑いながら話した。けれど本当に稀に、表情の一切が抜け落ちた能面の顔をする事があった。

バケツをひっくり返したような雨の中、死にそうな顔で来たことがあった。

普段より少しだけ早い時間、安堵と少しの後悔を滲ませて安物のティーカップを唯握っていた時があった。

俺に抱きついて、夜明けギリギリまで離れなかったこともあった。

震える頭を撫でながら、爪の剥がれた指先に包帯を巻きながら、自分の怪我を歯牙に掛けず誰かへの謝罪を繰り返すあいつをシーツで簀巻きにした。



核心を掴めない日々が流れた。あいつは段々怪我と嘘臭い笑い方をする事が増えて、来ない週末も増えた。一体何度、問い詰めようと思っただろうか。



一度だけ、言葉にしかけた時があった。

星一つ見えない夜、久し振りに会った手の甲に幾つもの硝子の欠片が刺さっていた時だった。包帯を用意しながら何故そうなったと聞けば、窓を殴り割ったのだと返された。痛みを感じないかのように血が流れる手から破片を引き抜く姿に、薄ら寒いものを覚えた。

慣れた手付きで包帯を巻くあいつに痛いだろと声をかければ、全くと返された。見掛けより大した事ないよと答えて、床に血が付いた、ごめんと謝られた。


こいつは、血を流す己の手より床を気にする人間なのか。

気にしなくて良いと返す声は、震えていなかっただろうか。

教えろと、気が付けば口が動いていた。何がこいつをこうしたのか。こいつは既に壊れているのか、未だ壊されていないのかすら知らない。

黒い瞳が見開かれ、薄っぺらい笑みが歪む。何があったと言い募る俺に、あいつは赤く濡れる掌を強く、強く握った。

ごめん、と。

聞かないでくれと悲しげな笑み。君にまで嘘は吐きたくない、と血の気のない唇が動いた。



そう言われれば、何も言えなかった。








もし。

もしも、俺が。

権力を持っていれば、もっと長く共にいれる立場にあったなら、本音を引き出せる位口が上手かったら。

手を掴む事が、出来たのだろうか。



守りたい訳じゃない、救いたい訳じゃない。

唯何時ものように馬鹿話をする、ありふれた時間が長く続けば良いと思うだけだ。

そんな日常さえ奪われる所にあいつがいるのが、どうしようもなく嫌だった。

何か理由があるのかもしれない。あいつが望んで硝子を殴らねばいけない所に身を置いているのかもしれないし、そうしなければ何か失われるのかも知れない。

それでも嫌だった。ガキの我儘に似た感情だとしても、とにかく嫌だった。

いつからこいつの、安心しきった笑顔を見ていないだろうか。

あいつは、溢れる血の様に音もなく、少しずつ磨り減っていく。

他人も、下手したらお前自身すら気付いていないけれど、こうして今も損なわれているんじゃないのか。



知らずに、唇を噛んでいた。

悔しいと思った。

たとえ何を言っても、きっと響かない。

手を伸ばせば触れる位置の、たった一人の人間に伝える言葉が浮かばない。

こいつが傷付くのが嫌だと伝えた所で、どうすれば良いのかが分からない。

この国から連れ去る事も、物語のヒーローみたいに助ける事も出来ないのに。

どうして俺は、こんなに無力なんだろう。



身分の高い貴族の娘じゃない。

不器用に笑うこの人間がいれば、それで良いのに。



暗い瞳と目が合う。蝋燭が溶けて、蝋の粒が流れた。

潮時かなあと、色の無い唇が小さく動く。

ごめんねと、もう一度繰り返して呟かれた。


ごめんね、さよならだ。


随分見ていない、柔らかい顔であいつは笑った。

一瞬、何を言っているのか分からなかった。

よ、と呟いて立ち上がり、すれ違って空気が揺れても動けなかった。後ろで扉の閉じる音がして、我に返って廊下に飛び出したら誰も居なかった。



いつも通り鮮やかに、あいつは消え去った。

そして二度と、此処に来なかった。

最初から居なかった様に。包帯や床の血痕だけが、あいつが居た事の証明だった。

暫く眠れない週末を過ごした。諦め掛けた矢先に遺書を見つけた。

下手に家具の揃った子供部屋の隣の、立ち入るなと言われた部屋だった。塵箱の中にぐしゃぐしゃに丸められたそれがあって、忘れてくれの文字に酷く心臓が痛んだ。

何が非日常だ。あいつがいたのはもっと酷い地獄じゃないか。どうして気付かなかった。どうしてのうのうと怪我が少ない事に安堵していたんだ。


あいつは、俺が知る事を諦めて現状維持をしている間、ずっと苦しんでいたのか。

あいつを苦しめたのは、俺じゃないか。


手が震えていた。全身が冷えるけれど首の後ろが沸騰した様だった。歯痒かった。会いたいと思った。会いに行きたいと思って、会える訳がない事に何度も何度も歯噛みした。



許せないと、血を吐くような言葉で綴られていた。

きっとあいつは、もうここに来る事は無いのだろう。二度と会えない。その事実を受け入れたくなくて信じたくなくてしんどかった。心臓に穴が開くとはこんな感覚なのかと思った。

悲しくはなかった。只々時間が巻き戻れば良いと思った。手を掴めなかったあの瞬間に、出来ればもっと前に戻りたい。

伝えたい言葉が溢れるのに、それを伝えるあいつが居ない。この後悔を俺は、一生引きずるのだろう。





あいつが来ないまま、時が流れた。

季節が変わろうとする頃、またジャグリーンが来た。

ノックした玄関から飛び出した俺の居たのがあいつじゃない事に失望した顔で、あいつがもう来て居ない事を察したらしい。帰りますと無情にも向けた背を呼び止めた。

あいつが今何処に居るのか聞けば、王城だと答えられた。

危険な目には、未だ合っていないとも。


まだとはどういう事か聞こうとしたら、光の無い目が俺を見た。

そんなにあれが気になるので?と一切の抑揚無く問われて、迷わず頷く。目の前の女はあいつに続く唯一の手掛かりで、逃す訳にはいかなかった。


あれをどれ程知っているのかと続けて問われ、黙って手紙を差し出した。それしか知らないと言えば、暗い目が細められる。数秒と経たず手紙に落ちていた視線を上げた女は、どうしたいのかと聞いて来た。

これを知ってどうしたいのかと。


会いたいと答えた。

言いたい事は山程有るが、取り敢えず会いたかった。

どうしようもない程に。信用も信頼もしてない目の前の女に頼る程に。





「………恐らくあれは、それを望まないでしょう」



掛けられた言葉に、知るかと返した。

例え望まれなくたって、このまま終わりにさせてやるものか。散々出向かれたんだ、偶には俺から押し掛けたって良いだろう。


少しの沈黙の後、それならばと袋を差し出された。

両手で持ちきれない位の白い布袋で、ずっしりと重い。中には大量の金貨が入っていて、驚いてたたらを踏む。


今度の週末、あれを向かわせます。それ(・・)を使って、好きなようにすれば良いでしょう。



それだけ言って女は背を向けた。慌てて声を掛けても返事は無く、あっという間に影は夜闇に掻き消えた。



渡された袋には、人二人位なら一生遊んで暮らせる程の大金が入っていた。外国の金貨もそれなりに混ざっていて、何度も言葉の真意を考えた。

あいつを連れて何処かに行けと云う事なのだろうか。

どんな状況になれば海外逃亡する羽目になるのか、予想もつかない。


ミュート・アクスバリ。ジャグリーンが初めてここに来た時に呼んだ、あいつの名前だ。街に降りても偶に名を聞く有名人だが、あいつとミュート・アクスバリか結びついた事は無かった。

それも漸く終わる。もう直ぐ会うあいつは、ミュート・アクスバリなのだろう。そうであって欲しい。





期待して、しかし縋るような気持ちで週末を待った。その日が来て朝一で玄関を確認して、昼は雨の降る中何回も森へ続く道の前まで行った。夜になっても諦めきれず蝋燭を灯していたが、最後の一本になったので温存する事にした。

雨音が五月蝿い暗闇の中、シーツを被ってあいつを待つ。

外は酷い雨だ。来ない方が良いと来て欲しいの気持ちがせめぎ合って、心臓が痛かった。

待つばかりでは無く迎えに行きたい。部屋を飛び出したくて堪らない。けれど、その所為で行き違いになってしまったら?

その結末に待っているのは、取り返しのつかない悪夢だ。


雨音が五月蝿い。早く来れば良い。来ない方が良い、雨で夜の森なんて危ないから。ああでも来て欲しい。


会いたい。



言葉にならない声を漏らした瞬間だった。

暗闇の中で、扉の開く音がした。





目を見張るが、闇で一寸先も見えない。

人影が有るような無いような闇の中で、音が聞こえた。疲れ果てた老人に似た、掠れた声だった。


もう一度。

さっきより明確に聞き覚えのある声で、名前が呼ばれた。あいつの声だった。

名を呼んでいた。

あいつが俺の名前を呼んでいた。

あいつが、いた。


体が勝手に動いていた。暗闇の中駆け寄れば、酷く震えた声で生きているのか聞かれた。触れた額は温度が無かった。死体はこんな温度なのかもと、思ってしまう程に。

嫌な想像を断ち切る為に、マッチを擦った。





肌は白いを通り越して青く、張り付いた髪の掛かる目元が赤く腫れていた。無数の傷跡の残る手の甲は震えていて、雨水が筋を作る様子が痛々しかった。

狂気の沙汰だと思った。

土砂降りの中、ボロボロになってまで来たこいつも、それを嬉しいと思ってしまう俺も。



震える手を握る代わりに唇を動かした。作り笑いすら出来ない人間を問い詰めるのは気が引けるが、今を逃したらこれが最後になってしまう。

焦っていた。

だから俯いた顔が上がって暗い瞳が泣いていた時、しまったと思った。

あいつは唇を歪めて、鳥肌の消えない腕を重ねて、終わらせてくれと呟いた。確かに合っている筈の視線は、俺を見ていなかった。

晒された首の下、合わないボタンの隙間の素肌に古傷が有った。



痛々しいと思った。

止めろと縋りかけて、唇を噛んで耐えた。

そんな事を言うなと怒るのは、「正しい」反応なんだろう。








だからこそ、出来なかった。




終わらせてと望むこの娘は、きっとこれから多くの人間から感謝される。感謝され、縋られる。


いかないで。

死んではいけない。死んだ人間はそんな事を望んでいない、彼らの為を思うなら生きるべきだ。

君は、良くやった。


こいつが後悔して悩んで死を願っても、いけない事だと言われる。恩と云うのは薄っぺらいように見えて、確かに存在するから。手を差し伸べられた事のある人間は、いつか手の持ち主が悲しむ時が来るなら、どうにかしてやりたくなるものだ。

こいつが助けたがるような正しい人間なら、こいつが死ぬ事を望まない。たった一枚の手紙を読んだだけの何も知らない俺でさえ、迷わずあいつは悪くないと言える。あいつをもっと長く見て、よく知っている人間が全てを知ったなら、この薄い肩を抱きしめずにはいられないだろう。


だから言う。いかないで、あなたは何も悪くないと。

それは、きっと正しい。

何処までも美しく、清廉で、なんて残酷な言葉だ。


愛されれば愛されるだけ、働いて戦って後悔して泣いて、傷の隠し方も忘れる位疲れ果てたあいつの泣き言が許されなくなる。

あいつの後悔が、嘆きが、無い物にさせられる。

お前は、それが嫌で、苦しくてならないのか。


だからお前は、たった一人ぼろぼろになって、こんな所に居るのか。

こんな所で、死を望むのか。








机に置いた蝋燭が赤く、花のように赤く燃えていた。








どうして。


どうしてお前は、こんなに優しく在ってしまったのだろう。

お前がもっと無力なら、誰かの力を借りていた。途中で諦める事も出来ただろう。

お前がもっと優しくなければ、助けられなかった後悔など抱かずに済んだ。功績を手に、胸を張って立っていられただろう。



他人の為に自分を磨り減らせて、他人の為に後悔を抱いて、他人に心配されるのも是としない。

他人ばかりで一片だって自分を愛しはしない癖に、他人がお前を愛するのは嫌だと言う。


それじゃあこの世界の誰も、お前を愛しはしないじゃないか。

お前以上に愛されるべき人間を、俺は知らないのに。





涙が溢れていた。

ずっとずっと前から伝えたかったことばが。誰かに取り憑かれたように、言葉が出た。

伝われと思った。こんなにも言葉を伝えたいと、愛しくてたまらないと叫びたいのは生まれて初めてだった。

伝説の竜を倒す剣の腕よりも、目の前で泣きじゃくるこどもに上を向かせることばが欲しかった。そんな魔法みたいなことばを渡せるのが誇らしくて、今まで一度だって掛けてやれなかった事が悲しかった。



きっと愛じゃない。愛なんて軽いものじゃない。

もっと熱く、狂おしく、何処までも切ない感情だ。

命なんて軽いと思える程に。何もかも捨てて良いと思える程に。この世の全てを敵に回したって良い。この人間に出会えた事が、唯々嬉しくて苦しいのだから。



幸せになってくれとお前が言う。

自分が失ったものに一言の恨みも怒りもなく、他人の幸福を願って泣く。

けれど残念、それはもう出来ないんだ。

俺の幸せとやらは、お前と共にあるから。命も幸福も、押し付けてでもくれてやる。




だからどうか、もう一度。


もう一度だけ、この手を取ってくれ。






泣きながら、折れそうな肩を震わせながらゆっくりと、あいつが俺の手を取った。

細い指が、軽く重なる。手の上の重みが、泣くほど嬉しかった。



ありがとうと、掠れる声がした。


あいつが雨上がりの空みたいにひどく綺麗に泣き笑ったのを見て、謎の達成感に拳を握った。













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