幕動
五月蝿くて、鬱陶しい程の雨の日だった。
ばたばたばたと雨粒が何もかもを色濃く濡らして空気を重くする光景を、何の気もなく眺めていた。
もっと高揚するのだと思っていた。
奴等と自分が終わる日なのに、不思議な程心が凪いでいた。優しく虚ろな安堵だけが頭の中を包み込んで、生温い薄闇に窒息死しそうだった。
数日前、王太子が学園を卒業した。
城に住み込んでからは学園に近付いていないので見聞だが、涙無しには語れない卒業式だったそうだ。生憎必要なのはその数日後、つまり今日行われる舞踏会なので興味が無い。
水滴でぼやける窓に手を付き、冷たさすら碌に分からなくなっている事に笑う。
舞台も役者も小道具も用意出来た。折角の豪勢な舞台だ、国内外問わず貴賓を集めて盛大に踊り狂ってやろう。誰もが興味を持ち、思わず足元を踏み外す程見惚れる道化を演じて。
背後で足音が聞こえ、硬い音に金色の男の気配を知る。
振り向けば、殿下が白い礼服に身を包んでニコリともせずこちらに来た。超一級の容姿をしている事は誰よりも知っているが、金細工が似合う衣装を身に纏う彼は見惚れる程に美しい。驚いても感動はしない辺りどうにもならないが。
音も無く差し出された手を取る。男特有の薄い唇が動くが、何を言っているのかは聴き取れなかった。
きっと台本に必要ない言葉だから耳が拒否したのだろう。手を引かれ、大広間へと続く道を歩かされる。
処刑台に上る前の様だとぼんやり考えた。予行には良いだろう、もうすぐあそこにいくのだから。
あと少し、もう少しで全てが終わる。
ひどく救われた気持ちで、扉の開く音を聞いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
誰かが望んだ、眩いばかりの人形達の群れの中央。
グラスの音、密かな歓談、粗忽者が引っ掛けて艶やかな布地が裂ける響きの一切が気にならない大声で、肥えた蜥蜴が何かを喚いている。
王太子を適当な輩に捕まえさせて引き離し適当に場が盛り上がるのを待つ事数分、遂に奴等が来た。
どんな顔をして其処にいるのだといきなり高らかに叫び出した男は多分教主だが、数ヶ月見ないうちに顔を忘れていた。
学び舎での非行、違法組織と関わった事、気に食わない人間に対する暴行脅迫拉致監禁etc。
憶えの有る無し関わらず、いくつもの罪を叫ばれる。貴様のしている事は国家反逆だ許される事ではないぞと、ヤニで黄色く染まった口が騒いだ。
同調して騒ぐのは数月前迄は揉み手で近づいて来た連中だったが、誰一人顔を判別出来なかった。
一頻り騒いだ後、やっと辺りが静まり返る。驚きと困惑、多大な好奇心を含んだ視線が刺さる。
まるで断罪だと、大衆のうちの一人が呟いた。
まるでではなく断罪だ。裁かれるのは自分だけではないけれど。
返事がない事を怯えていると解釈したらしい教主が、腹を反り返らせて玉座の上に馴れ馴れしく語り掛ける。
この様な者を次期王妃になどとんでもありません、代わりがいないというのも過去の話。この国を想って言っているのです。早く婚約破棄を。さあ、さあ。さあ!
張り裂けんばかりの雑音に、散らばっていた視線が一つに集まる。天鵞絨の椅子に、その上の壮年の男に。
雨音だけが五月蝿い空間で、王が静かに見下ろしていた。
一切の熱を含まない視線が交差する。
美しさを極めた能面の如き顔を見るまで気がつかなかった。
いつの間に皺が増えていたのだろうか。国を背負う男は齢を重ねる毎に、顔や身体にへばりついた老いを纏っていた。
諦観が、憐れみを越えて此方を見ていた。
良いのか、本当に良いのかと憂いた金色の瞳に問われていた。
「認めるか」
「そなたの行いであると、認めるか」
静かに厳かに、祈る様に願う様に問われた。
あんなに老獪そうだと、それでも美しいと思った金色が此方を見ている。
案外、生きている人間で一番信用しているのはこの人だったのかもしれない。この人が、この人の息子が治める国を見てみたかったのかもしれない。
それでも。
貴方達があの子を知らないのと同じ位、貴方達を愛せない。
「ええ」
「全て私のやった事ですーー私が決めた事です」
眼を挙げて、答えた。
雨音に掻き消されるくらい小さく、押し殺したため息が皺の残る口元から吐き出された。
憂いを帯びた顔が歪んで、伏せられた瞳が開いた。
そうかと、呟く音がした。
それならばと、真っ直ぐと言うには余りにも痛々しく鋭く、神様のように傲慢に。
駒を動かすプレイヤーは、次の手を指す。
「クベストリア国王、レオンハルトの名において、王太子とアクスバリ家公爵令嬢ミュート・アクスバリとの婚約破棄をここに宣言しよう」
詰めていた息を吐く。ざわぞわがやざわと、知らない雑音が漏れて口角が少し、ほんの少しだけ上がった。
これで良い。
きっと、今、この時のために生まれてきた。生きて来た。
これが、全て。これがおわり。
人の皮一枚被った化け物に相応しい最期だ。後は目の前の魑魅魍魎を連れていくだけ。
瞳を細めて辺りを見回す。何処にも好意を含む視線が無くて、それがどうしようもなく心地良かった。居なくなっても傷つく人間がいないと言うのは気が楽だ。脳裏にちらりと王太子や弟の顔が浮かぶが、首を振れば消えた。
身体の力を抜いて口を開く。その程度の事貴方がたもやっていますわと、証拠を揃えて叫べば良い。後は王家がどうにかしてくれる。使い古した傀儡の最後の舞台だ、ちゃんと演じきらなくては。
息を詰めて、首を傾げて。震えそうになる小指を手袋に跡が残るほど握り締めて、痛い程に、穴が開いて死ぬのではと思う程の視線に耐える。
喉を震わせようとした瞬間、ぱりんと音がした。
硝子の割れたそれに視線を向ければ王太子。十五歩も離れた所で有象無象に囲まれる彼の、しなやかな手から赤が伝っていた。足下にはグラスの破片が散らばっていて、飲み物を落としたのかと考えた。
ぱらぱらと手から破片が落ちて、滑らかな指は薄く透ける硝子を握り潰したのだと分かった。
ならば赤は。彼は普段から手袋を付けない。鋭い欠片は、柔い肌に幾らでも突き刺さる。
指の間から溢れる赤は、酒や果汁ではない。
かき上げられた金髪を凝視すれば、じとりと重い視線が向けられた。
まずいと思った。
ぶち壊されると、それを一切躊躇わない荒唐無稽な意思を秘めた目が有った。
満足かと、雨音を打ち消す低い声が響いた。
掠れた声だけが響く空間で、足音がやけに震えて反響した。
大義であったと言うべきか?
淡々と、唯真っ直ぐに此方を見ていた瞳が少しだけ細まって見たことのない色を映す。数ミリ表情筋を動かして笑みに似た貌をして、彼は更に此方に来た。
十年だ。
十年も一人で、働かせてきたからな。
王家の為によくやってくれたと言うべきか?
凛と響く声に嫌味を感じたのは、きっと自分だけだっただろう。それ程に、誰も彼もが見惚れていた。
澄んだ声に、汚れの一切を知らない金髪に、深く滑らかな瞳に、まっさらな肌に。
人より遥か上の尊い生き物だと言わんばかりの微笑みに。
言葉の一切を無くすほど、呼吸すら止まるほどの美しさ、美しいの言葉では到底言い表せないほどに綺麗に彼は微笑っていた。
彼の笑顔を、初めて見た。
こんなに綺麗に、唯々美しく笑う人間を初めて見た。
細いが男らしい指が伸ばされる。自分の黒髪を一房掬って、指の腹で擦るようにして弄ぶ。
掌の傷口から零れた赤が、髪に伝って雫を落とした。
くすりと笑んだ呼気が、口元に寄せられた毛先に掛かった。
こんな場を用意するとは考えたな。
しかも態々奴等に語る機会を残してやったとは。奴等も馬鹿な事をする、お前は私の為に動いていただけなのに。
奴等を終わらせる為に動いていただけなのに。
彼の美しさでは言葉など意味を持たないだろうが、それでも手前の為じゃねえよと返さなかった事を誰か褒めて欲しい。
周囲の吐息が驚愕と困惑を含む。馬鹿なと叫んだのは教主だろうが、王太子が邪魔で姿は見えない。
言ってやれと、楽しむような声が目の前から。
碌に感情が読み取れない瞳が、それしか無いと語っていた。
くそったれ。確かにさせないからなとは言われたが、こんな形で乱入する奴が有るか。無茶はこっちの十八番だろう、如何して貴方がここまでする必要がある。王家にも疵の残りかねない方法を。
視線で訴えるが答えは無く、早くしろと髪と指が絡み付く。
舌打ちを隠して打開策を考えるが、振りたくない賽まで投げられた事実は変わらない。方法は無い。彼の台本に乗る他は。
溜息の代わりに溢れさせた声は、我ながら腹が立つほど流暢に響いた。
「……言ってやれと言われましても、余りにも多過ぎて夜が更けても語りきれるかどうか。それでも宜しいのでしたら、何から語りましょうか」
地下室?密輸?違法薬物?教主が反論する前に証拠がある事も言及すれば、周囲は面白い程肩を跳ねさせる。
信じられない馬鹿なと誰かが呟いたが、表立って反論する輩はいない。真っ先に食って掛かったのは教主と愉快な仲間達だったが、連れていけの一言で拘束されていった。
恐らく酷い待遇にはならないだろう。後釜を据えて証拠を大々的に流して、彼等の処刑はそれからだ。二度と首と胴を離す為以外で、牢屋から出る事もないだろうが。
有無を言わせず、雲隠れもさせずに全員捕らえる為にこの舞台を用意したのだ、そうでなくては困る。
ざわつく観衆にこの国の悪したるものがなくなった今日は善き日だと平然と語る男を、呆然と見ていた。
中身が入れ替わったのではと疑う程堂々と、微笑みすら浮かべて言い切る男を知らない。驚き過ぎて手を引かれ大広間から連れ出されても、碌な抵抗が出来なかった。
だから見ていない。陛下が安堵したように溜息をついたのも、王妃の忍び笑いも。
人の背丈の三倍もある扉を潜って見張りの兵士の隣をすり抜け誰も居ない廊下を尚歩く。
繋がっていた手が小さく振動しているが、震えているのは何方だろうか。知りたくないので立ち止まって手を離すと、じとりと睨まれた。
「………手当を。血が出ています、硝子の怪我は洒落にならない」
どれ程の力で握り潰したのやら、破片こそなさそうだが血が止まっていない。化膿なんてしたら一大事だ。
言いたい事も文句も山程有るが、後で良い。
水場に行きますよと道を示せば血の出ていない方の手で手首を掴まれた。どうして、と呟かれて此方の台詞だと腹立たしく思ったが、それをぶつける訳にもいかず手首で彼の手を引けば、案外大人しく着いてくる。
「………こうなるかもしれないとは、思っていましたから。家に招待状が届かないのに弟が平然としていて、何か企んでいるのは丸分かりでしたし。貴方が出てくるとは思いませんでしたが」
可能性が有るとは思ったが、好ましく無いので考えないようにしていただけだ。ならないように対策を打たなかった此方の手落ちで、怠慢だ。
雨音だけ響く長い沈黙の後にお前の弟が会いに来たと答えられて、やはりかと苦く思った。弟の外出が増えていた事は知っていたが、きっと駆け回らせてしまったのだろう。
そうじゃなくとも両親ともに死なせるつもりは無かったと続けられて、僅かに目を見開く。
国外追放と称して、母の祖国に留学させるつもりだった。滞在中に自国の貴族に事実を伝えて帰る場所を用意して、後は好きに生きれば良いと思っていたと。
彼が、さっき飛び出したのは独断だったと。
さっきまでの威勢はどこに行ったのかぽつりぽつりと漏れる声に、やはり彼は彼であったと安堵した。
帰ってこないかも知れませんよと言えば、それでも良かったと返される。
生きているなら、それでも良かったと。
斜め後ろを歩かれているので顔は見えないが、手首に掛かる力が少しだけ強くなった。
それで初めて、自分は彼に割と好かれていたのかもしれない思った。
……だとしたら、
着いたぞと呟かれると共に手首を引かれ、思考が切れた。
真水で十分に手を洗わせてから止血の為にハンカチを握らせ、包帯を取って来ますとその場を辞した。
硝子の痛みも処置も慣れている。城に居る貴族達に見つかりたい訳でも無し、待って貰って自分が処置をするのが合理的だろう。
誰にも会わないだろう道を選びながら溜息をつく。
……だとしたら、申し訳ない。
結局自分は死ぬのだから、彼に余計に傷を残す事になってしまった。
次の手を考えながら目を眇める。未だ捕まっていない下衆なら居る、国中の情報と弱味を握っている存在として認知された事だし手っ取り早く誘拐でもされようか。
死なないのは死ぬよりも難しい。綱渡りの綱から落ちるより簡単に死は転がっている、誘拐されて証拠を残してから殺されて、そうすれば後は王家がどうにかしてくれる。
彼処までして生きろと伝えてきた彼のことだ、仇を逃すような真似はしないだろう。教会ではない小物との心中だが、十分にお釣りはくる。
王家に疵が残ると知って尚、好奇と嫌悪の視線から庇おうとしてくれた男を思い出す。
彼はあの瞬間、手を掴みさえすれば止められると思っていたのだろうが、とんだお門違いだ。
国中の貴賓に真実を知らせたところで、彼等から賞賛の嵐を浴びて忠臣だと叫ばれた所でこの罪が無くなりはしない。
褒められたくてした訳では無い、ましてや彼等のためなどあり得ない。
例え世界中の人間から仕方なかったと叫ばれたとしても、正しい事だと諭されたとしても、自分一人が悪だと断じればそれは悪だ。誰が何を言ったとしても、自分が殺した数多の人々は、あの子は帰って来ないのだから。
その結果悲しませる人間がいたとしてももう遅い。
自分以外の全ての人間から賞賛さるべしと叫ばれようが、それは他人の言葉に過ぎない。他人に、あの子を知らない人間に何を言われようと無駄だ無意味だ無価値だ不要なものだ。
信じる唯一の残り滓が、そうすべきだともう決めた。
なら、それ以外何も残っていないのだ。
カタカタと機械じみた脳味噌が計算を始める。
まずは包帯を取ってきて、それから。
監視が厳しくなるだろうから当面は大人しく情報を集めるだけにして、奴等から接触があれば応えるが、いっそアジトの近くでも彷徨うか。どんな拷問に掛かられようが何も吐かない自信はあるし尊厳全てを奪われようと何も感じない。唯家族や城に身代金を要求されるのは御免被るのでそこをどうするか。
医務室の備品を探り、目当ての白い布を指に巻き付ける。でも考えるのも面倒臭いなあ、いっそこれでひと思いに。
けれど悪手だと判じて戻ろうと振り向くと、ジャグリーンがいた。
人並みの老いを身に付け、されどこの世の殆どが蛆虫以下と言わんばかりの眼をした王妃だけのメイドが、一切の音も気配もなく部屋の入り口に立っていた。
いたの、と声を掛ければ唯首肯かれる。何のためにと問うても返事は無く、つうと瞳が細められるのを見た。
伝えるべき事が、と機械より機械に似た声が雨音に反響する。
実家の別荘に住む庭師が、死にかけています。
は、と。
なんでと思う前に脳が処理を拒否した。
温度なく淡々と吐き出された声に、心臓が止まった。
色を失った足元、無造作に布の塊が放り投げられたが何も分からなくなる。
弟に連れ出されてからあの場所には近付いていないので、何ヶ月彼の声を聞いていないだろうか。数週おきに丘の上を訪れていたから、此処まで長い間会わないのは初めてだった。
しかし、そもそももう会う事はないと、それで良いと思っていた。けれど何故君が、あの家で、自分より先に、命を、なんで。
色も音も無くなって、冷たさが肺から湧き上がる。なんで彼女はベルを知っているのかなどどうでも良い。あの家で死に掛けて、間に合わずに、また私は間に合わないで、なんで。
額に、何かが触れた。
いつの間にか目の前にはジャグリーンがいて、硬質な何かを額に当てられていた。受け取ると厩の鍵で、先程何かが落ちた足元を見れば体躯に合う乗馬服だった。
馬、乗馬。城からあそこに行くまでの道なら分かる、けれど雨の中を馬で行けというのか。困惑ゆえに開きかけた口は、目の前の真っ直ぐに虚ろな瞳に閉じる。
不意に、何があろうと行かねばならぬのだと、確信めいた思いを抱いた。
蝋燭の灯る部屋で紅茶の代わりを淹れながら笑う、彼を思い出す。行かないと、会って、取り敢えず会わないと。
なんでそうなっているのか、分からないことばかりの急展開続きだ。それでも間に合え。間に合え。
如何してこうなったの前に、一つだけ確かな事があるから。
絶対に二度と彼処で、一人で死なせなんてしない。
包帯を彼女に押し付け、鍵と服だけ掴んで駆け出した。
誰も居ない廊下、走りながら窮屈なドレスを脱ぎ捨てる。薄紫色の服に合わせた手袋も捨てて、滑稽に無様に踵の高い靴を蹴り飛ばした。誰かに見られていたかもしれなくたって、どうでも良かった。雑にシャツに腕を通して上着を羽織り、ボタンも閉めずにズボンを履こうとして転んで階段から落ちた。全身に響く衝撃と血の滲む古傷だらけの膝頭に生きている事を実感しながらズボンを履く。よれよれでみっともなくてはずかしい。けれど元から自分はこんな物なのだと思えば、何故か清々しかった。
ベルトは面倒だったので投げ捨てた。シャツのボタンは掛け違えていて、上着なんて閉めようとする発想すら浮かばない。窓を開いて身を乗り出せばあっという間に埃臭い雨粒が全身を浸すが、構わず素足のまま芝生を踏む。
走る。疾る。足は速くない、運動神経も良くない。けれど身体が進んで、水が肌を打つ程に唯真っ直ぐにひた走る。
間に合え。間に合え。
足に、この身体に意味を持つ事が許されるなら。
唯疾るため、進むためだけに今、自分は有った。
いつの間にか、目尻を水滴が走っていた。
雫は雨と同化して流れて、それでもなお、溢れた。




