拝啓
拝啓
今年も、あの紫の花が咲きました。やはりあの花は貴女に似合う。淡い紫の花畑で此方を向いて笑っている貴女を、目蓋を閉じれば思い出します。
嘘です。認めたくありませんが、私の記憶力は貴女よりずっと劣っているらしい。今日こそ貴女の声を、顔を、瞳の色を忘れてしまうのでは無いか、もう私の中の貴女は風化して、本来の貴女とは違うのでは無いかと考えるだけで身体が震えて、泣き叫びたくなります。
拝啓という単語を貴女に教えて頂いてから、長い長い時間が経ちました。
憶えています。まだ子供だった貴女と私がソファの隣に座って同じ本を読みあい、感想を言い合って笑った事を。
拝啓もかしこも知らない、覚えのない単語です。国中のそれこそ世界中の辞書を捲ったって出てこないでしょう。でも、それが嬉しかった。子供心を擽る暗号というだけでは有りません。貴女が私に教えてくれた、それだけで。二人の秘密だよ、と少し意地の悪い悪戯っ子の笑顔で人差し指を唇に当てた貴女が。
誰よりも、大好きでした。
いつか貴女に、拝啓という書き出しで手紙を送りたいと考えていました。
その願いを本当の意味で叶える事はもう出来ないけれど、どうかこれだけは書かせてください。貴女に手紙を書くのは最初で最後です。この手紙はあの家の貴女の部屋の、机の一番上の引き出しに入れておく予定です。
貴女の部屋はそのままにしてあります。手を付けられない、の方が正しいかもしれません。父上も母上も、壊す事や模様替えが出来る筈なのに何も言いません。私が余りに泣くからだと思っていましたが、今考えてみるとあの二人も、悲しんでいたのでしょう。
なんで貴女を一人にするのか、なんで貴女を留めてくれなかったのかとずっと不満でした。恨んでいたと思います。けれど二人も、貴女を忘れてなく、これからも忘れない。二人は貴女を、愛していました。
今となっては、それを貴女に伝えられなかった事が心残りです。
愛していると伝えたかった。
ならこれは、ラブレターなのかもしれません。
遺書すら残してくれなかった貴女に送る、愛していると叫ぶためだけの、伝わることの無いラブレター。
滑稽でしょうが、少しだけお付き合いください。
貴女への気持ちが無くなるなど有り得ませんが、踏ん切りを付けたいのです。
貴女がいない事に泣く夜に。貴女を死なせた全てを恨む昼に。
貴女は最初に出会った時から、私よりずっとずっと多くの物事を知っていました。花の種類も、動物の名前も、鳥の鳴き声も。
本当は、貴女や貴女の知識に感嘆するばかりでなく、貴女を見るべきだった。貴女の咳一つに、出掛け先一つに。
そうしたら、貴女を失わず済んだかもしれないのに。まだ貴女は、笑っていてくれたかもしれないのに。
命の価値は対等だとか平等であると叫ばれるようになりましたが、私にとっては矢張り貴女の命が一番重いのです。国王や王太子や王妃と比べても、天秤に乗せて仕舞えば貴女に傾くのです。
それでも。
貴女の居ない世界を生きる為に、貴女を置いて、進まなければいけない。その時が来たようです。
……そろそろ、残りの行数も少なくなって来ました。
これを書き終えたら、貴女を置いて歩くのです。
恐ろしくて堪らない。
貴女の為に、貴女の為だけに生きたかった。
貴女を思えば、死ぬ事は怖く有りませんでした。
死を恐れて震える夜もありました。暗い底に落ちて、身動き出来ず闇が降り積もる。それはとても怖い事です。恐ろしい事です。
けれど、そこに貴女が居るなら。貴女と同じ所に行く事が出来ずとも、近付けるなら。
怖がるどころか、少し楽しくさえなりました。
人も獣も植物も、一日に沢山死ぬのです。沢山の死骸が降り積もる闇の中で貴女を想える地獄なら、貴女の居ない地獄よりずっとたのしい。
けれど、それも終わりです。
貴女の愛した全てを守り抜いて、その結果貴女に近づける地獄を目指した私は、もう終わりです。
愛しています。
愛しています。
大好きでした。
ありがとう。貴女に会えて、本当に良かった。
こんなに狭くて広くて、醜くて美しい世界で会えた貴女に、私の全ての感謝と愛を込めて。
姉さん。
いつか貴女が、光の降る空の下で笑っていられる世界で、また逢いましょう。
それまでずっと、愛しています。
かしこ




