何に価値を見出すかはその人次第
それは残暑とは名ばかりのまだまだ普通に暑い日のことだった。その日は休日だったが日課を全て終わらせて暇だった俺は職斡所の喫茶店でおっさん達に絡んでいた。そんな俺の下に一通の手紙が届く。
上質な紙を用いた封筒には装飾が施されており、封蝋には紋章みたいなものが捺されていた。そして俺はこう思った。
うおおっ! かっけぇ!
俺が手紙を受け取ったのを確認するとわざわざ届けに来てくれた若い兄ちゃんは一礼して帰って行った。こんなクソ暑い中をご苦労様です!
俺は考えた。この手紙、読まなくてはならないだろうかと。正直に言うとこの封筒を開けたくない……! 開けるということはこの封蝋を割らなくてはいけないのだ! でも開けたくない!
……しかしそんな訳にはいかないだろう。もし開けなければ中に書かれていることを確かめることが出来ず、先方にかかなくていい恥や損失を被る可能性がある。そうなった場合に罰せられるのは、おそらくさっきの若い兄ちゃんだ!
俺の我欲で人一人が死ぬかもしれない! そうなった場合に俺は良心の呵責に耐えられるのか? いや無理だ!
だが惜しい……! ならば綺麗に開けるのみ。そう決心した俺は今までで最高ではないかと思う集中力を発揮して開封作業を試みた。しかし最初の一手で封蝋に亀裂が走る。
脆い! こんなにも脆いのか! 俺は暫く動かなかったらしい。その一部始終を見ていたピエールが言うには「店はお嬢の雰囲気に呑まれたのか静かだった。そこにピシッという音が響き渡り店中が凍りついた」らしい。
ショックのあまりフリーズしていたが何のために封を開けたのだと気を取り直し手紙へと目を移す。そこで新たな問題に直面する。
達筆過ぎて読めねぇ……!
読み書きは習った。だがそれは一般市民用のものだ。これは明らかに上流階級のものだった。
読めない……。これでは封蝋を割ってまで開けた意味が無くなってしまう! しかし今の俺は一人ではない、助けを請える人達がいるじゃないか! 一縷の望みに賭けて顔を上げる。するとどうだろうか、皆が顔を反らしていた。
くっ、何てことだ、読める人間がいない……! このままではあの若い兄ちゃんが!
ところがただ一人だけ普段と変わらない人物が目に入った。けして目が合うことはなかったが、その姿からは皆が放つような雰囲気は感じられなかった。
その人物とは、そうマスターだ! マスターは皆が気配を殺す中で我関せずとカップを磨いていた。マスターならば読めるのではないか? 俺はそう思った。
しかしそれで良いのかと逡巡した。職務内容外のことでマスターの手を煩わせても良いのかと。だが俺にはこの手紙の内容を知る義務がある! 挫けそうになる心を奮い立たせ、マスターの下へと進んで行った。
この姿を偶然居合わせ目撃していたマルクはこう語ったという。「店の皆が気まずそうに彼女を見ていた。彼女の葛藤する顔を見ると心が痛んだが、立ち上がり所長の下へと向かう姿からは目が離せなかった」。
恥を忍んでマスターに尋ねる。するとマスターは俺から手紙を抜き取り目を走らせた。その姿にマスターへの尊敬の念をますます強めた。マスターは内容を簡潔に教えてくれた。
マスター曰く、先日の若様とのことで話がしたい、迎えをやるので職斡所で待っていて欲しいとのことだった。
マスターは差出人も教えてくれた。トロア男爵オーギュスト・バルリエ。このトロア市一帯を領土に持つ貴族だ。元々この地域はトロアと呼ばれており、土着のバルリエ家が支配していた。後に今の王家が勢力を伸ばし、バルリエ家はその傘下に入って男爵の位を与えられたらしい。その時にこの町もトロア市と正式に名付けられたそうだ。
お貴族様にお呼ばれした俺は、指定された日の仕事を全てキャンセル。といっても喫茶店での仕事だったんだけど。
指定された日、少し早目に職斡所に行った。迎えが来るまで喫茶店で時間を潰して待っていた。保護者ということになっているマリアさんも一緒に呼ばれ、二人して少しだけお洒落な格好をしていた。まあ、俺はマリアさんの着せ替え人形になっていただけだけど。
普段の装いでも人目を集めるマリアさんが着飾った姿をしていると、普段の倍以上は注目を浴びていた。マリアさんは「クロエちゃん、わたしどこか可笑しいかしら?」何て聞いてきたので、「貴女が素敵過ぎるたけです」と心の中で言っておいた。
当然そんなマリアさんの近くにいる俺も注目を浴びる。ふはははははっ! 羨ましいか野郎共! 今日は何だか気分が良い! マリアさんの赤面する姿をその目に写すことを許そう!
なんだそこの小僧、そんなにこちらを凝視しおって。その年でマリアさんに見惚れるとは中々に増せておるではないか。良い許す。その目に確と焼きつけるがよい。ふはははははっ!
心の中で普段とは異なる状況に興じていたら、迎えの馬車が来た。……お洒落な馬車が来た。え? そんな立派な馬車を出す必要あった? と狼狽する羽目にあうが、後で聞くと男爵家所有の馬車の中でも一番ランクが低かったらしい。
下町を走っている馬車なんて良くてただの箱だし、普通のは屋根すら無いもはや荷台。そう乗客は荷物です。
悪目立ちとはこういうことかと、したくもない経験をさせられた俺達は三つの門を抜けた。一つ目、下町と富裕層の町を区切る門。二つ目、富裕層の町と貴族の住む町を区切る門。三つ目、貴族街と領主館兼行政庁舎を含む行政区画を区切る門だ。
俺達は主に領主館として使われている箇所の応接室に通される。何でも俺達が訪れた時間帯はティータイムの時間らしく、その時間を使ってわざわざ呼び出したらしい。これは別に珍しいことではなく、主に行政に関係ない者と会うときに利用するそうだ。それ以外の時間は予定がびっしりだそうな。今回はたまたま予定が入っていなかったらしい。本当かな?
そんなことよりも俺にとって衝撃的だったのは、出迎えてくれた執事が老紳士だったことだ。俺が思わず心の中で「貴方の名前はセバスチャンですか?」と聞こうとしたら「貴方の名前はセバスーー」ぐらいで被せて名乗られた。
「私は旦那様の執事を務めさせて頂いております、クロヴィスと申します」
そのあとは応接室で少し待たされたが男爵が登場。年の頃は三十にいくかどうかぐらいで背格好は中肉中背、髪は金色で短く切り揃えられていた。容姿は目力強い系のイケメンですね。はい。若様が大人になったらこうなるのかなって感じですね。はい。
そうです若様のお父上ですね。はい。先日の件で礼を言いたかったらしい。何でも今までは勉強やら稽古やらに真剣に取り組まない問題児だったらしい。まあ、下町まで抜け出して来てますからね。……良く考えたら結構凄いな。
それが俺にボコボコにされてからはそれを引き合いに出すと真面目に受けるようになったらしい。……何と言って焚き付けているんですかねぇ。
これからも遠慮なくボコボコにして良いらしい。やったぜ!
最後に何か褒美をくれるという。マリアさんは恐縮していたが、男爵は俺に聞いてきたので遠慮なく言ってやった。封蝋された封筒が欲しいと。
男爵は一瞬虚をつかれたようにキョトンとしていたが、笑って用意してくれた。何でも高々封蝋された封筒ごときに熱弁してまで欲する様が面白かったらしい。
普段あまり喋らない俺が比較的多く話したのでマリアさんにも驚かれた。
男爵は封蝋のされている面に何かを書いてくれたが、俺には読めねぇ……。だけどなんか格好良いので気に入っている。
男爵に封蝋付きの封筒をもらった俺は暫くの間かなり上機嫌だったらしい。普段より言葉を話すし、表情も柔らかいとご評判頂きました。主に受付のお姉さん達に。
マリア「クロエちゃん、また見てるの?」
クロエ「うん!」
マリア(ああ、可愛い過ぎる!)
クロエ「?」