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無駄遣いはしない方だと自負しているけれど、久し振りにそれらしいお金の使い方をしてしまった。セイコーマートの袋の中にはエクレアが一つ。いつでも、どこでも買えるのに、気まぐれでふらっと立ち寄ったついで手に取ってしまった。浮かれてるな、私。
防波堤沿いの歩道からは日本海が一望できる。左手には夕焼けに照っている海面が穏やかに揺れ動いていて、誰一人としていない季節外れの海水浴場の浜辺に波打っている。
たそがれるには持ってこいの風景。学校が始まったら、防波堤の上や波打ち際に座り込んで話す学生が散見されるようになるのだろうか。もしかしたら私も、今後三年間のうちにそういった経験することがあるかもしれない。そう思うと、胸がすーっと晴れていくような心地良い感覚が起こった。コンクリートジャングルの都会で高校生活を送っていたらまずできないことだ。
歩きながら海を眺めていたら、電車が音を立てながら通り過ぎていった。
海辺沿いを走る電車。なんて素敵で、風情があるのだろうと思う。今日、電車に乗ってやってきたとき、トンネルを抜けて視界に真っ青な海が現れた瞬間には感動を禁じ得なかった。まるで自分が、小説やドラマの世界の中に迷い込んでしまったような、そんな気さえした。
ロマンチストみたいなことばかり考えているうちに駅前まで戻ってくる。
三角屋根の、木造駅舎。その前に立っている看板が「潮中」という地名を示している。
日本海に面した海辺の田舎町、潮中――帰省の度にこの町に住みたいと、子供の頃から望んでいた。そして、高校進学を期に叶えることができた。
端的に、私はここ潮中町が好きだ。特に田舎特有ののどかな雰囲気と、海が非常に身近な存在であるところがいい。かと言って都会嫌いというわけじゃない。潮中のことが好きで、私は地元を離れてここまでやってきたのだ。
ここで働いてるのか、と郵便局の前を通り過ぎながら薫さんのへらへらとした顔をぼんやりと思い浮かべる。一緒にシャワー上がりの半裸姿まで過ってきたけれど、まあいい。
そういえば、引っ越し先に親戚のお兄さんがいるってことを中学の頃、仲が良かった友達に何気なく教えたら、えらい騒がれたことを思い出す。何を期待しているのか。少女漫画の読み過ぎだと、テラスハウスに影響され過ぎだと言ったら冷め過ぎててつまらないとまで蔑まれたけど、ここは現実なんだからさ。何も起きやしない。
……と、私は考えるわけだけど。
一般的女子校生の思考回路から大きく逸れてはいない、はず。
※
「(帰ってきたかな?)」
自室で荷解きを進めていると、下から施錠が解かれる音がした。「ただいまー」と、誰もいない一階に響く声と、デジタル時計が映し出す午後十時十六分という、おばあちゃんから目安として聞いていたのにごく近い時刻を見て薫さんだと確信し、私は一度作業の手を止め、下へ降りた。
「知恵ちゃん、わざわざ降りてきてくれたの?」
「おばあちゃんから夕飯の場所教えてやってくれと頼まれてたので。お仕事お疲れ様です」
私の顔を見るなり、心なしか若干顔が明るくなったような気がした。まあ、ただいまに反応してくれる人が嬉しいのは当然か。
台所まで行き、冷蔵庫の中にしまってあったおかず入りの小皿を教えると、薫さんは早速取り出してレンジに入れた。ちなみにおかずとは肉じゃがだ。今日の夕食は私のリクエストで和食だった。おばあちゃんの作る料理はなんでも美味しいけれど、和食は特に腕が光る。
「知恵ちゃんはさー、料理とかしないの?」
役目を果たして立ち去ろうとしたとき、薫さんが冷めた味噌汁を火にかけたりと他の夕食の準備を進めながら軽い調子で話し掛けてくる。食餌の準備が整うまで話し相手をしろということだろう。荷解きも切羽詰まっているわけでもないし、応じることにする。
「お父さんとお母さんがどっちも働きに出ていたので、ほぼ毎日していました」
「へえ。じゃ、結構上手いんだ」
「レパートリーなら、それなりにあります。けど上手いかどうかは」
「食べてみたいなー。作る予定とかないの?」
「そのうち、あるんじゃないでしょうか。おばあちゃんの代わりに。でもきっと……いや絶対におばあちゃんの方が上手ですよ」
「味はそうかもだけどさー、女子高生の手料理ってだけで価値はあると思うなー。……台所に立つ女子高生か。いいな」
え、と出かかった声を飲み込む。
……何がいいな、なんだろう。
今の発言は軽いというか、オヤジ臭い。二十一歳なのに。
「ああ、でも台所に女子高生は別に目新しくもないか」
「……何の話ですか?」
「なんでもない、気にしないで」
……はあ。
「ねえ。知恵ちゃんって、なんで潮中の高校に進むことにしたの? 親元まで離れてさ」
急に話題が飛んだ。ちょっと戸惑っていたところだったので、置き去りにされそうになる。
薫さん、マイペースだな。
「潮中が、好きだったので」
「それだけ?」
そのとき、薫さんが振り向いて面喰ったような顔を向けてくる。本当にそれだけなので「はい」としか返しようがなくそう返すと、数秒の沈黙の後、薫さんの顔に愉快そうな笑みが浮かんだ。
「はは、そっかい。凄いな、好きってだけで」
結構大きな声で笑われたけど、そこまでだろうか。
少し変わっているのは認める。標準的な高校選びと言ったら、自分の学力に合ったところとか、入りたい部活とか、着たい制服とかが基準になってくると思うから。けど別に、私みたいに土地で選ぶのだって有りだと思う。
「もしかして知恵ちゃんって、お利口さんっぽく見えて案外変わり者だったりする?」
「普通だと、思いますけど」
変わっていると言えば、私よりも薫さんの方だと思う。まだ会って間もないけれど、薫さんからは個性的な人の香りがそこはかとなく漂ってくる。
「薫さんの方こそ、なんでおばあちゃんの家で暮らしてるんですか?」
と、言ってから、内心「あ」と、これは聞いていいことだっただろうかと、踏み込んだ質問をしてしまったことに罪悪感を抱く。何か深い事情があったらどうする。
「なんか複雑な表情してるけど、大丈夫だよ? 別に何もないよ」
「あ、そうですか……」
ほっ、と一安心。注意しないと。
「さー、飯だ。腹減った~」
薫さんが夕食を乗せた盆を持って台所を去っていく。
……私も戻ろう。って、結局薫さんについて何も聞いてないや。
「……いっか」
これから一緒に暮らしていくんだし、徐々に知っていけばいい。それに取り急ぎ知る理由もない。私は部屋へと戻り、荷解きの続きを始めた。