出逢いー6
その日は朝から、ドレスではなく庶民の簡素なワンピースに袖を通し、彼女が王宮に来るまで被っていた、北の民の特徴である髪を隠す黒髪のカツラと瞳の色がわからぬ様なつばの広い帽子を身につけ、薄い化粧を施すというお忍びスタイルに仕立てられた。
もちろん、庶民の格好くらい1人でなれると言い張る彼女を無言の微笑みで黙らせた上で女官達が支度したため、王宮仕立ての仕上がりだった。そのために、育ちの良い品の良さの滲み出るものとなったが、ロウェルとしては満足だった。
だが、ルイナはロウェルの格好を見るなり呆れを多分に含んだため息を吐く。
「陛下…なぜその様な格好なのですか?庶民としてお忍びで行くんでしょう?」
「これの何がもんだ…」
「問題しかありません!それでは、視察と変わりません!」
ルイナがこう言うのも当然で、ロウェルの格好は緋色の上衣を脱いだだけといっても過言ではない上等さが一目でわかる白のシャツに王宮騎士がよく着る仕立ての良いスラックスに黒のブレザーという出で立ちであった。しかもご丁寧に襟から胸ポケットにかけて金の鎖が見えている事から、王宮支給の上官のみが持てる金の懐中時計を身につけている事が一目でわかる。
どう見ても国王の命令で王都を視察する上級近衛の様子だ。
「いいですか!庶民はそんな白くて柔らかそうなのにパリッとしたシャツは着ません!だいたい!街に行くのに何でブレザーなんですか?それに!金時計の意味をご存知ですか?はぁ…誰か止めてよ…。というか…誰も止めないなんて…。」
「誰もおかしいとは言わなかったぞ。私服だなってハルシュフィードも言っていたしな。」
「まさか…陛下の周りは爵位のある方々ばかりですか?」
「うむ。力のあるものを取り立てていきたいとは思っているが、身元を明らかにしてなどを考えると中々進まないのだ。」
「はぁ…陛下!厩番でも調理番の下人でもいいですから庶民の生活をわかっている方を捕まえてきて、その服を借りていらして下さい。」
「陛下にその様な格好などさせ…」
「好奇の目で見られるよりマシです!いいですね?そうでなければ、私は1人で行きますよ!だいたい…ハルシュフィード様から散々、陛下を使うなと釘を刺されたばかりだというのに…。」
「うん?何か言ったか?」
「何も言ってません!いいですか?早く行って来てくださいね!」
あんなに怒り狂うルイナも久しぶりだなと心の中でニヤけながら踵を返す。
「誰かいるか?」
と誰もいない廊下に語りかける。
スッと唐突に柱の陰から人影が現れる。
「お呼びですか?」
「あぁ。お前なら知っているだろう?」
「何の事ですか?」
「…庶民の格好だ。至急、用意しろ。」
「…。」
「……。どうした?」
影から返答がないのは珍しい事だ。その上、張り詰めた気配が緩むのを感じる。
「いえっ、失礼を致しました。至急準備を…。」
と闇へと溶ける。
あれは、こんな命令を出されるとは思っていなかったという様子か。
「わかっているさ。自分でも驚いているのだからな。」
と呟きながら、これ以上火に油を注がない様に自室へと急ぐのだった。
影の仕事は早く、5分と経たずに少々くたびれた焦げ茶の緩めのズボンにシワの目立つ安い染料で染めた感のあるシャツにジャケットを持って戻ってきた。
「これを着るのか?」
「庶民の標準的な格好はこの辺りかと。」
そして、実際に袖を通して思い知る。ルイナはすごかった…と。
服と自身の浮き方が尋常ではなかった。いかにも、お忍びのために庶民の服を揃えました感がありありとわかる。しかし、ルイナも待っているのだからと思い切って部屋へと向かう。
そして、案の定、数秒の沈黙が支配する。
「陛下…。」
スタスタとこちらへ向かい唐突に髪の毛をくしゃくしゃにしていく。
「な…何を…!」
「ほらっ、少しらしい感じになったでしょう?」
と手鏡を示せば、なるほど確かにくたびれた格好に似合いのボサボサ頭に仕上がる。
「こんなにくたびれた庶民もいるのか?」
「そりゃあ、朝から晩まで仕事をしている者も少なくないですから、格好に気を遣っていられない者も多いですよ。庶民の私が言うのですから間違いないですよ。」
こうして出だしから躓いたお忍びの王都散策は幕を開けたのであった。
出仕してくる兵達の門扉を通り抜けると、そこは宮仕えの者達の住まいやその者達を相手にする小さな商店が立ち並ぶ住居区域となっている。
「ここは王宮の弱点の1つだ。正門の様に敵の進入が見える開けた場所でもなく、裏の様な崖もなく進入しやすい場所だ。だからこそ、こうして住居区域を設け、通りを細く入り組んだ作りにした。」
「なるほどね。確かにこれはこれで攻略には難しい立地ね。陛下の立案?」
「あぁ。かつてここは後宮があったがそんな金の無駄使いをする位ならこれくらいしたいところだと思ってな。それと、お忍びなのだ
から、その呼び名はやめよ。」
「では、ウェルとお呼びしても?」
「構わぬ。お前はルイナで良いな?」
「いいえ。ルナとお呼び下さい。」
「やはりルイナは偽名か?」
「いいえ、陛下だけ別の呼び名というのはズルいですもの。」
「ズルいのか?」
「ええ、特別感がありますもの。」
ふふっと悪戯っ子の様な笑みを浮かべ、通りを駆けていく。
「早く市へ行きましょう、ウェル!」
「ルナ!そっちは逆だぞ?」
「ふぇっ!」
「方向音痴か?行きたいところはあるのか?」
何とか笑いを堪えつつ言葉を紡ぐがそれが益々、怒りを煽ったらしく顔を真っ赤にしながら引き返す。柔らかな皮の靴だからか、王宮にいた時とは違い大股でせかせか歩いてもよろめいたりせず、むしろいつもこんな調子だったのではないかと思わせる。
「笑いすぎです!村から王都に店を出した薬問屋の知り合いがいるので、顔を出したいです。あとは甘くて美味しいものが食べられれば文句ないです。」
「薬問屋?」
思わず冷えた空気が流れる。
「薬問屋に行く事が悪い事ですか?申請を出した様に私は睡眠導入薬と頭痛薬が常用薬ですからね。それに知り合いに会いに行くくらい良いじゃないですか!」
「いや、後で中身が検めさせてもらえれば構わない。」
「その余計な一言がなければ文句ないです。あっ、あと美味しいものご馳走して下さいね?」
「王宮の食事は口に合わないか?」
「王宮の食事は王宮の食事。王都の食事は王都の食事ですよ。」
言われた言葉の意味を掴めずに固まっていると、それを察したのか、彼女が話を進める。
「それとこれとは話が別って事ですよ。最高級の食材を最高の腕を持った料理人が仕上げるんですから美味しくない訳がないんです。でも、こういう所の素朴な味とか工夫みたいなのが感じられるのも良いものなんです。でも、それを比べる事なんて出来ないんですよ。まっ、食べてみればわかりますって!」
と、ちょこちょこ道を修正してやりながら、王都の最も賑わう市場に出る。
色鮮やかな果物がたくさん積まれた木箱の並ぶ店があれば、同じ様な木箱に大小様々な魚が並ぶ店もある。柔らかな布の並ぶ店は手芸屋らしく、店の奥にはそれだけで芸術と呼べる色とりどりの糸の束が並び、離れの様に連なる建物からは楽しげな女の子たちの声が響く。
「へぇー!手芸屋さんがお裁縫教室を開くのね。」
「母親から教わるものだろう?」
「両親がお店を切り盛りしてたりすると中々、難しいのよ。こういう場所で教えてもらえるなんてありがたい事ね。」
「ほう…ルナは母親から教わらなかったのか?」
「……。早くに亡くしましたから。所作も裁縫もお料理も…全部、姉と慕っていた従姉妹のお姉様から教わりました。美人で、なんでも出来るすごい人なんですよ、姉様は!」
暗く沈んだ表情は一瞬で、すぐにいつもの笑顔で語りだす。その瞳がひどく寂しげである事にはあえて触れなかった。
「それならお前がこんな無茶をやってると知れれば、悲しむだろうにな。」
「でしょうね。でも、姉様なら自分で決めたならしょうがないって、思ってくれると思います。私よりもずっと他人が傷つくことを悲しむ方でしたから。さっ、暗い話でせっかくの王都巡りが台なしになっちゃいますよ!」
と言うが早いか、薄い生地に南国の果物をふんだんに詰めたスイーツのお店へと走っていく。
「『くれーぷ』?」
「知らないんですか?美味しいんですよ!これ、ご馳走してくださいね。おじさん、南国スペシャルを2つお願いします。」
「あいよ!姉ちゃん、美人さんだからおまけしてやんよ。」
「やった!ありがとうございます!南国の果物って何食べても美味しくて幸せになれますね。」
「姉ちゃん、南のものは初めてかい?」
「えぇ、北の外れの方の村で生まれたから、王都も初めてよ。」
「はぁー!そりゃもったいねぇな。あっちは中々、他所のが入らんもんな。そんなら、通り一本奥のエルニスの厨房って食事処が面白いと思うぞ。王国中のその地域独自の食文化を集めた食事処さ。その類の店は王都にはあちこちあるが、あそこは料理人がほんとにあちこちの出身者だから、その地域っぽいじゃなくてその地域の味になるんだわ。どの出身者もここの味は嘘をつかないって定評だから、昼時にゃ混むがせっかく王都にいるんだ、ぜひ本場を食べていくといい。はいよっ、南国スペシャルだ!それと、そこの兄ちゃん!エルニスの厨房の3軒だか4軒隣にリリンの腕利きが作る髪留め屋があるから、彼女にプレゼント買うんならそこがお薦めだね!」
バッチンと甘い香りのする彫りの深い厳ついおじさんがウィンクをする。とてつもない違和感を拭えないが、言わなければいけない事は言わなくてはならない。
「ルナは彼女ではない!」
「はぁー、もったいないねぇ。早くしないとこんなべっぴんさんあっという間に取られちゃうぞ!」
「おじさん、私も願い下げなんで問題ないですよ。素敵な情報をありがとうございます!」
スルリとおじさんの手からクレープをひったくり、はむっと幸せそうに頬張る。
「ん〜、おじさん最っ高!これは本当に美味しいわ。ウェルも食べてみて下さい。」
と、ロウェルにクレープを差し出しつつ、もきゅもきゅと食べ進めていく。
「願い下げとはなんだ!お前にそのような事を言われるとはな。」
若干、苛立ちつつルイナの真似をしてクレープに齧り付く。口に広がる濃厚なクリームに南国果実独特のねっとりとした甘みが絡み合う。しかし、鼻に抜ける爽やかな香りがその濃さを上手く調整するのか全く嫌な甘さではなかった。それどころか、王宮では果物として楽しむものであったが、この様な食べ方が出来ることにも素直に感動した。
「これはっ…!中々に美味しいな。ふむ…お前の言っていた言葉の意味が分かった気がするぞ。」
「お気に召したようで良かったです。お昼にはまだ早いですし、今度はあの扇専門店に行きましょう?さっきから気になっていたんです!」
食べ終わるや否や、もう次のお店へと走って行く。これでは、はぐれるのも時間の問題だなと一瞬頭を抱えたロウェルだったが、生き生きとする彼女に、本当にこっちの世界の人間なのだろうとどこか安心した事も事実だった。
「ウェル!今から中央広場で見世物があるんですって。行きましょう?」
思う存分、市場の工芸品を楽しんだと思えば、すぐに見世物の情報を手に歩き出す。しかしすぐに
「ルナじゃないか!」
という男の声が耳に入る。
ルナは今の偽名のはずではと警戒を強めるロウェルを他所に、ほころぶ様な笑みを浮かべてその声に応える。
「マークおじさん!お会い出来て良かったです。ウェル、こちら朝お話しした薬問屋のおじさんです。おじさん、えっと…色々あって一緒に王都を廻ることになったウェルさんです。」
マークおじさんと呼ばれた者は、白髪の多い髪を短く刈り上げ、たっぷりの白い口ヒゲをたくわえた60過ぎの男だった。
「いやぁ、ルナちゃんの旦那さんに会えるなんて思いもしなかったよ。」
「色々あってって言ったでしょう?旦那でも彼氏でもないわ。おじさんがこっちにお店出したのは知ってたけど、何処にあるかまでは分からなくて、ちょっと困ってたのよ。お店の名前もわからないしね。」
「そんな事、その辺りのやつを捕まえれば知っているだろう?」
「えっ?王都でそんなに手広くやってるの?」
「当然だろう?おっちゃんを舐めるもんじゃないぞ。村一番の薬師が王都一にならない訳がないわい。さっ、こっちだ。」
「待って!ちょっと見世物も見てみたいのよ。後で行くからお店の場所、教えて。」
「ん?うちは中央広場近くに店を構えてるんだ。二階から見りゃ特等席だぞ?」
「ほんと!聞きましたか、ウェル?特等席ですって!早く行きましょう!」
目に見えて瞳がキラキラと輝くルイナに何も言い返せなくなる。しかし、小さなため息を吐いた時にはもう2人の姿は人混みも消えようとしており、慌てて後を追わざるを得なくなった。慌てて人の後を追うという経験すら初めての事だと、何処か他人事のようにロウェルは思う。
「この国の王を置いていく度胸のある奴など、お前が初めてだ。」
一歩間違えれば不敬罪と言われ処刑される様な事すら堂々と、唯の1人の人に対する態度と何ら変わらずにやってのけるある意味大物の娘。猜疑心に満ちた上でのお忍び王都散策であったが今、胸の内には暖かな感情が広がり徐々にこの賑わいに自分自身が浮かれている事に気づくのであった。
見世物が始まるという事で、ただでさえ多い人混みがさらに密集し、着いていくのが大変ではあったが、そう歩かないうちに広場へたどり着いた。『フォード薬問屋』という捻りのないわかりやすい薬屋の名前が飾り気のない木の板に黒の太字で書かれ看板として掲げられている。
ガラス張りの洒落た扉を開けると、中には薬酒なのか様々な色味のビンが並び、天井からはいくつかの植物がぶら下がっている。細々とした小さな引き出しの隙間からは、大小様々な草や花がのぞき、薬屋独特の香りが漂う。パタンという軽い音とは裏腹に、扉が閉まると表の喧騒が一気に遠ざかる。
「薬屋は初めてかね、ウェル殿。」
「あぁ…薬湯として煎じられたものはよく見かけるがその大元はよく知らなかった。」
「はっはっはっ!薬湯?そんなご貴族様が飲む様な甘ーく、優しいものなんて薬とも呼べんよ。薬と毒は紙一重。苦しまないわけがないってのがおっちゃん流の薬定義さ。おっちゃんの薬はよーく効く。だけど一歩間違えれば薬が強すぎて命を蝕む。ここはそういう薬屋さ。」
薄暗い部屋に差し込む表の日差しが、にやりと笑う顔を照らし出す。影のあるその顔は、どこか悪人の様にも見え、不用意にこんな場所へと足を踏み入れた己の軽率さを悔やんだ。ジワリと背中に汗が伝う。が、そんな緊張感を打ち砕く様にルイナが手を引く。
「マークおじさん!見世物、始まっちゃうよ。大人な話は後でもできるでしょう?」
「はっはっはっ!ルナちゃんは相変わらずだなぁ。焦らなくてもまだ見世物が始まるには時間があるさ。」
とルイナの方へと視線を戻し、店の奥にある階段へと案内し始めた頃にはもう、嫌な気配は消え、久方ぶりの再会を果たした孫娘を見る町のお爺さんといった雰囲気となっていた。
マークの先導で二階のバルコニーへ出ると、眼下には中央広場があり、男の言葉通り人々の頭の上から見世物が見られる特等席であった。周りを見れば他所の商店も店を閉じて、二階から顔を覗かせており、二階が食事処の店は客で溢れている。
「王都での見世物は貴重なのか?」
「いや、日のあるうちは結構、いろんな奴らが見世物を出してるなぁ。だが、今日は別さ。ルナちゃんもウェル殿も運が良い。エルニスで今、最も人気のある連中の見世物さ。歌と芸術の女神『ソフィア』の名を冠した『ソフィアの滴』。知らんかね?」
揃って首を傾げると、小さな目を大きく見開いて驚きを示された。
「2人とも世間を知らなすぎやしないかい?吟遊詩人と剣舞の融合…とでも言えば良いのかな?これが中々に面白いんだ。ソフィアの滴の1番人気の演題は、『狼王』っていう今のロウェル陛下の雄姿を讃えたやつなんだが、陛下の武勇伝って言ったらみんなが大好きな話しだろう?だからこれで一旗あげるってのは存外、難しいんだ。だが、ここは吟遊詩人の情緒豊かな語り口に、華やかで雄々しい剣舞が華を添えるってんで大人気なんだ。」
「血塗られた玉座に座る獣の王の話しなど、面白くもないだろう。」
つい不貞腐れた様な声がこぼれる。民は皆、武術で全てを掌握した王を心の何処かで怖れている。北が良い例だ。酷いで片付ける事など出来ないほどの重税を掛けられながら、声をあげる事も出来ない。『狼の制圧』を恐れるが故である事は火を見るよりも明らかだ。
「おや?ウェル殿はロウェル陛下がお嫌いかね?あの方は本当に素晴らしい王様だ。ハルヤ王の絶対王政もいやぁ中々に王様らしい政だったがなぁ、民衆第一ってんなら今の陛下には敵わんな。みんな陛下が大好きなんだよ。ここ最近じゃ、ちゃんと民を見てくれたのはあの方が初めてだ。なんとかあの人に頑張ってもらいたくなるし、みんなの憧れなんだよ。」
「だがっ…!」
「血塗られた玉座に座るだなんて誰も思ってないわ。そうじゃなきゃ、その雄姿を讃えた剣舞なんてやらない。オルヴィスと違ってここの人たちは王家に見張られているなんて考えも持ち合わせていない。だから、大丈夫よ。」
ふわりと優しく微笑むルイナの顔と、いよいよソフィアの滴の興行に沸く民衆の歓喜に自分の中で凝り固まってきた概念が解けていくのを感じる。
「あぁ…本当に王は民に愛されているのだな。」
温かな眼差しで民衆を見下ろせば、今まで偽りと思ってきたその歓声も表情も素直に受け止められる。目頭が熱くなる感覚はきっと、民衆の熱気故であろうと、言い聞かせ、吟遊詩人の声に耳を傾けた。