②ミツキ
「みっちゃん。おはよう」
自分に向けられた声に反応できずにいると、少女の顔がすぐ傍まで来ていた。
「・・・おはよう、ユウちゃん」
「どうしたの。具合悪い?」
「ううん。ちょっと考えごとしてただけだよ」
大きな瞳で心配そうに顔を覗き込んでくる少女に、咄嗟に作った笑顔を見せながら実月は言った。
「この時間に会うなんて珍しいね」
いつも私より先に教室にいるのに、と問うと、少女、久住由宇は、華奢な肩をぴくりと震わせた。色素の薄い髪が揺れる。
「うう、ええとね、それはね・・・」
わたわたと挙動不審になる彼女の頭から、ぱこっと軽い音がした。
「痛っ・・・」
「お前が課題を忘れるからだろうが」
大げさに頭部を押さえる由宇の後ろに、呆れ顔の少年が立っていた。片手に丸めたノートを持っている。
「ひどいよ。恭。ぼうりょくはんたい」
「このノート、川に投げてもいいんだぞ」
「ゴメンナサイゴメンナサイ。返してください!」
長身の少年からノートを取り返そうと、両手を挙げてぴょんぴょん飛び跳ねている由宇の姿を、何人かの男子生徒が羨ましそうな目で見ている。いや、羨ましがられているのは、彼の方か。
「おはよう、真宮くん。課題って、数学の?」
「ああ。ったく、なんで一週間も前に出されていたものを、前日まで放っておけるんだよ。お前は」
ぱこ。
再度ノートを由宇の頭に振り下ろしてから、真宮恭はため息をついた。心なしか目の下にクマが見える。由宇とは家が近いと聞いたことがあるから、夜中に呼び出されでもしたのだろう。
「だってさ、他の教科の課題もあったし・・・」
「言い訳するな」
「恭がノートを写させてくれればよかったんだよ!」
「それじゃあ意味がないだろうが」
昨夜も行われたに違いない会話を聞いていると、実月も彼らに対して羨望の思いが湧いてくる。
先ほど通り過ぎて行った男子生徒たちとは、意味が違うけれど。
彼らはこの世界に満足している。
課題を忘れた程度のことが大事件で、小さな喧嘩をしながら幼馴染と一緒に登校する毎日が、何よりも楽しいと疑わない。
並んで通学路を歩きながら、実月は、自分と彼らとの間に透明な壁があるように感じていた。
姿はすぐそこに見えるのに、決して触れることは出来ない。声も聞こえない。思いも伝わらない。そんな壁。
別の話題に移ったらしい二人を視界の端に捉えながら、実月はもう一度青い空を睨んだ。