釣り仲間が「踊れる人魚を釣った」と自慢してきた。写真を見たら、まさかの俺の妻だった
既婚者ばかりの釣り仲間数人と居酒屋に集まった夜、話題はいつものように釣果の自慢になった。
森田は前日に釣り上げた八十センチを超えるコイの写真を、もう何度もグループLINEに載せていた。一方、黒田敦也はここ最近ずっとボウズ続きだった。格好の標的を見つけた連中が、代わる代わる黒田をからかっていた。
ビールを三杯ほど空け、顔を赤くした黒田は、とうとうグラスをテーブルに置いた。
「魚は相変わらず釣れないけどさ、女なら最近一人釣ったぞ。ホテルまで来るようなやつ」
一瞬だけ個室が静まり、その直後、笑い声が弾けた。
森田は腹を抱え、膝からスマートフォンを落としてもすぐには拾わなかった。
「今日の酒、そんな強くないだろ。三杯で何言い出してんだよ」
別の男も笑いながら黒田の肩を叩いた。
「ボウズ続きで、とうとう魚じゃなくて女を釣った夢まで見るようになったか?」
黒田の顔から笑いが消えた。
「うるせえな。写真あるから見ろよ」
スマートフォンを取り出し、勢いよく写真フォルダを開く。
「嘘かどうか、自分で確かめろ」
さっきまで笑っていた連中が次々に身を乗り出した。
森田も落としたスマートフォンを拾うのを忘れたまま、黒田の画面を覗き込んでいた。
「おい……マジかよ」
「黒田、お前これどこで知り合ったんだ?」
俺は家にいる妻を思い出し、そちらを見ないようにしていた。
隣に座っていた高木浩介が俺の首に腕を回した。
「航平も見ろよ。黒田、今回は吹いてるだけじゃなさそうだぞ」
「俺はいいって」
「いいから一回見ろよ」
肩を引かれ、光る画面が視界に入った。
次の瞬間、グラスに添えていた指が止まった。
写真の女は、身体にフィットしたヨガウェア姿でカメラに向かって笑っていた。薄く加工された画面の中でも、左の眉尻には細い三日月形の傷痕が残っていた。
毎日見てきた傷だった。
写っていたのは、俺の妻――相沢静香だった。
1
黒田の写真は、顔を見間違えるほど不鮮明なものではなかった。
静香は普段より少し濃い化粧をしていた。身体の線がはっきり出るヨガウェアを着て、カメラへ向かってわずかに首を傾けている。
左の眉尻には、小さな弧があった。
三年前、俺たちは駅近くの飲み屋街で酔っ払いと揉めたことがある。
相手が近くにあった木製の椅子を持ち上げた時、静香はほとんど反射的に俺の前へ出た。椅子の角が左眉尻を切り、血が頬まで流れた。
病院では七針縫った。
傷はきれいに塞がったものの、細い弧だけは消えなかった。縫合跡の端には、ごく小さな盛り上がりも残った。
写真にも、それがあった。
位置も、弧の向きも、端のわずかな盛り上がりも同じだった。
よく似た顔の人なんて、いくらでもいる。
だが、七針縫った傷まで同じ場所にある偶然を信じるのは難しかった。
俺が画面を見続けていることに気づいた黒田が、宝物でも隠すようにスマートフォンを引いた。
「何だよ相沢。さっきまで興味ない顔してたくせに」
口元に薄い笑いを浮かべる。
「目、完全に釘付けだったじゃねえか」
周囲からまた笑い声が上がった。
「相沢も結局男だな」
「見るだけなら浮気じゃないって」
さっきまで黒田を馬鹿にしていた男が、今度は自分から缶ビールを開けて黒田の前へ差し出した。
「悪かったって。まさか本当にこんな女と知り合ってるとは思わなかった」
黒田は受け取ったビールをひと口飲み、背もたれへ深く身体を預けた。
「見たか。俺だってやる時はやるんだよ」
別の男が手を擦りながら近づく。
「黒田さん、どうやって釣ったんですかね」
「急に敬語になるなよ」
「いや、師匠には礼儀が必要だろ」
また笑いが起きた。
「金払ってでも教えてほしいわ。毎週川辺で日焼けして魚一匹釣れないより、そっちの釣り方覚えたほうがいいだろ」
森田が顔をしかめた。
「お前ら、さっきまで散々黒田のこと馬鹿にしてただろ」
「森田さんも謝っといたほうがいいんじゃない?」
「何で俺が」
「こういうのは先輩に頭下げて教わるもんだって」
黒田はますます機嫌をよくした。
ふと、俺のほうへ視線を向ける。
高木がその視線に気づき、肩を叩いてきた。
「航平、お前も聞きたいだろ?」
俺はグラスを握り直した。
写真の女が本当に静香なのか、確かめるには黒田に話させるしかない。
口元だけ笑った。
「参ったよ。魚は一匹も釣れないのに、女だけこんなの釣ってくるとは思わなかった」
黒田の眉が上がった。
「何だ、相沢まで急に素直になったな」
「さっきは悪かった。ちょっと見くびってた」
わざと身体を前へ傾ける。
「で、どこで知り合ったんだ? 釣り方まで教えてくれるなら、俺も聞きたい」
周囲の男たちも一斉に黒田へ顔を向けた。
黒田は二郎腿を組み直し、ゆっくりと口を開いた。
「二か月前、車を買い替えただろ?」
「言ってたな」
「納車の日、帰りに走ってたら隣の車線にいい女がいてさ」
口元を歪める。
「ちょっと見すぎた」
森田が嫌そうな顔をした。
「まさか」
「そのまさか。気づいた時には前の車にぶつけてた」
個室がまた笑いに包まれた。
森田はテーブルを叩いた。
「解散、解散! 何がテクニックだよ。新車ぶつけて作った縁じゃねえか」
「事故だけでホテルまで行けるかよ」
黒田が睨み返す。
「連絡先を交換してからが腕の見せどころなんだって」
「新車の修理代が口説き代だろ」
「俺に腕がないかどうか、お前が試したわけでもないだろ」
一瞬間が空き、爆笑が起きた。
森田は顔を真っ赤にした。
「もういい。煙草吸ってくる」
立ち上がって個室を出ていった。
俺は周囲の笑い声の中で視線を落とした。
二か月前。
俺は隣県へ出張していた。
帰宅した翌日、自宅の車のリアバンパーに新しい傷を見つけた。
静香は以前、軽い交通事故を起こしてからほとんど運転しなくなっていた。勤務先のダンススクールも自宅から歩いて十分ほどで、普段は車を使わない。
傷について尋ねると、静香は従妹に貸したのだと言った。
お盆前で新幹線の指定席が取れず、実家へ帰る手段に困っていた。俺は出張中で、静香自身も帰省する予定がなかったから車だけ貸した、と。
従妹が駐車を失敗し、コンクリートの壁へ擦った。
そう聞かされていた。
ところが、傷はリアバンパーの右側へ押し込まれるようについていた。
横から壁に擦った跡とは少し違った。
当時も気にはなったが、親戚の若い子が失敗を隠したくて話を誤魔化したのだろうと思った。塗装が少し剥がれただけだったこともあり、俺はそれ以上追及しなかった。
グラスを握る指に力が入った。
黒田はまだ話していた。
「連絡先交換したからって、最初から簡単に会ってくれたわけじゃないぞ。一か月以上かかった」
さっきまで黒田を馬鹿にしていた男が、今度は身を乗り出す。
「そんな警戒してる女、どうやって落とした?」
「話聞いてやるんだよ。旦那の愚痴とか」
「旦那いるのかよ」
「いるよ」
黒田は何でもないことのように答えた。
「しょっちゅう出張で家にいないんだと」
そう言って、俺のほうにも一瞬視線を向けた。
俺は何も言わず、ビールを口へ運んだ。
2
黒田の話を聞きながら、頭の中では別の記憶が次々に浮かんでいた。
俺と静香が知り合ったのは大学二年の時だった。
付き合い始めてから十年。
卒業後、俺はIT企業へ入り、静香はダンススクールで働き始めた。その後結婚し、凪ヶ丘のマンションで暮らしてきた。
昇進するにつれて俺の出張は増えた。
蒼峰市、大阪、福岡。案件によっては一週間近く家を空けることもあった。
二人でゆっくり食事をしたり、休日に出かけたりする回数は減っていた。
それでも、家に帰れば静香がいた。
大きな喧嘩をした記憶もほとんどない。
友人からは、よく「相沢夫婦は安定してる」と言われた。
半年前、母が腰を痛めて入院した時もそうだった。
俺は蒼峰市への出張中で、その日のうちには戻れなかった。
静香はレッスンの予定を調整し、毎日のように病院へ通った。着替えや日用品を届け、洗濯物を持ち帰り、母が食欲をなくした日は好物まで買ってきた。
母が退院後に必要になる手続きについても、病院の相談員と話をしてくれていた。
俺がようやく病室へ着いた日、母は静香の手を握ったまま離さなかった。
「静香ちゃん、本当にありがとうね。娘がいたらこんな感じだったのかねえ」
俺を見るなり、指までさしてきた。
「航平、あんたこの子を泣かせたら私が許さないよ」
静香は困ったように笑った。
「お母さん、そんなに脅かさないでください。航平はちゃんとしてますから」
「本当かね」
「大丈夫です。私が一番知ってます」
母が笑い、俺もベッドの足元で笑った。
そんな場面を、俺はまだ鮮明に覚えていた。
だから、黒田のスマートフォンに写っていた女を見ても、まだどこかで別の可能性を探していた。
静香には顔のよく似た従妹がいる。
血縁が近く、初めて会った人なら姉妹と間違えるほどだった。
写真の角度で似て見えただけではないか。
眉の傷だと思ったものも、フィルターや影ではないか。
俺は残っていたビールを一気に飲んだ。
もう一度写真を見せてもらおうかと思った時、黒田が立ち上がった。
「そういや、あの女、ダンスの先生なんだよ」
グラスを置く音が何個も重なった。
「ダンス?」
「ああ。身体も柔らかいし」
黒田がにやつく。
「普通の女じゃ無理そうなことでも平気なんだよ」
露骨な言い方に、誰かが口笛を吹いた。
「おいおい、ダンスの先生かよ」
「黒田、お前前世で何したんだ?」
「ずるすぎるだろ」
俺は空になったグラスを見た。
妻もダンス講師だった。
車の事故。
夫は出張が多い。
仕事はダンス。
一つずつ重なるたびに、胃の奥が重くなった。
森田が煙草から戻ってきたところで、誰かが椅子を叩いた。
「黒田、その女、今度連れてこいよ」
「写真だけじゃ信用できねえ」
「本当にそんな女なら、もう釣りやめてもいいわ」
「竿とかリール買う金、黒田に授業料で払ったほうがいいだろ」
黒田は笑いながらスマートフォンを操作し、送金アプリのQRコードを表示した。
「じゃあ、まず誠意見せろよ」
「金取るのかよ」
「最近、家じゃ嫁に金の流れまで見られてるんだ。ホテル代も自由にならねえ」
森田が呆れた顔をした。
「自分も嫁いるくせに何やってんだ」
「見たいのか、見たくないのか」
黒田がQRコードを森田の前へ出す。
数秒の沈黙のあと、通知音が鳴った。
一人。
もう一人。
スマートフォンを取り出す男が増えていった。
「二千円送ったぞ」
「俺も」
「見せるだけでこれって、黒田ぼろ儲けじゃん」
さっきまで怒っていた森田まで人の間へ入ってきた。
「俺はお前が本当にそこまでできるのか確認するだけだからな」
ぶつぶつ言いながら送金した。
黒田は増えていく数字を眺め、満足そうに頷いた。
「ちょうどいい。明日の午後二時、夜凪坂のホテル・ノクティアで会う約束になってる」
男たちが一斉に顔を上げた。
「明日?」
「ホテルまで来るのか?」
「ああ」
黒田は声を落とした。
「お前らは先にロビーに来い。固まって座るなよ。知らない客みたいにしてろ」
「それで?」
「俺が上へ連れていったら、別のLINEグループ作って連絡する」
森田が眉をひそめた。
「連絡って何を」
黒田はテーブルにあったナッツを一つ口に入れた。
「飲み物にちょっと入れとくんだよ」
高木の顔から笑いが消えた。
「何を?」
「寝るようなもんじゃねえよ。少しぼんやりするだけ」
黒田はグラスを指先で揺らした。
「反応が鈍くなったら、あとはお前ら次第だろ」
最後まで言わず、指でテーブルを一周するように回した。
数人が顔を見合わせた。
黙って視線を逸らした者もいた。
逆に、酒で顔を赤くした男は身を乗り出した。
「それ、俺らも行っていいってこと?」
「金出したやつはな」
別の男が黒田の肩を叩く。
「さすがだわ」
「黒田についてきて正解だったな」
「じゃあ、俺もう少し送る」
高木が眉を寄せた。
「おい、それは洒落にならないだろ」
黒田は片手を振った。
「大げさなんだよ。死ぬような薬じゃねえって」
「そういう問題じゃないだろ」
「嫌なら来なきゃいい」
高木は口を閉じた。
俺はテーブルの下でスマートフォンを握っていた。
録音はすでに始めていた。
3
高木が少しして俺の隣へ戻ってきた。
肩を軽くぶつける。
「航平、お前は送らないの?」
顔を上げると、高木は黒田たちのほうへ目をやった。
「家、凪ヶ丘だろ。夜凪坂なんてすぐじゃん」
喉が乾いていた。
「明日の午後、蒼峰市へ出張なんだ。展示会がある」
「ああ、言ってたな」
ちょうど最後の入金を確認した黒田が、スマートフォンをポケットへしまいながら近づいてきた。
「何だ、相沢来ないの?」
「仕事」
「残念だったな」
肩を叩かれる。
「まあ、また機会はあるだろ」
黒田は顔を近づけ、笑った。
「でも、お前みたいに年中出張してると、そのうち家を空けすぎて痛い目見るぞ」
周囲から笑い声が上がった。
「相沢んちは仲良し夫婦だろ」
「そうそう。黒田の家と一緒にすんな」
「奥さんに頭上がらない黒田が言っても説得力ねえよ」
黒田は笑いながら店員を呼んだ。
「好きなもん追加して。今日は俺が出す」
「急に羽振りよくなったな」
「お前らから集めた金じゃねえからな」
「怪しいな」
追加の酒と料理が注文され、二巡目が始まりそうだった。
俺はもうそこに座っていられなかった。
「悪い、明日早いから帰る」
高木が顔を上げた。
「もう?」
「ああ」
黒田が手を振る。
「仕事人間は大変だな」
それ以上聞かず、店を出た。
外へ出ると雨が降り始めていた。
駅前のコンビニまで走り、軒下でスマートフォンを取り出した。録音を確認し、そのまま警察相談専用電話へかけた。
「明日の午後、女性の飲み物に薬を入れると話している人がいます。ホテルの名前と時間も聞きました。会話は録音しています」
相手の名前、ホテル、予定時刻を一つずつ聞かれた。
わかる範囲で答えた。
「録音は消さずに残してください。実際にその場へ行ったとしても、ご自身で止めに入らないでください」
「はい」
「危険が迫っていると確認できたら110番してください」
通話を終えた。
雨脚はまだ弱まっていなかった。
タクシーを降りてマンションまで走った頃には、ジャケットの肩がすっかり濡れていた。
玄関を開けた静香は、俺を見るなり眉を寄せた。
「何でそんなに濡れてるの?」
すぐに上着へ手をかける。
「雨なら連絡してくれればよかったのに。今日は夜のレッスンもないんだから、迎えに行けたよ」
濡れたジャケットを受け取り、浴室から乾いたタオルを持ってきた。
「何回言ったら折り畳み傘を鞄に入れるの」
俺の髪を拭きながら、少し呆れたように笑う。
「先にお風呂入って。風邪ひくよ。生姜とはちみつで温かいの作るから」
言いながらキッチンへ向かった。
俺は玄関に立ったまま、その背中を見た。
冷蔵庫から生姜を取り出し、包丁で切る。
まな板に当たる音が一定の間隔で響いた。
出張の前には、俺が忘れ物をしないよう荷物を確認してくれた。
帰りが遅くなる日は玄関の明かりを残した。
飲みすぎた夜にはベッドの横へ水を置いた。
十年の間に、そんな小さな習慣がいくつも積み重なっていた。
黒田の声が頭から離れなかった。
シャワーを浴びながら目を閉じた。
夫は出張ばかり。
ダンスの先生。
明日の午後二時。
風呂から出ると、テーブルに生姜とはちみつの飲み物が置かれていた。
寝室では、静香が開いたスーツケースの前に座っていた。
俺のシャツを畳んでいる。
その背中へ近づき、後ろから抱きしめた。
静香は少し驚いたあと、笑いながら振り返った。
「どうしたの? 今日はやけに甘えるね」
「静香」
「まだ荷造り途中なんだけど」
髪から、いつものシャンプーの匂いがした。
腕は離さなかった。
「行きたくなくなってきた」
「何それ。数日で帰ってくるでしょ」
「一緒に来ない?」
静香がこちらを見た。
「急にどうしたの?」
「展示会終わったら二日くらい残ろう。最近、二人でどこにも行ってないだろ」
静香は俺の胸へ手を置き、少しだけ身体を離した。
「明日は無理だよ。レッスン入ってるから」
「休めない?」
「急には無理」
「他の先生に代わってもらえばいいだろ」
静香は畳んだシャツをスーツケースへ入れた。
「私が担当だから申し込んでくれてる子もいるの。いきなり先生変えたら、保護者にも悪いでしょ」
「一日くらい」
「今度にしよ」
静香は笑った。
「航平の仕事が少し落ち着いたら、私も先にレッスン調整しておくから。ちゃんと旅行しよ」
俺は数秒黙った。
「じゃあ、明日空港まで送って」
静香が顔を上げた。
「今日、どれだけ飲んだの?」
指で俺の鼻先を軽く押す。
「子どもみたい」
「午後からレッスンなら、送ってからでも間に合うだろ」
「私が空港まで行ったら、一人で帰ってこなきゃいけないじゃん」
「タクシーで帰ればいい」
「やだ。寂しい」
静香は目を細めて笑った。
「行きは自分で行って。帰ってくる日は、雨でも風でも迎えに行くから。それでいいでしょ?」
笑顔には、見慣れた柔らかさがあった。
「明日の午後、本当にずっとレッスン?」
畳んでいた服に触れた指が、一瞬止まった。
「うん。夕方まで入ってるよ」
すぐに手を動かす。
「ほら、温かいうちに飲んで」
それ以上は聞かなかった。
夜中になっても眠れなかった。
隣では静香が規則的な寝息を立てていた。
俺は音を立てないようベッドを抜け、リビングで静香の従妹のInstagramを開いた。
彼女は食事から移動中の写真まで何でも載せるタイプだった。実家へ帰れば、駅や新幹線の車窓も必ず投稿する。
最近の帰省投稿は二週間前。
その前は三か月前だった。
二か月前には、帰省した形跡がなかった。
画面を何度か上下へ動かした。
見落としがないか確認した。
やはり何もなかった。
俺は会社のシステムを開き、翌日の休暇申請を送った。
4
翌朝、静香は普段と変わらず朝食を用意していた。
スーツケースも玄関に置かれ、配車アプリで呼んだタクシーまで予約されていた。
食事を終えると、静香はマンションの前まで見送りに出てきた。
車に乗る直前、俺を抱きしめた。
「向こう着いたら連絡してね」
「うん」
「空港着いた時も。飛行機降りた時も」
「わかった」
「忘れるんだから」
俺も腕を回した。
「静香」
「ん?」
顔を上げた彼女の目を見る。
「俺に嘘つくこと、ある?」
抱きしめていた身体が、ほんの一瞬だけ固くなった。
「何の話?」
その反応を見て、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
腕を少し緩める。
「帰ってくる日は迎えに来るって言っただろ」
静香の肩から力が抜けた。
「その話?」
俺の手の甲を軽く叩く。
「もちろん行くよ。そこは嘘つかない」
本当は聞きたかった。
ほかのことではどうなんだ、と。
その時、タクシーの運転手が降りてきて、スーツケースをトランクへ入れた。
俺たちを見て笑う。
「仲のいいご夫婦ですね」
言葉が喉の奥へ戻った。
静香と別れ、車へ乗った。
車が走り出しても、静香はマンションの入口から手を振っていた。
三十分ほどして空港近くで同僚と会った。
展示会へ持っていく予定だった資料と機材を渡す。
「本当に来られないんですか?」
「家のことで急用ができた」
「現地の説明、大丈夫ですかね」
「資料に全部入れてる。わからなければ電話して」
同僚は俺の顔を見たが、それ以上は聞かなかった。
「わかりました。任せてください」
別れたあと、近くのホテルのデイユースを取り、ジャケットを替えた。普段の眼鏡も外し、帽子とマスクを買った。
そのまま潮ヶ浦市へ戻った。
マンションの正面には立たず、道路を挟んだ向かいのカフェで待った。
家を出てから一時間ほど経った頃、静香が姿を現した。
ガラス越しに見た瞬間、目が止まった。
いつも結んでいる髪は下ろされ、ゆるく波打つように巻かれていた。
目尻は普段より長く引かれ、唇には鮮やかな赤い口紅が塗られている。
胸元が大きく開いたVネックのトップスに、太腿のかなり上まで見える短いスカート。脚には薄手の黒いストッキングを合わせていた。
レッスンへ行く時の格好ではなかった。
部屋着姿も知っている。
汗だくのレッスンウェア姿も。
母の病院へ通っていた時、髪をまとめてパーカーを羽織っていた姿も見てきた。
目の前の静香は、そのどれとも違った。
路肩で配車した車へ乗り込む。
俺は会計を済ませ、外へ出た。
ちょうど空車のタクシーが停まった。
「前の車と同じ方向へお願いします。少し距離を空けて」
運転手がバックミラー越しに俺を見た。
「知り合いですか?」
「はい」
信号で停まった時、運転手は前の車をもう一度見た。
「あの女性ですか?」
「そうです」
「ずいぶん綺麗な人ですね」
俺は返事をしなかった。
運転手は少し気まずそうに笑ったが、もう一度前へ目をやった。
「いや、目立つからつい。ああいう人と付き合える男は羨ましいですよ」
俺は前方の車から目を離さなかった。
「羨ましいですか?」
「え?」
「あれ、妻です」
運転手の表情が止まった。
俺は続けた。
「これから別の男に会いに行くみたいで」
車内が一瞬で静かになった。
「あ……」
運転手はすぐに前を向いた。
「すみません。余計なこと言いました」
「大丈夫です」
「本当にすみません」
「見失わないようにだけお願いします」
「わかりました」
それからは口を開かなかった。
前方の車はダンススクールとは逆方向へ進んだ。
交差点を越え、夜凪坂へ入る。
ホテル・ノクティアの看板が見えてきた。
静香の車がホテル前に停まる。
傘を持った黒田がすでに待っていた。
静香が車を降りると、黒田は笑いながら近づき、傘をそちらへ傾けた。
そのまま肩へ腕を回す。
静香は振り払わなかった。
二人でホテルへ入っていった。
ガラス扉の向こうには、昨日の钓り仲間たちがいた。
スマートフォンを見ているふりをしていた男も、ゲーム画面を触っていた男も、静香と黒田が通り過ぎると一斉に顔を上げた。
視線が静香の背中を追う。
二人がエレベーターホールへ消えると、何人かが顔を寄せて笑った。
俺はタクシーを降り、ホテルへ入る前に110番した。
「昨夜、薬を使う計画について警察に相談した相沢航平です。黒田敦也と女性が、今ホテル・ノクティア夜凪坂に入りました」
昨夜の相談内容を確認された。
「ほかの関係者は見えますか?」
ガラス越しにロビーを見る。
「五、六人います。昨日一緒にいた人たちです」
「わかりました。警察官が向かいます。ご自身で相手を止めたり、上階へ行ったりしないでください」
「はい」
通話を切った。
静香と黒田はすでに上へ行っている。
ロビーの男たちを確認するため、入口近くまで歩いた。
5
森田が最初に俺へ気づいた。
サングラスを少しずらす。
「相沢?」
俺の帽子と服装を上から下まで見る。
「お前、出張じゃなかったのかよ」
隣にいた男も振り返った。
「あれ? 昨日は来ないって言ってたよな」
別の男が笑う。
「金も出してないのに、今さら参加?」
森田がソファへ身体を戻し、口元を歪めた。
「みんな男だって。昨日は真面目ぶってたくせに、結局気になって来たんじゃねえか」
「残念だったな」
男の一人がエレベーターの方向を顎で示した。
「黒田ならもう上に連れてったぞ」
「お前、来るの遅えよ」
「さっき見たけど、写真より全然いい女だったわ」
森田が笑う。
「黒田も意外とやるよな」
別の男が身を乗り出す。
「まあ、俺らもケチじゃないから。順番回ってきたら相沢は最後な」
「金出してないんだから、それくらい我慢しろよ」
「その代わり、終わったら飯おごれ」
笑い声が重なった。
俺も口元だけ笑った。
「“魚”はお前らに譲るよ」
森田が眉を上げた。
「じゃあ何しに来たんだよ」
「飯はちゃんとおごろうと思って」
「お、話わかるじゃん」
「全員分」
「当然だろ」
スマートフォンを取り出した。
「場所も決めてある」
森田が真っ先に近づいてきた。
「どこ?」
「近いところ」
画面を見えるように向ける。
昨日警察へ相談した履歴と、今終えた110番通報。
森田の笑顔が止まった。
すぐ隣まで来ていた男も画面を覗き込み、眉をひそめる。
「……何だこれ」
森田が一歩後ろへ下がった。
「相沢、お前何した?」
「昨日の話、全部録音した」
誰かが立ち上がった。
「は?」
「薬入れる話も、送金も、ホテルの時間も」
森田の声が急に大きくなった。
「お前、警察に言ったのか?」
周囲の男たちが一斉にこちらを見た。
「何で?」
「何で警察?」
「相沢、お前ふざけんなよ」
さっきまでの笑いが消えた。
スマートフォンをポケットへ戻す。
「詳しい話は警察にしてくれ」
その直後、ホテル前に警察車両が停まった。
一人の男が入口へ顔を向ける。
別の男が鞄を掴んだ。
「帰るわ」
「待てよ」
「俺、別に何もしてねえから」
男は横の通路へ向かおうとした。
別の一人も立ち上がり、反対側の出口を確認している。
森田はその場に立ったまま、何度も入口と俺を見比べた。
「相沢、お前本気かよ」
制服姿の警察官が数人入ってきた。
「皆さん、少しお話を確認させてください」
横の通路へ向かっていた男が歩調を速めた。
「すみません、そちらの方。少し待ってください」
「俺、関係ないです」
「関係の有無を確認します。今はその場にいてください」
ホテルの宿泊客やフロント周辺にいた人たちも、何事かとこちらを見始めた。
森田が警察官へ食ってかかった。
「俺たち、まだ何もしてませんけど」
「薬物を使った性犯罪の計画について通報を受けています。まずお名前と事情を確認します」
「性犯罪って……」
森田の声が小さくなった。
高木はソファの端に座ったまま、両手を組んで下を向いていた。
現場を担当していた女性警察官が俺の前へ来た。
「通報された相沢航平さんですね」
「はい」
「昨夜ご相談いただいた件ですね」
「そうです」
「上に行った男性と女性のお名前は?」
「黒田敦也。女性は相沢静香です」
警察官がペンを止めた。
「相沢さんと同じ姓ですね」
「妻です」
周囲の男たちは少し離れて事情を聞かれており、こちらの会話までは届いていなかった。
女性警察官は表情を変えず、続けた。
「何分くらい前に上がりましたか?」
「十分くらいです」
「録音を確認できますか?」
「はい」
スマートフォンを開いた。
昨夜の個室の音声を再生する。
黒田が薬を入れると話した声。
ホテルの時間。
その後にほかの男たちを呼ぶと言った部分。
周囲が面白がって煽る声。
送金の通知音。
高木が「洒落にならない」と言った声まで残っていた。
森田たちにも音が聞こえた。
森田が顔をこちらへ向け、唇を結ぶ。
さっき横の通路へ行こうとした男は、今度は完全に動きを止めていた。
「元のデータは残っていますか?」
「店にいた間は、ほぼ全部録っています」
「わかりました」
警察官は録音時刻を確認し、必要なデータについて説明を受けながら別の警察官へ引き継いだ。
フロントスタッフも呼ばれた。
「黒田敦也さんという方が、先ほど女性と上がられたと思います。部屋番号を確認できますか」
若い女性スタッフがモニターを確認する。
「八階の807号室です」
「ホテル側の責任者の方にも来ていただけますか」
「はい」
女性スタッフは何度も頷いた。
上階へ向かう警察官たちがエレベーターへ集まった。
俺も一歩前へ出た。
「妻が中にいます」
女性警察官がこちらを見る。
「まずこちらで安全を確認します。相沢さんはここで待っていてください」
「でも」
「薬物がある可能性があります。中の状況もわかりません」
足を止めた。
警察官たちがエレベーターへ乗る。
扉が閉じた。
さっきまで俺をからかっていた男たちの声は、もう聞こえなかった。
6
待っている間も、ロビーの空気は落ち着かなかった。
一人は警察官に向かって何度も同じことを言っていた。
「俺は金送っただけなんです。本当に行くつもりじゃなくて」
別の男が横から口を挟む。
「俺なんか送ってませんよ。LINEもまだ入ってないです」
「順番に聞きますので、少し待ってください」
森田はソファの端へ座り直し、額の汗を何度も拭っていた。
俺と目が合う。
「相沢」
返事はしなかった。
「何でここまでやるんだよ」
高木が森田を見た。
「もうやめろよ」
「何がだよ」
「薬の話まで出てたんだぞ」
森田が苛立った顔を向ける。
「酒の席だろ。みんな調子乗ってただけじゃねえか」
「黒田はホテルまで取ってる」
「だからって」
「送金までしてるだろ」
森田の口が止まった。
高木は膝の上で握っていた手を緩める。
「俺も止めなかった。そこは同じだよ」
森田は視線を逸らした。
しばらくして、上階から連絡が入った。
室内の安全が確保されたという。
女性警察官が俺のところへ戻ってきた。
「奥様の身元確認をお願いします。ただし、廊下から確認してください」
俺は頷いた。
エレベーターへ乗った。
数字が一階ずつ上がる。
大学時代の静香。
結婚式の日。
母の病室。
昨夜、玄関で俺の髪を拭いてくれた手。
今朝、マンションの前で抱きしめてきた姿。
数字が八になり、扉が開いた。
807号室の扉は開いていた。
警察官が数人、室内にいる。
俺は廊下の指定された位置で足を止めた。
そこからでも部屋の中は見えた。
ベッドは大きく乱れていた。
床にはシャツやスカートが落ちている。
黒田は上半身にシャツを羽織っただけで、ボタンもまともに留めていなかった。静香はホテルのバスローブを身体へ巻きつけ、ベッド脇に座っていた。
警察官が入った直後だったらしく、ベッドの上には引き寄せられたシーツが丸まっていた。
静香の髪は乱れ、朝にはきれいだった化粧も崩れている。
顔を上げた静香と目が合った。
目が大きく開いた。
「航平……?」
声が掠れた。
黒田もこちらを見た。
「相沢?」
顔から色が引く。
「何でお前がここにいるんだよ」
俺は答えなかった。
警察官が二人の間へ視線を戻す。
「黒田敦也さん、相沢静香さん。まずお二人の関係を確認します」
黒田がすぐに口を開いた。
「知り合いです」
「どういうご関係ですか」
「……付き合ってます」
静香の指がバスローブの端を強く握った。
「相沢静香さんも、交際していたという認識で間違いありませんか?」
静香は俺を一度見た。
目を伏せる。
数秒して、小さく頷いた。
「……はい」
「お二人とも現在、配偶者がいるということでよろしいですね」
黒田の口が止まった。
さっきまで俺へ向けていた視線が横へ逸れる。
静香も何も言わなかった。
警察官がもう一度確認する。
「黒田さん?」
「……います」
「相沢静香さんは?」
静香は唇を噛んだ。
「います」
俺は廊下に立ったまま、その答えを聞いていた。
ベッド脇のテーブルには、半分ほど残った透明な飲み物が置かれていた。
近くには、小さな薬の包装もあった。
女性警察官が手袋をつける。
「この飲み物を用意したのは誰ですか?」
黒田の喉が動いた。
「俺ですけど」
「中身は?」
「水ですよ」
「ほかに何か入れましたか?」
「入れてないです」
静香が黒田を見る。
「何の話?」
警察官はテーブルの薬へ目を向けた。
「飲み物へ薬物を入れる計画があるという通報を受けています。この飲料と、室内で確認した薬については検査します」
静香の表情が止まった。
「薬?」
黒田は静香を見なかった。
女性警察官が静香へ尋ねる。
「相沢静香さん、この飲み物は口にしましたか?」
「少しだけ」
「どのくらいですか」
「二、三口くらい……」
静香はグラスへ目を向けた。
「変な味がしたから、飲むのやめました」
「気分が悪い、眠い、身体が動かしにくいといった症状はありますか?」
「少しぼんやりする感じはあります。でも……」
「念のため医療機関で検査を受けてもらいます」
静香はまた黒田を見た。
「敦也」
黒田は動かなかった。
「何を入れたの?」
「何も入れてないって」
「じゃあ、その薬何?」
「俺のじゃない」
「さっき水用意したの自分って言ったよね」
黒田の顔が強張った。
「静香、今ここで――」
「今はお二人で話し合わないでください」
警察官が間へ入った。
「それぞれ別にお話を伺います。まず着替えてください」
静香は俺へ顔を向けた。
目の縁が赤くなっている。
「航平、待って」
俺は動かなかった。
「私――」
「今は警察の話を聞いて」
静香の唇が閉じた。
俺は視線を外した。
ホテルの廊下は冷房が効きすぎていた。
それでも、手のひらには汗が滲んでいた。
7
その日の事情聴取は長くなった。
俺は通報者として別室へ通され、昨夜の居酒屋からホテルまで、自分が見聞きしたことを順番に説明した。
黒田が写真を見せた時刻。
ホテルの名前を口にした頃。
送金した人間。
薬について話し始めた部分。
高木が止めようとしたこと。
ほかの男たちが何を言ったか。
警察官は録音を何度も止めながら確認した。
「この時点で、黒田さんが薬を使うつもりだと認識したんですね」
「はい」
「その場では本人を止めなかった?」
「証拠を残したほうがいいと思いました」
「写真の女性が奥様だということは?」
手を膝の上で組んだ。
「あの時点では、まだ自分の目を疑ってました」
「でも通報した」
「薬を入れる話は別です」
警察官は短く頷いた。
二か月前の車の傷。
静香が従妹へ貸したと説明したこと。
従妹のInstagramには、その時期の帰省記録がなかったこと。
翌日の予定について静香が嘘をついていたこと。
必要な範囲で全部話した。
聴取を終えた頃には外が暗くなっていた。
「今日はここまでです。追加で確認したいことがあれば連絡します」
立ち上がる前に一つだけ聞いた。
「妻は大丈夫ですか?」
「意識ははっきりしています。念のため医療機関で検査を受けてもらっています」
「わかりました」
それ以上は聞かなかった。
数日後、追加の確認で警察署へ呼ばれた。
待合スペースに座っていると、少し先の部屋から静香が出てきた。
目の下には濃い影ができていた。
頬も少し痩せたように見えた。
俺と目が合ったが、静香はすぐ視線を逸らした。
女性職員に呼ばれ、もう一度別室へ入っていく。
しばらくして、扉が開いた。
出てきた静香の顔は、入る前よりさらに白かった。
手には書類が握られている。
俺が声をかける前に、別の通路から黒田が警察官に付き添われて歩いてきた。
静香が顔を上げた。
「敦也!」
声に反応し、黒田が足を止めかけた。
職員が静香の前へ手を出す。
「ここから話してください」
静香は数メートル離れたまま黒田を見た。
「薬が出たって言われた」
黒田は顔を向けなかった。
「私からも、ホテルの水からも」
手に持っていた紙が震える。
「どういうこと?」
黒田は黙っていた。
「二人で会うだけって言ったよね」
声が少しずつ大きくなる。
「ホテルのロビーにいた人たちは何? あんたが呼んだの?」
黒田の顎が強く固まった。
「何とか言ってよ」
静香が一歩前へ出ようとし、職員に止められた。
「私があの水を飲んだあと、何するつもりだったの?」
「静香」
黒田がようやく口を開いた。
「違うんだ」
「何が違うの?」
「全部その通りにするつもりだったわけじゃ――」
「じゃあ何で薬入れたの?」
黒田の口が止まった。
静香の目が潤んだ。
「ロビーの人たち、私が部屋にいる間ずっと待ってたんでしょ」
黒田は何も答えない。
「二人で会うって言ったから行ったのに」
静香の声が掠れた。
「私を何だと思ってたの?」
手から力が抜け、持っていた紙が少し垂れた。
近くの椅子へ手を伸ばす。
呼吸が乱れた。
俺は数メートル離れた場所に立っていた。
静香の身体が傾いた瞬間、足が半歩だけ前へ出た。
そのまま止まった。
女性職員が静香の身体を支え、椅子へ座らせた。
黒田は警察官に促され、その場から連れていかれた。
後になって俺が知らされた範囲では、黒田のLINEや送金記録も調べられていた。
ホテルへ入る前、待機していた男たちへ「上に連れていった」と送ったこと。
薬が効いたら部屋番号を知らせるつもりだったこと。
何人かが「いつ行けばいい」「どれくらいで効く」といった内容を送っていたこと。
録音だけではなかった。
男たち自身が残した記録も、次々に確認されていった。
8
追加の事情聴取で警察署へ行った日、森田たちも呼ばれていた。
待合スペースから少し離れた場所で、一人ずつ別の職員と話している。
最初は「冗談だった」と言っていた男も、ほかの人間の説明やメッセージの記録について確認されると、少しずつ話が変わっていった。
「金は送りました。でも、部屋に入るつもりまではなかったです」
別の男は言った。
「俺は黒田に言われてホテルに行っただけです」
森田がそれを聞いて顔を上げる。
「お前、昨日は行く気満々だっただろ」
「森田さんだって送金したじゃないですか」
「俺は本当にやると思ってなかった」
「じゃあ何でホテル来たんですか」
「お前に言われたくねえよ」
職員が二人の間に入る。
「ここで言い合わないでください。それぞれのお話を聞きます」
高木は離れた椅子に座っていた。
俺と目が合うと立ち上がった。
「航平」
少し近づいてくる。
「昨日のこと……」
言葉を探すように口を止めた。
「薬の話出た時、止めればよかった」
俺は返事をしなかった。
高木は視線を落とした。
「冗談だと思いたかったんだと思う」
その時、廊下の向こうから黒田が警察官に付き添われて歩いてきた。
俺を見つけると、足を止めた。
「相沢!」
警察官が前へ出る。
「そのまま進んでください」
黒田は身体をひねった。
「お前、何で俺にここまでやるんだよ!」
廊下に声が響いた。
「俺がお前に何したっていうんだ!」
俺はその場に立ったまま見ていた。
黒田は一歩こちらへ出ようとし、警察官に腕を止められた。
「接触しないでください」
「こいつが余計なことしなきゃ、こんなことになってねえだろ!」
森田たちもこちらを見ていた。
さっきまで言い合っていた男が、今度は黙ったまま俺を見る。
別の男は唇を噛んで視線を逸らした。
黒田がまだ声を上げる。
「告げ口して何が楽しいんだよ!」
警察官が身体の向きを戻した。
「移動してください」
「相沢!」
俺は答えなかった。
黒田がさらに何か言おうとした時、背後から声がした。
「航平!」
廊下の空気が止まった。
静香が別室から出てきていた。
森田が静香を見る。
それから俺を見る。
隣にいた男も同じように視線を往復させた。
黒田の顔から怒りが抜けた。
静香は職員へ向き直る。
「すみません。夫と少しだけ話せますか」
森田の口がわずかに開いた。
「夫……?」
すぐ隣の男が小さく呟く。
「相沢が?」
高木は目を閉じるように俯いた。
黒田がこちらを見る。
さっきまで叫んでいた口が閉じた。
俺は静香から少し距離を取ったまま立った。
「ここでいいなら」
静香の目は赤かった。
「航平、待って」
俺は何も言わなかった。
「敦也と会ってたことは……ごめん」
声が震える。
「何を言っても言い訳になるのは分かってる」
一度息を吸った。
「でも、今ここで全部決めないで」
俺はスマートフォンを取り出した。
静香の視線が画面へ落ちる。
「少しだけ話す時間をちょうだい。十年一緒にいたんだから」
弁護士から届いていた離婚条件の草案を開いた。
画面を静香へ向ける。
「もう弁護士に相談した」
静香の視線が「離婚協議書案」の文字で止まった。
「……もう、そこまで?」
「離婚する」
静香の目に涙が溜まった。
「待って」
スマートフォンを持つ俺の手へ視線を落とす。
「一度もちゃんと話さないまま終わらせるの?」
「ホテルで十分見た」
「航平」
「俺が警察に連絡したのは、黒田たちが薬を使おうとしてたからだ」
静香が黙る。
「ホテルにいたのが静香じゃなくても、同じことをした」
静香の頬を涙が流れた。
「……うん」
「それでも、離婚の話は変わらない」
静香は目を閉じた。
森田たちは少し離れた場所から、こちらを見ていた。
さっきまで俺を責めるような視線を向けていた男も、何も言わなかった。
黒田は警察官に促され、通路の先へ連れていかれた。
9
離婚の話は、警察署では進めなかった。
数日後、双方の弁護士を交えて正式に話し合った。
静香は俺より先に事務所へ来ていた。
テーブルの上には、修正された離婚協議書が置かれていた。
俺が席へ着くと、静香は膝の上で手を組んだ。
弁護士が住宅の評価額、住宅ローンの残高、双方名義の預貯金、投資信託などを一つずつ確認した。
「凪ヶ丘のマンションは、静香さんが住み続ける形でよろしいですね」
「はい」
俺が答える。
静香が顔を上げた。
「本当にいいの?」
「その話は弁護士に伝えてある」
弁護士が書類をめくる。
「住宅を含めた財産全体を精算した上で、航平さんが取得する金融資産はおよそ一千五百万円相当になります」
静香は何も言わなかった。
「それから、不貞行為に関する慰謝料についてですが」
弁護士が俺を見る。
「請求しません」
静香がこちらを見た。
「航平」
「その内容でお願いします」
弁護士が頷いた。
必要な説明が終わり、署名欄の前へペンが置かれた。
静香はすぐには取らなかった。
「航平」
「何?」
「これにサインしたら、もう会わない?」
「必要がなければ」
静香の指先が膝の上で動いた。
「十年だよ」
俺は黙っていた。
「大学の時からずっと一緒だった」
少し声を落とす。
「一回のことで全部終わるの?」
「一回かどうかは、もう関係ない」
「私が悪かった」
「うん」
「敦也に会ったことも、嘘ついたことも」
静香は目元を拭った。
「でも、もう一度だけ考えてくれない?」
俺は首を横に振った。
「考えた」
「いつ?」
「ホテルから帰った日からずっと」
静香は俺を見たまま動かなかった。
「お母さんには……?」
「俺から話す」
「きっと、すごくがっかりするよね」
返事はしなかった。
静香はしばらく署名欄を見ていた。
ペンを持ち上げる。
先端が紙の上で止まった。
何度か指を動かしたあと、相沢静香と書いた。
「航平、ごめんなさい」
俺は署名を見た。
「うん」
書類は弁護士が預かった。
離婚届を含むその後の手続きも、双方の弁護士を通して進めた。
手続きが終わった日は、仕事中に弁護士から短い連絡が届いた。
会議室の前で読み、画面を閉じた。
静香には何も送らなかった。
刑事事件の捜査はその後も続いた。
ロビーにいた男たちは、それぞれ実際に何をしたのか確認された。
黒田へ金を送った者。
ホテルへ来ただけの者。
LINEで薬が効く時間を尋ねた者。
実行の準備に具体的に関わっていた者。
同じ扱いにはならなかった。
高木から一度、長いメッセージが届いた。
『あの時、薬の話が出たところで止めるべきだった。おかしいと思ってたのに、周りに合わせて黙った。もし航平が録音してなかったら、どうなってたか何度も考えた』
そのあとにも長い文章が続いていた。
最後まで読んだ。
返信はしなかった。
森田からも電話が来た。
画面に名前が表示されたまま、数回鳴った。
そのまま切れた。
かけ直さなかった。
黒田については、ホテルで使用する薬を準備し、静香を呼び出し、ほかの参加者へ連絡を取っていたことなどが捜査された。
事件は起訴され、黒田には実刑判決が下った。
判決が出たあと、黒田の妻も離婚手続きを始めたと聞いた。
以前は毎週のように釣果の写真が流れていたグループLINEも、次第に動かなくなった。
一人抜けた。
数日後にもう一人抜けた。
その後、グループ自体が消えた。
静香からも時々メッセージが届いた。
最初は謝罪ばかりだった。
『ごめんなさい』
『本当にごめんなさい』
数日すると、母の体調について聞いてくるようになった。
『お母さん、腰はもう大丈夫?』
『私から連絡しないほうがいいよね』
返事はしなかった。
黒田の判決が出たあと、最後に短いメッセージが届いた。
『許してもらえるとは思ってない。あの日、警察に連絡してくれたことだけは、ありがとう』
画面をしばらく見た。
返信もしなかった。
ブロックもしなかった。
そのままスマートフォンを伏せた。
離婚してからも、一か月ほど会社には通った。
ある夜、十一時近くまで残業した。
翌月の予定表を開く。
蒼峰市、大阪、福岡と、ほぼ毎週のように出張予定が並んでいた。
以前なら、その隙間へ静香との予定を入れようとした。
誕生日。
結婚記念日。
たまに取れる連休。
予定表を数分眺めたあと、画面を閉じた。
退職願のフォームを開いた。
翌日、上司へ提出した。
呼び出され、長い面談になった。
「家庭のことが理由か?」
「少し休みたいんです」
「部署を変える方法もあるぞ」
「ありがとうございます。でも、いったん離れたいです」
上司はしばらく俺の顔を見た。
「わかった」
それ以上は説明しなかった。
離婚後に受け取った資産を整理した。
新しく家を買う気にはならなかった。
潮ヶ浦市にも残らなかった。
必要な荷物だけをまとめ、南にある凪瀬町という小さな海辺の町へ移った。
借りた部屋から防波堤までは歩いて十五分ほどだった。
朝は海鳥の声で目が覚めた。
夕方になると観光客が減り、堤防には地元の釣り人が数人残るだけだった。
新しい釣り仲間を作ろうとはしなかった。
隣に座った人から餌について聞かれれば答えた。
「今日は何で釣ってます?」
「エビです」
「朝、アジ出てましたよ」
「そうですか」
そんな話を少しする。
会話が終われば、互いに自分の浮きへ目を戻した。
誰かの家庭の話を酒の肴にすることもなかった。
自慢話を競う必要もなかった。
何時間座っても、一匹も釣れない日があった。
以前なら、森田たちから「またボウズか」と笑われただろう。
今は釣れなくても、そのまま海を見ていた。
時々、静香のことを思い出した。
酔っ払いが振り上げた椅子の前へ出た背中。
病室で母と笑っていた横顔。
俺の濡れた髪をタオルで拭いていた手。
そして、ホテル・ノクティア八階の開いた扉。
どれか一つだけが十年の全部になるわけではなかった。
その日も、しばらく浮きを眺めていた。
波が消波ブロックへ当たり、水面がゆっくり揺れていた。
ふいに浮きが沈んだ。
竿を握り、腕を上げる。
糸がぴんと張った。
(完)




