私を信じないで
『あなたのそばにいると、自分が壊れていく気がする』
誰もがそう言って彼女のもとから去っていく。
彼女は、自分が普通でないことを自覚していた。
人が泣いていても、自分は悲しいと思わない。
誰かが苦しんでいても、胸は痛まない。
ただ、
「この人は今、こういう言葉をかければ安心するだろう」
それは、わかる。
だから、その時々、必要な言葉を口にする。
「あなたは悪くないよ」
「そばにいるから」
相手が欲しがる言葉を、正確に。
そこに彼女の感情は入っていない。
本当の自分はうまく隠せていると、そう思っていた。
最初の恋人は、彼女と付き合い始めて半年で仕事を辞めた。
「君がいないと不安になる」
そう言って、彼女の帰宅時間を確認し、連絡が少し遅れただけで取り乱すようになった。
彼女は優しく抱きしめた。
「そんなに私のことが好きなんだね、ありがとう」
本当は、面倒な人だと思い、別れるきっかけを探しはじめていたが、口から出るのは、自分の心にはない、相手の求める言葉だった。
二人目の恋人は、彼女と別れたあと、友人たちにこう言った。
「彼女と付き合ってから、自分が自分じゃなくなっていった気がする」
三人目は、彼女の前では笑っていたが、別れてから精神的に不安定になった。
誰かを殴ったことはない。
怒鳴ったこともない。
脅したこともない。
むしろ、いつも優しかった。
だからこそ、彼女自身も不思議だった。
なぜ、自分に近づく人は、壊れていくのか。
彼女はある日、鏡の中の自分に問いかけた。
「私って、サイコパス?」
診断を受けたわけではない。
自分には、人が持っているはずの何かが欠けている、それは知っていた。
罪悪感。
共感。
愛情。
他人に近い感覚での、喜怒哀楽。
それらの感情を、理解はしている。
理解しているだけで、彼女自身にはその感情はない。
ないから彼女は、愛しているふりをする。
心配しているふりをする。
傷つけてしまったことを、後悔しているようなふりをする。
けれどその、ふりを、最初は素直に信じていても、長くいると、得体のしれないふとした何かを感じ取り、彼女の言葉と行動の、わずかなズレに気づき、相手は違和感を覚えていくのだろうと思った。
「君は、俺を裏切らないよね」
そう言われたときは、笑って答える。
「もちろん」
その瞬間、彼の顔に浮かんだ安堵を見て、彼女は思う。
――ああ。
この人も、もうすぐ壊れる。
最近、彼女には新しい恋人がいた。
彼は優しく、誠実で、少し繊細だった。
彼女のことを本気で好きになってくれていた。
「僕のこと好き?」
ある夜、彼が聞いた。
彼女は黙った。
いつもなら、すぐに答えられた。
「好きだよ」
それで済む。
けれど、その日は言えなかった。
彼の目を見ていると、急に怖くなった。
彼が壊れる未来が、あまりにも簡単に想像できてしまった。
彼女は、彼の弱点をよく知っている。
何を言えば喜ぶか。
何を言えば不安になるか。
どんな態度を取れば、彼が離れられなくなるか。
すべて分かっている。
そして、自分がそれを使わない保証はない。
「ねえ」
彼女は言った。
「私ね、あなたが思っているような人間じゃないかもしれないよ?」
彼は笑った。
「どういう意味?」
「私、人の気持ちがよく分からないんだよね」
「そんなことないよ」
「分からないの。分からないから、分かっているふりをしているだけなの」
彼の笑顔が消えた。
「何の冗談?」
「違うよ」
彼女は、初めて本当のことを言おうとしていた。
「私は、あなたが泣いていたとしても、悲しくない。あなたが苦しんでいても、胸が痛くもならない。あなたを失っても、たぶん、他の人みたいに悲しまないの」
彼は黙っていた。
彼女は続けた。
「私、サイコパスなんじゃないかと思う」
彼はしばらく彼女を見つめた。
そして、震える声で言った。
「……じゃあ、今まで俺に言ってた『好き』は?」
彼女は答えられなかった。
その沈黙で、十分だった。
翌日、彼は彼女の部屋から出ていった。
その後、彼女のスマートフォンには、彼から何度も長いメッセージが届いた。
「君といると、自分が壊れていく」
「もう誰も信じられない」
「君は、僕を本気で愛していた?」
彼女は画面を見つめた。
返事を打とうとして、指を止める。
――大丈夫だから。
――あなたは悪くないよ。
――そばにいるから。
いつもの言葉なら、すぐに打てる。
でも、もうそれを言ってはいけない気がした。
感情が欠落している自分には、誰かを救うことなどできないのだと理解した。
もしかすると…。
自分がそばにいることが、その人を壊していってしまうのかもしれない。
彼女は、返事を打たず、スマートフォンを伏せた。
そして、今日も誰かに彼女は優しく接する。
完璧な笑顔で。
完璧な声で。
完璧な言葉を選んで。
そして、誰にも聞こえない、心の中で呟く。
――お願いだから。
――私を信じないで。




