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二百年史

西片織田信長の挑戦

作者: 鱈井 元衡

 渡辺日本は、渡辺家の絶対的優位性を保つために不断の努力を怠らなかった。

 政治においては無論、経済的な豊かさにおいても歴代将軍は国内のあらゆる富豪よりも恵まれていた。権勢を哲雄の遺言だったからである。

 しかし、経済的な発展と共に、常に将軍家を脅かすほどの富を持とうと志す野心家は無限に現れた。

 その一人として、渡辺時代の初期に、国家を揺るがしかねないほどの権勢を手に入れかけたのが西片織田信長(2089-2153)であった。


 西片織田信長は浜松の下町で生まれた。織田の兄も、鎮西八郎ちんぜいはちろう(一般的には鎮八ちんぱちと名乗っていた)というこれまた長い名前の持ち主だった。

 2055年のコード名法以降、法文書に人名を表記する必要はなくなり、アルファベットと数字からなるコード以外、法的手続としては用いないので、一人一人の名前は自由に名乗って良いのだが、彼は織田信長という長い名前を一生捨てることはなかった。

 西片家は商売人の家系であった。西片家が残した文書では、その先祖を第二立憲時代のある営業マンに求めることができる。

 2054年九月七日午後三時、渡辺哲雄は、東京駅前の丸の内駅前広場で旧特殊鉄鋼の重役や特殊鉄鋼派についた政財界の有力者四百名以上を呼び寄せ、ことごとく銃殺した(東京駅事件)。この粛正により、太平洋戦争以後の富裕層の家系の多くが途絶した。織田の祖父西片にしかたながれ(2035-2092)はその光景を目撃しており、権力による暴力の恐ろしさを身に染みて感じた。

 外資系企業に所属し、かつて特鋼と取引をしたこともある流は、哲雄に粛正されぬように、高坂強一と共に全力でへつらい、かろうじて生命を保ったのである。


 哲雄が確立した独裁体制をより穏便な形に保持できるように、哲幸が渡辺家という看板を掲げ、権力を独占する体制を整えると、刀家などそれに仕える人々もそれを模倣するように財産と権威性を保持し、継承する概念を復活させた。

 これは家という概念が消え失せていた日本に再び強力な『一族の保持』という概念をもたらした。先祖の記憶も子孫への遺産も持ちえない圧倒的多数派に対する優越を確定させるのが一家とか一門といった紐帯を育成したのである。

 そしてこの風潮は権威主義的な社会体制が薄れつつある現在も、決して風化し尽くしてはいない。


 西片家はそうした動きの中で、末席ではあるが、より高い身分、支配者層の元に立とうと努力した一門であった。だが、その努力は決して容易なものではなかった。実際織田の父である天武てんむの代で2090年代初頭、すでに西片家は早くも権勢を失う危険にあった。

 織田は、祖父が目撃した惨劇の話を聞いており、この国で権勢を得ることがどれだけ危険か理解していた。そしてその危険の原因となる渡辺家への忌避感も強かった。

 哲雄への敬意を命じる放送があってもそれを平然と無視して行動していたという。

 故に織田は問題児であった。学校においても普通に哲雄を崇拝対象と見て疑わない生徒たちとはなじめなかったようだ。

 一方で数学の成績が良く、簿記などに巧みであった。

 織田は叔父がやっていた西片商会を継ぎ、財政の立て直しに取り組んだ。財務を見直して、固定費が浮くように取り組んだ。

 織田の目的は単に小遣い稼ぎではなく、事業を拡大して利益を追求することであった。そしてそれが人々にとって現実的に可能になった時代だった。

 まさしく、彼が生きていた時代というのは哲雄親政が始まって以来の転換期であった。


 哲雄は初代将軍であり、執政官としての官職を含めればその治世は三十年以上に渡るが、基本的にその業績は国内の大きな混乱を収拾することに消費され、経済を立て直すには至らなかった。哲幸の時代になっても、やはりあの忌まわしい日々を忘れがたい者は多く、戦乱の余燼は相変わらずくすぶり続けており、殺伐とした気風を完全に排除するには至らなかった。国家による支配を行き渡らせる営み、それ自体が21世紀前半には機能不全に陥っていたので、たとえ強権的な方法であっても歴代将軍はそれを再び活性化させるために腐心した。

 22世紀に入って、そうした前時代の雰囲気がようやく静まり、人々は少なくとも国のために貢献するのが望ましいという共通認識を手にするに至った。そうして哲雄が企図した新国家の青地図がようやく実現に近づいた。

 まず重要とされたのは資源開発だった

 太平洋に埋蔵されたメタンハイドレートの採掘は哲雄がもっとも急いでいたことだったが、彼は治世を国内のあらゆる混乱を収拾することについやした結果、その事業に手を付けることはついにかなわなかった。

 第三代将軍哲勝ひろかつ(2057-2102-2119)の時代になってようやくそれが現実に行えるほどの安定がもたらされたが、あいにく南太平洋の政情は穏やかなものではなかった。実際ミクロネシアやマリアナ諸島での紛争は激化していた。それを象徴するのがかの南洋戦争(2112-2118)である。ミクロネシア諸国の水没の危機もこの戦争の発端には関わっているが、アメリカ分裂後、この海域の主導権を誰に移譲するか、合意が全く取れなかったために起きた悲劇であった。

 インドネシアとカスカディア・ニューカレドニア連合が熾烈な戦いを繰り広げた南洋戦争において、日本はインドネシア側について戦った。 海に再び軍艦があふれ、砲弾が飛び散り、そのたびに膨大な兵士が藻屑と帰った。

 これまで防衛任務に徹してきた日本軍はこの実戦経験によって幸か不幸か、兵法を学んだ。後に海軍元帥に到る佐藤さとう公一こういちをはじめ、数々の士官の卵が、この戦争の記録を通して戦術を学び、新たに軍務についた。

 この戦争はどの国にとっても痛み分けで終わり、国境線に一応の平穏が訪れても、南太平洋は不安定なままだった。

 この混乱を終わらせるにはどうすれば良いのか。大国にとっては、この係争地域を緩衝地域として第三国に押し付けたかった。

 そしてあらゆる利害について議論しあい、さまざまな因果が積み重なった末に、日本がマリアナ諸島を獲得することとなった。

 島々は行政区画としては彩帆県と定められた。帝国主義的な色彩で見られたくないための名称であった。

 2125年、マリアナ諸島が特別行政区として日本領となり、多くの日本人が海を越えてこの南の島へたどり着いた。

 国内において賛否両論があった。領土の獲得という現象を大日本帝国の崩壊以来国民は全く経験したことがなく、ましてや帝国の時代その物が遠い過去になっていたため、それが意味するものを理解しかねた。

 太平洋戦争以来、日本国民にとって他国への侵略や領土の併合は悪であるという考え方は長年の教育によって定着し、それは救国戦争を経ても変わらなかった。

 将軍ですらこれを歓迎していなかった。幾度となく周辺国との緊張が高まるたびに衝突を選ぶことへも国民は躊躇しなかったが、それでも領土の併合となると話が違った。

 この地域の統治を任された役人たちはわざわざ第一次立憲時代の資料をあさって、どのようにして新しい領土と向き合ってしていくか学ばなければならなかった。

 そのような変革の時代にうまく乗じて、富を得ようとした者の中に西片家の面々もいた。


 21世紀中盤、戦争や災害が続き、人心がこれ以上ないほど荒廃した果ての、大企業の数々の破産は人々の貧富の格差をある程度は解消したが、同時に科学技術の衰退を招いた。特にIT関連の技術が逸失したために情報伝達の手段が乏しくなり始め、結果として世界は再び互いに隔絶した小さな部分によって仕切られるようになり――より広くなった。

 人々は自分たちが住んでいる場所以外のことについて疎くなり、未知の領域として恐怖と好奇の対象とみなすに至った。

 そんな時代でも、向こう側にある世界を知ろうとして遠く乗り込んでいく者たちが絶えることはなかった。まして、日本では長らく国内の混乱によって国外に目を向けている暇がなかったので、悲願だった秩序の確定が成し遂げられると、ついにここではないどこかへ旅立って行きたい『変わり者』たちが乗り出して行ったのである。

 彼らの、故国での鬱屈と来たらなかった。何しろ社会の均衡を保つという名目であらゆる不自由は横行していたのだから。

 国内ではあらゆる経済活動が常に厳しい監視の下で行われていた――市場での商売も、門限について窮屈な制約があった――ので、その桎梏から逃れられるとなると人々が利益を求めて躍起になるのも無理はなかった。

 だがそれくらい、前世紀を蝕んだ倫理なき経済への忌避感が強かったのだ。これは日本に限ったことではない。

 そしてこの期に及んでまた人々が富に駆られれば、またあの歴史の繰り返しになってしまう。当局はそれを警戒した。

 そういう事態への危機感も、豊かになりたいと願う市民の欲望の強さに負けて行き、2103年、商売上の制限が大幅に緩和された。ここから日本国内の経済活動が一気に拡大していく。

 2123年、織田は和歌山で名の知れた事業家である芦田あしだ野枝のえ(2090-2162)と結婚する。この時二人が神道式の婚姻儀礼を執り行ったのは哲雄崇拝に対する抵抗だろう。

 だが織田が南に渡ることはあくまで偶然でしかなかった。

 織田に彩帆行きを勧めたのは鎮八であった。鎮八は、織田が本土で骨をうずめるにはもったいない人材だと見越して、海外での活躍を期待したのである。織田は最初躊躇していた。見知らぬ土地で仕事をすることへの不安は大きかった。

 だが、鎮八の念入りな説得が功を奏し、2127年、まず織田は彩帆島を訪れる。初めて訪れる場所の自然環境や風俗に織田は心惹かれた。

 織田は現地住民と念入りに会話を行い、心象が良くなるように努めた。

 彩帆島香取かとり山において救国戦争以後、長らく廃墟と化していた彩帆香取神社の清掃を行い、縁竜ぺりりゅう島では太平洋戦争の戦没者の慰霊祭を執り行った。数日後、政府の役人が島を訪れ、哲雄の癌細胞から摘出された体液を島や沿岸に降り注いだ。織田はさらに具編へ上陸した。太平洋戦争中には大宮おおみや島と名付けられたこの島も、かつての戦跡は風化しつつあった。民間人が出入りできる場所の外では、早くも日本軍がカスカディアの軍事施設接収している所だった。織田は国家による支配の継承をどう思ったのだろうか?

 2130年代から次第に織田の活動は軌道に乗り始め、特に2134年の西森産業の買収は勢いを拡大するのに非常に一役買った。創設者である西森にしもり清人きよひと(2059-2117)は中国からの鈑金の輸入加工などで財を成した。しかし彼の死後お家騒動が起こり、業績は急激に傾いた。

 社員から同じく新興勢力で、方針も似ていた織田の笠下に入ろうという提案があり、綿密なやりとりがあった後、それに織田は同意したのだ。織田は競合他社との戦いに負けないように、会社の規模を拡大し続けた。

 そして2142年、マリアナ諸島の開発を専門とする彩帆工業の創立に至る。他国との貿易を通じて、短い間でみるみるうちに業績を上げて行った。織田にとっては、本土でやれないことをやるのが理想だった。

 しかし、現実とはそううまくいかないものである。


 彩帆島には2140年、知事として本土から田崎たざきイスマイルという男が赴任してきた。前任者が着服の容疑で罷免された代わりに、彼は不正が行われていないか厳しく島の人々に注意を向けていた。

 名前から分かるように彼はムスリムの家系の出身であり、祖父はマッカ巡礼の経験があった。

 しかし彼は新生日本の確立のために身を尽くすことを決意した青年でもあった。

 前述したとおり、彩帆県には織田以外にも多くの事業家が参入しており、彼らの活動を取り締まる体制は確立されていなかった。

 田崎は入植者による野放図な開発で、現地住民が不当に搾取されかねないことを警戒した。

 それは第一立憲時代、大東島が国家の支配の及ばない事実上の企業国家の様相を呈していたことを彷彿とさせた。

 もう一つ、織田が警戒されてしまう要因があった。実は彼に将軍家から持ち込まれた婚姻の相談が舞い込んできたのである。

 時の将軍哲茂ひろしげには子が三人いたが、どれも夭折してしまっていた。

 最終的に哲茂の血筋が絶えるとしても、この時点ではまだそれが決まっていない以上、哲雄の直系の子孫が将軍に就任できないという自体は 避けねばならない。

 そこで哲茂も織田の評判を聞いて、何とかして織田の娘を迎え入れたいと伝えてきた。

 周知のとおり、哲雄の直系の子孫は哲茂で絶えるわけだが――彼の死後は獅道の末裔である道義みちよしの子孫から将軍は出る――、彼は何とかして子孫を残そうとする努力を行っていた。

 このもくろみは側近から反対され、最終的に親衛隊長かたな敏見としみ(「最後の平成人」とも呼ばれる刀晴大はるひろは彼の従弟である)によって阻止される。

そうでなくても織田にとっては渡辺家に利用されるなど論外だった。彼は経済活動が厳しく管理されている本土には身の置き場を持ちかねていたのだから。

 こうして将軍家との婚姻という危険は去ったわけだが、なお政界に織田を敵視する者は少なくなかった。


 織田が人々のために尽くそうとすればするほど、それは本土の支配層の猜疑心を掻き立てたのである。織田は確かに利益を求めていたが、それはあくまでも民衆の生活のためであり、不当な搾取によって道徳を踏み外すものであってはならない、と考えていたことは自伝の内容からでも明らかである。しかし日本経済の暗黒期を経験した商売人にとっては、たとえ倫理を度外視してでも収益をあげるべきである、それこそが国家の貢献になると考えている者が少なくなかった。そしてそのゆがんだ欲望によって織田の分け前にあずかろうとする者も少なくなかった。そしてなお若い行政官にとっては織田もその取り巻きも同類に見えた。

 イスマイルにとっては、この南の島で限られた日本人しか活動できない以上、一部の企業による半独立体制が確立されることを危ぶんでいた。ただでさえ国家による規制が行き渡っていないにも関わらず、富ばかりを追求する気風が醸造されればその腐敗が本土にも広がることになりかねない。実際それはただの危惧ではない。将軍家の親族にも投資によって儲けようとする者たちがいたからだ。例えば、哲雄の伯父の血を引き、西日本全体の領主として封じられていた渡辺わたなべ道長みちなが(2070-2151)は織田に多額の融資を行っていた。

 道長は宗教や民族の少数派を軽んじるような発言を繰り返しており、第二立憲時代末期に吹き荒れた大衆迎合を得意とする政治家の行動を模倣していた。イスマイルにとっては自分のルーツを明確に侮辱する道長は不俱戴天の仇だった。

 織田は道長が悪評の立っている人間であることを薄々知っていたが、その影響力の大きさゆえに断ることができなかったのである。

 実際、道長は将軍家の中では特に権勢を誇っていた。軍艦を保有し、貴族のような生活を送っていた。将軍を凌ぐ勢いが道長にはあった。

 この渡辺道長に従うか、逆らうかが、日本における権力争奪のゲームとして存在したのである。そしてイスマイルは2145年、任期を終えて帰国し、将軍家に伺候する官職につくと、急いでこの権力争いに参与した。

 イスマイルは道長による児童虐待疑惑にかこつけて、彼と織田を誣告するような報告を繰り返した。そしてかつては織田を評価していた哲茂もそれを無視できなくなった。

 2146年三月、突如として織田に本土への帰還命令が下り、そこで彼は綿密な取り調べを受ける羽目になった。

 道長は失脚こそしなかったがこれ以後、中央政界に召されることは決してなかった。

 織田も道長と徒党を組んだと非難され、追われるようにして島々を去った。


 2150年、織田は息子のひろに会社を託し、帰国する。

 帰省先の浜松で鎮八と久しぶりに会い、久闊を叙した。鎮八の日記によればこの時なお意気軒昂としていた。

 一方で息子の認識は、これとは異なる。宏が晩年織田と通話した記録は、彼はむしろ失意に打ちひしがれ、憔悴していたことを伝えている。

 どちらにしろ織田の人生はここで大きな曲がり角を迎える。帰国した後も織田は次の事業を計画していた。今度は南から北へと活躍の場を探し求めていた。

 哲雄の出身地である岩手での工場の視察を行い、北海道の鉄道事業への投機も行っていた。ヤクーティアでの事業展開も計画していた。

 2143年には、宏が彩帆での気象観測所建設計画に詳細を聞き、金の準備も行った。

 そして再起を図ろうとしていた矢先に、2144年、鎮八が亡くなる。鎮八は健康に極めて気を遣っていたが、にも関わらず脳卒中で亡くなったのである。片腕ともいうべき存在だった兄の死に衝撃を覚え、織田は引きこもりがちになるが、しかし人生への関心を失ったわけではなく、後進の育成に力を注ぐべきであると決意した。こうして、会社の引継ぎに専念するようになった。

 これまでずっとこうしてもはや人生においてのやるべきことをやり尽くし、どう生を終えるか考え始めねばならなくなった矢先、夜遅く帰った織田は、自宅の二階の階段から転落し、そのまま亡くなった。

 幸いにも、次の世代が体制の移行を大方済ませていたため、織田の死は工業の中にさほど影響を与えなかった。

 宏はすぐに本土に向かい、神君崇拝が定める方法で葬式を執り行った。西片家の家系図には織田の名前が大きく書き記された。

 宏は庭に父の銅像を建て、一族がこの島で繁栄することをねがった。野枝は織田の日記やメモを集めて彼の伝記を執筆し、その数奇な一生を世に伝えた。西片家の名前が少しでも後世に伝わるようにするためだ。


 織田は極端な人間性の持ち主だったと評されている。自分の関心事には非常に情熱的ではあるが、それ以外は極めて消極的であった。自分の利益を得られそうな選択を取れる時は大胆となるが、それ以外は慎重だった。

 織田は冷徹な商才の持ち主ではあった。西片家の人間に共通する特徴だった。

 イスマイルは織田の栄達を食い止めることで島々の秩序を保ち、腐敗と汚職を阻止したという評価もあるが、一方で発展を阻害したという批判もある。この一件は利潤の追求に消極的な渡辺体制の限界を象徴するものだった。

 彼は任期を終えて本土に帰国するが、評判は芳しいものではなかった。大いに私的な感情を持ち込んだものと後ろ指をさされ、哲茂からは冷遇された。また晩年には息子もなくしている。織田とイスマイルの対立は多くの人間に苦い思い出を残すだけで終わった。

 宏は織田の遺産を処理することに魂胆を尽くさねばならなかった。宏は織田のような商才のなさを自覚していただけに、何とかして会社そのものを維持しえただけでも非凡というべきであろう。宏は間もなく代表取締役から身を引く。宏は比較的豪快な所があり、大酒飲みであり、なおかつあまり寝ない方でもあった。そのせいもあってか突如として亡くなった。

 宏も父に似て商魂たくましい人間ではあったが、後進を育成することについては比較的劣る所があった。彩帆工業も最初はいつ経営が傾くか、そうでなくても政府に横やりを入れられるかで常に緊迫した雰囲気があり、故にそれに抗おうとして進取の気性に富んだ社風が存在したが、安定していくにつれて次第に保守化し、既得権益を墨守する路線へと傾いて行った。宏自身は決してそういう境地に安んじようとしていたわけではないが、社内の多数が抱く思想が次第に硬直化してしまった。

 また時代が移るとアラスカ戦争やなどで南への注目が薄れて行き、マリアナ諸島に好んで移住する者も少なくなっていったのもある。

 宏の子は病気がちであり、間もなく代表取締役を辞任する。それからは天仁安てにあん島に移住し、田畑を営んだ。

 こうして、彩帆工業は西片家以外の人間の手に渡ることとなった。巨大な収入源を失った西片家は急速に没落した。

 2201年、彩帆工業は新しく本土から勃興してきた島村しまむらグループに経営統合された。

 織田の子孫はもはやそのような経済活動には目もくれず、宏の孫の代になると、西片家はほとんど庶人と変わらない程度の財産しか所有していなかった。

 しかし、彼の存在を伝える記録は数多い。

 2144年に織田自身が記した自伝「亢龍伝こうりゅうでん」公式記録である「彩帆工業社史」、野枝の彩帆滞在記である「水晶の国から」などが、織田の功績を伝えてくれている。人々に成功を約束する自己啓発書では決まって織田のことが努力する人間の象徴として、称賛の対象となった。しかし、西片織田信長の名前は彩帆県では急速に忘れ去られた。

 今では具編にたたずむ西片織田信長の銅像はもはや誰も管理する者がおらず、こけむしている。数世紀経てこの地域に馴染んだ日本人にとって、その先駆者となった織田の名声は完全に埋もれ去っている。

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