第14話 前兆
冷たい金属の感触が鎖骨に食い込む。
「実験体488号、覚醒率52%……脳波に異常!」
ガラス越しの声が歪んで聞こえる。
「次は脊髄へ直接注入だ。神の領域に至るには──」
私──いや、番号だけで呼ばれる存在が白いベッドに縛り付けられ、天井の無影灯に瞳を焼かれていた。
四肢に刺さった電極から、甘い麻痺が神経を侵す。
左耳の奥で電子音が鳴り続ける。それは魂のネジを締め上げるようなリズムに聞こえた。
「第7シナプス接続完了、虚数座標軸への干渉を開始。」
白衣の影がケージ状の装置を操作する。
突然、視界が灰色に滲み、ガラスが崩れるような音が部屋に響いた。
「あ゛……!」
叫び声は防音壁に吸い込まれる。隣のケージで少女が痙攣していた。
彼女の金髪は私のものより淡く、皮膚から滲む光の脈絡が蜘蛛の巣のように広がっている。
「失敗作の処分を。次は489号で──」
彼らの視線が私に向いた。
◆◇◆
目覚めた時、涙が頬を伝っていた。
(何か凄く怖い夢を見た気がする……)
握りしめた掌の中に、現実の黒い結晶が汗に濡れている。
(はっきり思い出せない…)
「シリウスちゃん、起きてるの?」
マーサが燭台を手に部屋に入る。火炎が揺らめく度、老婆の首元のペンダントが微光を放つ。中には炭化した麦穂が――既に粉々になっていた。
「悪夢でも見たのかい? 汗びっしょりよ。」
「……大丈夫です。ただの夢ですから。」
その時、畜舎から獣の咆哮が響き渡った。
「おい! 落ち着け!」
牧童の叫びを尻目に、羊の群れが柵を破壊する。瞳が真っ白に濁った牛が、血の混じった泡を吹きながら小屋に突っ込む。
「また獣の暴走か……」
エルモンさんが呪文を唱えつつ駆けつける。だが今回の群れは異様なようだ。
頬を撫でる。あの魔法を使った手に、少し違和感が残っていた。
その時、私の前に死んだ小鳥が落ちてきた。
「ッ!」
羽根は黒く爛れ、嘴から虹色の液体が垂れていた。
その不気味な光景に視線を逸らしたが…
「これは…」
地面には霜柱のような模様が土に刻まれ、中心から放射状に亀裂が走っている。
エルモンさんに急いで知らせる。それを見た彼の杖が少し震えた気がする。
「星霜紋……まさか『闇の氾濫』の前兆か…!」
「闇の氾濫?」
「二百年周期で現れる災厄の化身。全ての生命を時空の渦に飲み込むと伝えられていますが…」
彼は少し考える素振りを見えた。
「前回の『闇の氾濫』から約50年しか経っておりません。」
彼が次に何か言おうとした瞬間。
「神官様! 東の畑が……」
農夫の声が絶叫に変わる。見上げた先で、麦畑が波打っていた。
(穂が……逆方向に揺れてる?)
風向きと逆に作物が動く不気味な律動。まるで大地そのものが呼吸を始めたようだ。
◆◇◆
村長の屋敷では、王都からの伝令が机を埋め尽くした。
机の上の紅茶が冷めきっている。蝋燭の蝋が村の地図に垂れ、領都への街道を琥珀色に覆う。
「エルモンさんが言うには、結界が既に三重まで破られている。この速度なら、三日後に完全に効果を失うそうです。」
だが、彼の姿はここにはいなかった。結界の確認でもしているのだろうか。
ざわめきは止まることがなかった。木製の梁から粉塵が舞い落ちる。
村長の拳が机を叩いた衝撃で、伝書鳩の羽根が一枚、ゆらりと空中を漂った。
「静粛に! 各戸から戦える者は──」
若い鍛冶屋が椅子を蹴りながら立ち上がる。
「冗談じゃねえ!東の様子を見てみろよ!俺たちだけでこの村を守るのか?!援軍はどこだ!」
老村長の指が地図上の赤印をなぞる。
「領都からの援軍は最早5日が必要とのことだ。神官様の予測通りであれば間に合わないぞ。」
「やはり無駄の犠牲を出さないために、非戦闘員の避難をしましょう……!」
避難を進言する人。
「避難にも人手が必要だ!この時に戦力を分散してどうする!」
その言葉に反論する者。
「この村を捨てるしかないだろ!俺はまだ死にたくない!」
村の放棄を主張する者。
「なんだとてめえ!」
怒号が飛び交う中、窓が微かに震え始める。
誰も気付かない──蟻塚が崩れる前の僅かな振動を、私だけが感じていた。
部屋のドアが軋む。
「東の森の監視塔から連絡だ!」
走り込んだ若い兵士の息が荒い。
「昨日まで確認されていた魔物の群れが……全て消えました!」
「消えた…?」
「ハ! 魔物が消えたなら問題ないじゃねえか。」
「どういうことだ!」
さらに、怒号が飛び交いた。
その景色を眺めながら私は何もできず、ただ立ち尽くしていた。
隣にいたマーサさんが突然護符を取り出す。それに刻まれた双剣を交差させた星のマークが曇りなく輝いている。
「魔物が消えたのは恐らく『闇の氾濫』の前兆よ。奴らが共食いを始めたの。」
「共食い?」
私の問いに、彼女の瞳に若き日の面影が浮かぶ。
「強大な魔物が出現する前、下位種がその誕生の糧となる……それが『闇の氾濫』。」
窓枠に手をかける。指先に伝わる木材の振動が、次第に心臓の鼓動と同期していく。
(来る…!)
心の中の呟きと同時に、遠くで地割れの音がした。
窓の外で悲鳴が上がる。人々が荷車に家族を乗せ、無秩序に西門へ殺到している。
「逃げろ! 湖が沸騰しとる!」
沸騰する湖面から立ち上る蒸気が空を覆い、陽炎の中に影が揺らめく。
◆◇◆
夕暮れの湖畔は、悪夢の絵具で描かれたようだった。水面から立ち上る紫の蒸気が夕日を歪め、岸辺の石が不自然な多面体に結晶化している。
「これが最後の静けさか……でも、まさか彼女が《《アレ》》だったとは…」
男が結晶化した小石を砕く。中から紺碧の蜘蛛が這い出し、光を吸い込むように消えた。
「虚空の子らが目覚める時、世界は三度黄昏る……そろそろ撤収する時か。」
◆◇◆
夜は風が止んだ。
逃げ遅れた赤子の泣き声だけが、不自然に澄んだ空気を切り裂いて響き渡る。
「あなたはどうするの?」
マーサさんの問いに、私は少し手にあった星型の傷口を撫でた。
「私は残ります。これの意味を知るまで──」
突然マーサさんに背後から抱きしめられた。
「リュカも闇の氾濫で死んだの。あの時私は、炎を止められる最後のチャンスに……彼の手を握れなかった…。」
マーサさんがあの夜に話してくれた話は今でも鮮明に覚えていた。
彼女の声が絞り出すように震え、抱きしめる腕が微かに痙攣した。
「あなたはもう、私の娘ようなものよ。」
彼女は喉が軋むような笑いを漏らす。
「たった数ヶ月しか経ってないのにね。この歳になると、血の繋がりなんてどうでもよくなるの……だから、あなたまで失いたくない。」
彼女のペンダントが、微かに輝いた。
「マーサさん……」
その時だった。
東の空が突然暗くなる。雲ではなく、無数の影が空を覆い始めた。村人の子供が指さす。
「お母さん……空のお星様、全部消えちゃったよ?」
背筋に冷たい戦慄が走る。
風が運んできたのは、獣の遠吠えと共鳴する地鳴り。
――戦慄の序曲は、すでに最終楽章へのカウントダウンを始めていた。
第14話を読んでくださりありがとうございます<(_ _)>
不穏回もとい、伏線回?
こんなに入れていいのか…まだ第一章なのに…
いや第一章だからか…
勢いで書いたら一人称作品ではあるまじき三人称パートを入れてしまった…どうしよう…
次回は、いよいよ第一章のクライマックスが!
誤字脱字&誤った表現があれば優しく教えていただければ幸いです。
感想&レビューお待ちしております。