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LASTEND  作者: S.W.R.
2/3

20代 女性

 あてどなく続く白い世界にうずくまり、20歳ころの若い女性が泣いていた。涙は顔に流れず、けれど、彼女は両手で顔を覆って、涙を両手で受け止めるような仕草をする。

 するとどこもかしこも真っ白な世界に、声が響いた。

「次の人」

 女性が顔を上げると、何もなかったはずの白い世界に彼女以外の存在が一人、立っていた。

 純白のドレスを着て、黒く長い髪を背に揺らしている。凛とした顔立ちの中、澄み切った大きな黒い目は、瞬きさえしなかった。

 非現実的な姿をした、おそらくは女と思われるその人の手には、唯一、女性が親しみを覚えるものがある。分厚く、大きな本。初めて見る本に、女性は自分でも不思議なくらい親しみを感じていた。

 すると白いドレスを着た彼女が本を差し出す。刹那、譜面台のような形をした木製の台が現れた。

 背表紙が上になるように台へ本を置いた彼女が、今一度、若い女性に声をかけてくる。

「これからあなたを地獄へ連れて行きます。その前に、1つだけ願い事があれば叶えましょう」

 言葉は確かに耳に届いたが、若い女性は何を言われたのかうまく理解できなかった。地獄へ行く、その一点だけが耳に残る。

「申し遅れました。私はあなたを地獄へ連れていく案内人です」

 白いドレスの女はそう言った。なんと返事をしていいか分からず、女性はじっと黙っていた。

 すると本をめくる音が響く。最初は重い音、次に軽い音。

 案内人は背表紙からページをめくり、本をあとがきから読むように眺めていく。

「……余計なおせっかいかもしれないけれど」

 一度、案内人は言葉を区切る。女の前へしゃがむと、尋ねた。


「彼の本当の気持ちを確認する?」


 思わず女は顔を上げた。案内人の黒く、どこまでも無感動な目。けれど、嘘はついていないと見て分かる、一切こちらからそらされない目に、女は呟いた。

「……あなた、どうして」

 女の脳裏に、ある光景が浮かび上がった。





===




── がたん、がたん




 電車のリズムは一定で、満員電車だからこそ余計に振動を感じてしまう。

 人の波に逆らわないように、少しずつ電車の乗車口へと近づいていく。と、人の波に押されるように、目の前に見知った男性が現れた。

「あ、こんにちは、貴明さん」

「こんにちは、これから料理教室?」

「そうです」

「もしかして……」

 私と彼の「麻婆豆腐」という小さな囁きが、電車の中で重なる。思わず二人で、くすくすと笑ってしまった。

 教室では、複数の料理から生徒が好きなものを選び、自由に組み合わせられる。ここのところ同じメニューを選び合っている私たちは、お互いの味の好みが似ていることに気が付いていた。

「今日は同僚の、桜子さんだっけ? 彼女は?」

「少し遅れてきます。……おんなじ麻婆豆腐ですよ」

「あはは。一緒に料理教室に通うだけあるね」

「はい。ランチも意識してないのに、同じメニューを頼むくらいです」

 くすくすとまた、私たちは2人きりで笑った。

 貴明さんと私が話をするようになったのは、料理教室がきっかけ。だけど最初に顔を合わせたのは、職場だった。

 私が受付を務める会社に、貴明さんが商談で来たからだ。互いに顔と名前が一致するようになったころに、同僚の桜子に誘われた料理教室で再会した。

 最初はお互いに、こんなところで会うとは思わなくてびっくりしたっけ。

「そういえば……」

 この前の教室での話をしようと、私はスマートフォンを取り出す。その時だった。

 大きなカーブに電車が差し掛かる。私の手からスマートフォンが落ちた。スマートフォンが、だれかの足に踏まれる。

「あっ、しまった」

 貴明さんが目を丸くする。彼には悪いけれど、ちょっと安心した。満員電車の中。拾うためにしゃがみこむには、周りに人が多すぎる。でも貴明さんなら声をかけて拾えばいいもの。

 すると貴明さんが両腕を電車のドアへついて、スマートフォンの上にスペースを作ってくれた。

「今のうちに」

 私はすぐさましゃがみこんで、スマートフォンを拾う。電源、ついた。

「大丈夫です、割れたのは保護ガラスだけでした」

 貴明さんに画面を見せながら、ホッとして微笑んで、私は気が付いた。ちょうど貴明さんがドアに両手をついていて、私はその間に収まるように立っている。今まで貴明さんと、こんなに近づいたことはない。思わず視線を逸らすと、彼の左手が目に入る。

 薬指に光る指輪は銀色、小さなダイヤモンドが3つ並んでいた。

 ひどく、申し訳ない気持ちになった。

 私は顔を伏せたが、電車が駅に停まるまで、まだ何分もある。このまま一緒に電車に乗り続けるしかない。

「悪いことしちゃったな」

「い、いえ。だって保護ガラスだけですよ?」

「でも……」

「いいですってば。貴明さん、気にしないでください!」

 何度か繰り返すと、しぶしぶ、貴明さんは納得してくれたらしい。

 だけど。貴明さんは私が立ちやすいようにするためといって、寄せた腕を離してはくれなかった。体温を感じるたび、貴明さんの料理教室でのふるまいとか、会社へ商談に来た時の真剣な表情とか、いろんなことが頭の中をぐるぐると巡る。

 貴明さんは、既婚者だ。

 つまり、私の気持ちが叶ったら、それは不倫になる。

(ダメだよ、そんなこと……)

 胸の奥の説明しがたい切ない気持ちが、波のように打ち寄せて、常識という岸壁に当たっては砕け散る。好き、という気持ちを、私は胸の奥に押し込んだ。


 それから2か月近く経った、ある日の料理教室。


 貴明さんは、結婚指輪を付けずにやってきた。

「あれ、貴明さん、指輪どうしたんですか?」

 目ざとく気が付いた桜子が尋ねる。私は思わず肩をびくつかせた。

 貴明さんは苦笑いを浮かべる。

「ああ。料理するときって、指輪があるとなんだかしにくくってさ」

「なるほど! 和食の料理人さんとか、つけてないことあるかも」 

 桜子が頷くと、貴明さんは「そうそう」と同意した。指輪のない貴明さんの左手を、私はつい、目で追いかける。

 もしも最初から指輪が無かったら、私は少しも躊躇しなかっただろうか。恋人がいた時期もある。分別もあるつもりだった。

 愛しているから、という理由で、顔も知らない貴明さんの奥さんを裏切れない。

 だけど私は、今。

 指輪のない貴明さんの手に、自分の手が重なる姿を、妄想している。

「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」

 料理教室から足早に出て、私は女子トイレの向こうにある休憩スペースに向かった。よかった、だれもいない。

 私はソファに座り込み、ため息をつく。息が整ったら戻ろう、そう思った。

 と、眼前に影が落ちる。

「……大丈夫?」

 貴明さんだ。嬉しい気持ちと悲しい気持ち。そのどちらもが胸の中でぶつかって、爆発してしまいそうで。

 だけど私が何かを言う前に、そっと、彼は、私の手を握る。


 もう気持ちは、止められなかった。


 震える唇から、言葉を放つ。想いを込めて。

「……だいじょぶじゃ、ないです。貴明さん」

「うん」

「どきどき、するに、きまってます」

「うん。そう思うんじゃないかって、思ったんだ。一緒に過ごしたい、だから」

「……っ、貴明さん」

「愛している。君が、大好きだ」

 誰も来ない休憩室の中、私たちはキスをした。



 それから半年。私は、幸せだった。



 貴明さんとホームセンターで一緒に買い物をした。単身赴任先のマンションに置く家具を、貴明さんが「一緒に選んで」と言ってくれたから。料理教室では同じメニューを選んで、少しでも長く一緒に過ごそうと思った。

 花瓶を買ったのは私のほうで、生けるお花にカスミソウを選んだのは貴明さんだったっけ。

 それから、スマートフォン。リストバンドの形をした最新機種は、貴明さんとのおそろいだ。

 彼はスマートフォンを踏んだことをずっと気にしていて、自分も買うから、という建前で私にも同じものを買ってくれた。

「いいんですか? こんなに高価なもの」

 一緒に携帯電話会社へ立ち寄った帰り道、私たちは喫茶店でコーヒーを飲んでいた。贈られたのは嬉しいけれど、決して安い者じゃない。

「うん。実は、俺も携帯電話を最近失くしてさ。だからついでだよ。それに」

 真新しいリストバンド型の携帯電話を取り出して、貴明さんがかちりと腕に取り付ける。

「これなら落とさないでしょ」

 笑う彼の顔に、私も思わず微笑み返す。

「そうだ、これ聞いてよ」

 そう言うと、貴明さんがスマートフォンを操作する。古めかしい『ジリリリ』という電話の呼び出し音が流れた。

「前に使っていた携帯電話にも、この通知音があってさ」

「慣れてる音が使えると、安心しますものね」

 私たちはコーヒーの湯気の向こうで、お互いに微笑みあった。


 けれど、幸せは長く続かない。


 それは暗い、くらい、夜のこと。

「見つけたわ。興信所にお願いしてよかった」

 背の高い美しい女性。彼女は私に、スマートフォンを突きつけた。貴明さんと彼女が並んで写る、結婚式の写真。

「貴明の妻です。主人と別れてくださる? 今なら会社のほうには何も言わないわ」

 考えていた。分かっていた。物語みたいに、うまくいかないと、分かっていると思っていた。

 頭の中が真っ白になって、私はその場に立ち尽くす。腕に着けたスマートフォンが、重い。

「もしまた会っていると分かったら、すぐにでも、会社に報告しますからね」

 彼女は私の顔写真を撮ると、背を向けた。

 何も言えなかった。貴明さんの奥さんに、とうとう、私と貴明さんの関係がバレてしまった。

 貴明さんに「奥さんとは別れて」って言えばよかったのかな。そんなことできない。ううん、したほうが良かった?

 答えが出ないまま、私は貴明さんと会うのを控えだした。

 だけど、料理教室でばったり顔を合わせることもあれば、職場で会うこともある。どこか、彼はよそよそしい気がした。

 奥さんに何か言われたのかも。

 その夜。貴明さんから届いたメールに、私は息をのむ。


「今すぐ別れてほしい」

「早く別れたい」

「できないなら死ね」

「死ね」

「今すぐに死ね」


 私は幸せだった。

 でも、貴明さんは、私がいたら幸せになれないと、やっと気が付いた。


 好きだから。愛しているから。そんな理由で私は、夫婦の幸せをめちゃくちゃにした。


 ああ、そうだ。私がこの世から、いなくなってしまえばいいんだ。



── がたん、がたん



 電車の音が遠くに響く。

 もしもあの日。私がスマートフォンを、落とさなかったら。

 私は貴明さんと、まだ。もしかして。




── どさっ




 最後に見たのは、貴明さんのメールアドレスから来た「死んだ?」という一言だった。





===





 案内人の手が離されたことで、女性は顔を上げる。何度も訪れた、貴明の単身赴任先のマンション。

 殺風景な部屋の中には、2人でそろえたテーブルと2脚の椅子があった。貴明と女性が選んだ花瓶には、からからに乾いたカスミソウ。

 椅子の片方には貴明が座り、その反対には貴明の妻が腰掛けている。テーブルには、離婚届があった。

 もうすでに、貴明の名前や住所は記入され、あとは貴明の妻の名が書かれれば完成するまでに体裁が整えられている。

「あとは、君はサインをするだけだ」

「何を馬鹿なこと言ってるのよ!」

 金切り声をあげる貴明の妻が、離婚届を引きちぎった。すぐさま貴明が、次の離婚届を差し出す。

 さすがにうろたえた様子で、妻は手を止めた。何枚も出してくるだろう、と思ったのだろう。

 テーブルの上には、リストバンド型のスマートフォンが置かれていた。メール画面が開かれたままだ。

「あっ、桜子……!」

 画面に映し出される見知った名前に、女性は低く喘いだ。


『間に合わなかった。彼女は死にました。自殺です。』


 女性は足が震えて、座り込みそうになった。その時だ。


 古めかしい電話音が、部屋に鳴り響く。


 貴明のスマートフォンに来た着信ではない。音はリビングの隣にある和室から響いていた。貴明の妻のものと思われる女物の革のカバンが、ぽつん、と置いてある。

「うそっ……!」

 妻は椅子から飛び上がるように立つと、そちらへ駆け寄ろうとした。貴明がすかさず彼女を追い越して、カバンに向かう。

「ま、まって貴明、やめてっ!」

「どういうことだ! どうして俺の失くしたスマホを、お前が持ってるんだ!!」

 画面の割れたスマートフォン。怒鳴る貴明の前で、妻はへなへなと床へ崩れ落ちるように座り込んだ。

「電源切ってあったのに……」

 彼女のつぶやきに、貴明はすぐさま画面のロックを解除し、メールや電話の履歴を確認する。

 いずれも、貴明の名前で、しかし、貴明が送った記憶のないメールや電話が数百件近く入っている。震える指で内容を確認した貴明の顔が、真っ青になった。



「今すぐ別れてほしい」

「早く別れたい」

「できないなら死ね」

「死ね」

「今すぐに死ね」

「死んだ?」



 貴明はすぐに、理解した。女性が貴明に会わなくなった理由。貴明からの連絡に返事をしなくなった理由。

「お前……!!」

 彼の手から投げ捨てられたスマートフォンが、床に落ちる。同時。貴明の妻の首へ、彼の手がかかった。ギリギリと肉を締め付け、皮をねじる音が部屋に響く。

「貴明さん!! ダメ!!」

 女性は叫んだ。だが、貴明は止まらない。

 貴明の妻が足をばたつかせて、もがき、白目を剥こうとも、止まろうとしない。

「お願い、やめさせてっ、おねがい……!!」

 案内人へ女性が言う。案内人はじっと黙っていた。その手に縋りつき、女性は「お願いよ」とか細い声で繰り返す。

 すると。テーブルの上に置かれた、貴明のリストバンド型のスマートフォンが、短く振動した。古めかしい電話の音が響く。

 ふ、と貴明がそちらへ目線をやった。

 女性の死を知らせるメールをまるで上書きするように、画面いっぱいに「やめて」という文字が浮かび上がる。

「……嗚呼」

 貴明がため息をつきながら、妻の首から手を離した。彼女は大きく息を吸うと、せき込む。そしてしばらくして、泣き出した。うわごとのように「浮気なんて許せないでしょう」「貴明は私のもの」と言っているのが聞こえる。

 だが貴明は、彼女のことなど気にしなかった。スマートフォンを握りしめると、彼の目からぼろり、ぼろりと涙が落ちる。

 リビングに貴明の慟哭が響いた。

「俺のせいだ……」

 泣きじゃくる彼に、女性は縋りつく。だが触れることはできず、彼女の体は貴明を通り過ぎた。

「……願い事を一つ叶えたわ。さあ、行きましょうか」

 案内人の手が、床にうずくまる女性の背へ当てられる。刹那。彼女の両目から、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちた。

 あふれて止まらない涙に、彼女も声を上げて泣き始める。

 泣いて、ないて、それでも声は貴明にもう届かない。

 やがて、案内人の白いドレスが透けていくとともに、女性の姿も消えていく。

 二人の姿は、どこにも見えなくなった。


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