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LASTEND  作者: S.W.R.
1/3

10代 少年



 少年が目を開けるとそこは雪国のような白い世界だった。足の底も白かった。透明な雪が白く見えるように、もしかすると何色もない透明な世界かもしれない。

 つい先ほどまで暗闇の中に少年はいた。周りは何も見えない、一寸先は闇そのものだ。

 しかしふと、彼は「自分が目を閉じているだけだ」と気が付いた。暗闇が、ゆっくりと、割れて、そうして見えたのがこの白い世界だった。

 ここは、どこなのか。少年は不思議に思いながらもその場にしゃがみ、白い世界から目をそらすと、膝を抱えて座り込んだ。

 膝と膝の間に顔をうずめ、腹を覗き込むようにする。白かった世界は一変し、少年の顔の周りだけは黒い世界になる。

 と、その時だった。

「次の人」

 それは女性の声だった。少年は最初、気のせいだと思った。

 先ほどまで見ていた景色に、人間の姿がなかったからだ。

「いつまでそうしているつもり?」

 声が響く。まるで、頭の中に直接話しかけられたかのような、右からも、左からも聞こえない、強いて言うなら真上から聞こえるような声だ。その声は少年の心をなぜか揺さぶった。

 少年のぼうっとした目が、白い世界を見回そうとして、気が付く。

 いつの間にか少年の前に、白いドレスを身にまとった見知らぬ女性が立っていた。無表情で少年を見つめる女性、凛とした顔立ちは美しいが、目の奥に感情と思われる光はなく、真っ白な世界へ佇んでいると、触れると一瞬で凍えてしまいそうな氷を思わせる。

 さらに女性の傍らには、少年がかつて学校の音楽会で見た譜面台のような木製の台が置かれている。

 どちらも、少年がこの世界へ来たときにはなかったはずのものだ。

 女性は反応のない少年に行動を促すかのように、大きな本を台へと置いた。百科事典のような大きな本で、厚みは5センチほどもある。

 何か聞かないと。不意に、少年は焦燥感にかられた。

 女性の表情ではなく、彼女の持つ大きな本になぜか圧倒されたのだ。

「ここは天国ですか?」

 少年が周囲を見回しながら尋ねると、女性は表情を変えずにこう返した。

「あなたは自殺したので地獄へ行きます」

 初めて女性の顔に変化が起きた。左の口角だけがわずかに持ち上がり、頬がこわばる。

 直感的に少年は、彼女が自分を嫌っているかも、と思った。正確には、自殺という言葉を彼女は嫌っているように思えた。自殺という言葉を口にした瞬間、女性の表情が変わったからだ。

 自分の嫌いなことをした人を好きになれる人間が、どれほどいるだろうか。少年は心の内で「一人だっていない」と呟く。

「でもここは地獄ではないの、これからあなたを地獄へ連れて行きます。私は案内人です」

「…」

 地獄行きの案内人ということ? どうしてこの世界は白いの? その本は何?

 たくさんの疑問が少年の内心を渦巻いたが、声に出して質問するのははばかられた。

 嫌われているかもしれない、そう思ってしまった以上、少年は女性へ何かを聞くことができなくなっていたからだ。

 彼女と少年の間にしばしの沈黙が起きる。少年はつま先を見つめるように視線を落としたが、何か解決策があるわけでもない。雪の様に真っ白な世界では、時間の感覚もあいまいになった。

「地獄へ行く前に、一つだけ願いがあれば叶えましょう」

 女性の声が響く。少年は顔を上げて、尋ねた。

「どんな願いでも?」

「叶えられることでしたら」

「うーん」

 少年は腕を組む。

 案内人だという女性が嘘を言っているとは、あまり思えなかったからだ。

 もしも女性が少年を騙そうとしているとか、少年を嫌って傷つけようとしているのだとしたら「叶えられることでしたら」と言う必要はない。なんでも叶えられるとでも言って、喜ばせるだけ喜ばせておけばいい。

 案内人は少年が悩むことを見越すように、本を手に取った。背表紙が上になるように本を返すと、背表紙から見て最初のページ。つまり、本の最後のページを読んだ。

「いじめを苦に自殺」

 ぽつり、と声が響く。少年の耳に聞こえる程度の大きさの声だった。少年は聞こえずに、願い事を考えるふりをする。

 最後のページから案内人が顔を上げると同時、本の姿が台の上から消え失せる。最初から台の上には何も乗せられていなかったかのように、綺麗になった。

「復讐とかダメよ、私にはそういった能力は無いからね、つまずかせて転ばせるくらいならできるけど」

 少年から返事がないことを確かめてか、彼女は続けてこう言った。 

「ねえ誰か会いたい人いる?」

「会えるの?」

 2人が会話をし始めて、初めて、というくらいの勢いで少年が返事をした。案内人が柔らかく首をかしげる。

「様子を見るくらいよ、触ったり、声をかけることはできないけど」

 まるで少年がこう聞けば諦めるのでは、とでも言いたげな口ぶりだった。しかし少年は案内人が『できないけど』と言い終わるか、終わらないかぐらいで言葉を発する。

「優弥君に会いたい」

 必死さが形となったような声だった。それは少年の感情の発露であり、この世で最後の願いであり、聞く者の心を揺さぶる声。

 それでも案内人は冷静な──人によっては、無表情な──ままで、台の上へ手を置いた。再びあの分厚い本が姿を見せる。

 案内人は裏表紙を表に、ぱたり、とめくる。最後のページが開かれたまま、不思議と、本は動かなくなった。

 少年のほうを見た案内人が「じゃあ行きましょうか」と言って手を差し出すと、少年は「うん」と頷く。案内人が動かないので少年は、少しためらってから手を伸ばした。

 二人の手が繋がれる。

「はぐれないようにね」

 少年の手を引きながら歩く、案内人の声が響いた。二人の姿はゆっくりと、白い世界から消えていく。


 ──── ちりん、ちりん


 自転車のベルの音が聞こえた。ハッとして少年が目を開くと、前方から自転車に乗った高校生が猛スピードで向かってくる。目の前の少年に気が付いていないのか、スピードを緩めない。

 もうぶつかる。

 少年は思わず身体をこわばらせ、ぎゅっ、と目を閉じた。

 少年の体の内側を、自転車のペダルをこぐ音や車輪が勢いよく回転する音が通り抜ける。一層の驚きに今度は少年が目を開けると、黒いバックがちょうど顔面を通り過ぎて、おへその下あたりから自転車の後輪が消えていくところだった。

 まさか、と少年は自転車の彼を振り返る。

(もしかして、幽霊だから……?)

 納得するような、しないような。

 答えを求めて案内人を見上げる少年の顔は、新鮮な驚きに満ちている。その表情は、生まれて初めて空を見た赤子のようだった。

「素敵な自転車だったわね」

 にこり、ともせずに案内人は言った。案内人は続けて、とても平坦な声で「自転車乗りたいな」と呟いた。本当に乗りたいのだろうか、少年は疑問に思う。

 そしてふと少年は、案内人の服装が白いドレスではないことに気が付いた。

 白いズボンに紺色のひざ丈のシャツ、そしてスニーカーという、女性らしさのある服装だった。少年の視線が服装に移動したと理解してか、案内人が「たまに見える人がいるのよ」と言う。

 なるほど、確かにあの白いドレスのままでは、見えてしまった人が驚くかもしれない。少年はその言い分に頷いた。

 すると案内人が前方へ、少年とは繋いでいないほうの手を差し出す。空中にあの本がふわりと浮かび上がり、ページがひとりでにめくれていく。

 ページの中身を一通り読み終えた彼女の指が、川の手前側を示した。

 堤防の下に草と砂利、それから大ぶりな石と砂地が集まった河川敷と段になっている。水嵩の多いところには、背の高いガマやススキ、どこから飛んできて芽吹いただろうニセアカシア。

 そして、河川敷のひざ丈くらいの雑草が揺れる中に、男の子がいた。 

 年のころは中学生程だろうか。

 膝を抱え込むように座り、ぎゅっ、と両手の指を太腿あたりに食い込ませている。

「優弥君……」

 案内人と手をつないだまま、少年は、彼の名前を呟いた。

 宙に浮かぶ本のページがめくれていく。やがてそのページが【中学二年生】という見出しがついた場所で、ぴたり、と止まった。




===




 優弥君と僕が出会ったのは、もうすぐ2学期を迎えるころだった。

「はじめまして、優弥といいます。転校してきたばかりであまりよく分からないことも多いので、ぜひ、いろいろ教えてください」

 にこやかに語る彼を、僕は遠い世界の住人のように眺めていた。転校生というだけで、たったそれだけで、きっと彼は珍しくて、皆から注目されて、僕のような『いじめられるだけの人間』とは違う人生を歩むんだろう。

 そんな不満とも、悲しみともつかない感情で胸がいっぱいだった。

 またどうせ。すぐに。あの3人組から虐められるんだから、せめて授業中や休み時間は静かに、穏やかに過ごしていたいのに。彼の周りを取り囲む皆が、口々にする質問も相まって、とてもじゃないけど静かには過ごせなかった。

 ささやかな僕の願いを壊した彼を、恨むような気持ちさえあった。

 だけど彼のほうは、そうではなかったんだ。

「この苗字……」

 不思議なことを言うなぁ、と思った。僕の苗字は別に珍しいものでも何でもない。

 そんなことより気になったのは、今の状況。

 転校生が『いじめられるだけの人間』に話しかけたことに、周りの空気が変な風に緊張する。たった1日しかこの学校に通っていない彼は、僕がいじめられていることを、全く知らない。当然だろう。

 だからこそ僕は、内心でびくびくしていた。

 彼が話しかけたことで、あの3人からさらにいじめられるんじゃないだろうか……そう思ったから。

「え、なに? 優弥君」

 できるだけ彼に嫌われるように、ぼそぼそと小さな声で僕が返事をすると、彼は目を丸くする。

 そして、

「ねえっ、友だちにならない?」

 と、言ってきた。

 理由が分からなくて、僕は戸惑った。

 だけどここで断ったら、ますます、いじめられるかもしれない。

「……うん、いいよ」

 そんな打算で頷いた僕に、彼はにっこり、微笑んでくれた。

 それからの日々は僕にとっては、楽しくて、嬉しいことばかりだった。優弥君と一緒にいる間は、あの3人組は一切、絡んでこようとしないからだ。

 ただ、優弥君は身体が弱いみたいで、遅刻も早退も多かった。

 みんなはますます、謎めいた転校生が真っ先に『友達になろう』と言った僕から距離をおく。あの3人組がますます気に入らない様子で、僕を呼び出すから。

 だけど彼らのふるまいが気にならないくらいに、優弥君との会話は楽しかった。

 優弥君は僕のことを聞いてくる。楽しいこと、趣味、好きなアニメ、漫画。

 優弥君はとても、聞き上手で、僕はいつもたくさんしゃべりすぎてしまった。

 そんなある日のことだ。

 僕は優弥君が『カメラ』に興味を持っていることを知った。中学生だから、もちろんお店で手に取って買うことは難しい。だけど僕は父から、お古のビデオカメラを受け取っていた。

 なら、うちに招待したら優弥君も喜んでくれるかも。

 優弥君は僕からの誘いに、僕が思っていた以上に喜んで遊びに来てくれた。

「いらっしゃい、二階に来て」

「お母さんとお父さんは?」

「仕事。だから僕しかいないんだ、こっち、自分の部屋があるから」

 優弥君がいるだけで、見慣れた自分の部屋が見知らぬ場所に見えてくる。優弥君はそわそわした様子で、部屋の中を見て回っていた。

 珍しいものはないと思うけれど、優弥君の目はとても輝いていた。

「待っててね、ジュース取ってくる」

「あ、うん、ありがとう!」

 階段をおりて冷蔵庫からジュースを取り出す。食器棚から取り出したコップへ注いで手に持ち、二階へ戻ると、優弥君は想像通りにビデオカメラを持っていた。

「これ少しの間、貸してくれない?」

 出し抜けに言ってきた優弥君に、僕は「いいよ」と返事した。どうして貸してほしいのかは重要じゃなくて、想像通りに優弥君がビデオカメラに興味を示してくれたことのほうが、僕には重要だったから。

 隣に並んで、ボタンを示す。赤色の電源ボタンの下、英語で「power」と書いてあった。

「まず電源を入れたら、横のボタンを押して、こうするともう、はい、録画中だよ」

「本当?」

「見てて。ここを、こうすると、さっきまで撮影した動画が見られるんだ」

 タッチパネル機能もついた液晶パネルを操作して、フォルダから動画を再生する。

 すると、ついさっきの「本当?」という優弥君の声や僕の声とともに、床を映す映像が流れた。

「すっげぇ! こんなに簡単なんだ。ね、ね、撮ってもいい?」

 興奮した声で言う優弥君に「いいけど……」と僕は返事をする。電源をオフにしてから手渡すと、優弥君はさっき教えた通りの手順で電源を入れて、僕のほうへカメラのレンズを向けた。

「僕を撮るの?」

 思いがけなくて、笑いながら聞いてしまった。優弥君は、楽しそうに笑い声をあげる。

「そうだよ」

 今まで、何かを撮りたいと思ったことはなかった。でも、笑っている優弥君を撮りたい、そんな気がした。

「僕も撮るよ」

「うん」

「じゃあ庭で撮ろう」

 普段は庭に出ない。バスケットボールやキャッチボールができるように、とお父さんが整備だけはしておいてくれてある。けれど、使ったことはほとんどなかった。する相手が、今まではいなかったから。

 カメラの中で、優弥君がバスケットボールをドリブルする。

「よーし、えいっ!」

 リングの端をくるりと回って、バスケットボールがころんと落ちた。その瞬間まで撮ると、優弥君はこっちを見た。満面の笑みで、僕に手を振る。

「いい調子!」

 叫び返した。クラスメイトがバスケットボールをしていても、僕は顔を出したことが無い。いいや、1年生の頃はだせたんだ。あいつらにいじめられてから、出せなくなった。

 でも、もういいや。

 優弥君が、彼が、いてくれる。

 野球ボールが転がるさまを撮影しながら、優弥君が聞いてきた。

「このカメラ、本当に借りていいのか? だってこれ、録音機能まである! 高いやつだろ?」

「うーん、お父さんにもらったから、値段は分かんないんだ。でも嘘はつかないよ。そのうち返して」

「……ありがとう。絶対返す」

 にっかりと笑った優弥君に、僕も頷き返した。

 彼がいてくれるから、だから。だからもう。


 ──── もう、いいや。



===



 少年はハッとして、顔をあげた。

 薄紅に染まる空は、もうすぐ夕暮れを迎えるだろう。そして数分とたたないうちに、夜が来る。

 前を見る案内人の向こう側を通り過ぎて、堤防と河川敷を繋ぐ坂道を2つの影が下る途中だった。チョコレート色の舗装が成された人工的な坂道に、歩幅の違う足音が響いている。

 2つの影へ、少年は胸をかきむしられるような懐かしさを覚えた。

「お父さん、お母さん」

 少年の父親は手に、花束を持っていた。少年の父親は驚いたような声で「優弥君?」と、草むらに座り込む優弥君へ問いかける。優弥君が顔を上げて、目を丸く見開くと、飛び跳ねるように立ち上がった。

 彼の衣服はボロボロに破け、おまけに顔には青あざが付いている。誰かと喧嘩をしたのだ、と分かる姿をしていた。

「……え?」

 少年は2つのことに驚いた。

 まずは、優弥君がボロボロなこと。どうしてボロボロなまま、ここにいるのか分からない。

 2つ目は優弥君を父親が知っていたこと。優弥君が家に遊びに来た折も、その後も、優弥君と父親が知り合うようなきっかけが思い当たらなかった。

「なんで、お父さん、優弥君のこと、知ってるの?」

 呟いた少年に応えたのは、案内人の持つ本だった。ページがめくれて、文字を浮かび上がらせる。

「病院で知り合ったのよ」

 案内人が言う。少年は彼女を見上げた。

「病院? お父さんの勤め先? でも、なんで優弥君と?」

「優弥君の母親は重い病気で、あなたのお父さんが勤めている病院に入院してて、そこで2人は知りあっている」

「そうだったんだ……全然知らなかった」

 父親と優弥君は、何か話をしているらしかった。少年の母親が優弥君へ頭を下げて、慌てる彼に笑顔を見せている。

「教室で突然声をかけたのは、あなたのお父さんが『友達になってやってくれないか?』とお願いしていたから。苗字を優弥君が気にかけたのは、あなたのお父さんと苗字が同じだと気が付いたため。そしてあなたに、友達になろう、と声をかけたのよ」

 少年は戸惑いを隠せなかった。思わず案内人とつないだ手に、力を込めてしまう。

「知らなかった」

 河原に流れる水音に消えてしまいそうなほど、小さな声だった。はらり、と本のページがめくれる。

 ページには、こう書かれていた。


 ──── あの日、朝からいじめられた。


 ざわざわと草木が揺れる。風は音を立てた。

「優弥君がいつもは僕と話すのに、挨拶をするのに、遅刻してきて、僕のすぐそばを通ったのに! 優弥君は、何にも言わなかった。僕が怪我をしてたのに、なにも。それで……あの3人は、僕を優弥君が見限ったと思ったんだ……そしたら、優弥君。あの日に限って……早退してった」

 案内人とよく似た静かで抑揚のない声を出し、少年は語る。

「学校の帰り道に僕は1人になったとこをあの3人に見つかった。殴られて、蹴られて、お金を持って来いって言われて……でもお金をもってっても、何の解決にもならない。誰も僕を助けてくれない、だれも僕を見てくれない、だれも、優弥君も」

 満々と水をたたえた川は黒々とした深い色をしており、川底は見えない。

「それで、あなたは、あの橋から飛び降りたのね。この川に」

 案内人が静かに言う。少年の顔からは、表情が消えていた。

「あなたは飛び降りた時、優弥君のこと、どう思ったの?」

 問いかけた彼女のほうを見ることなく、少年は、

「見捨てられたと思った」

 と、小さな声で答えた。

 案内人は再度、本のページへ視線を移す。異なる文字が列となり、文章となり、景色を描き出した。

「優弥君が遅刻した理由も、早退した理由も、優弥君のお母さんの容態が急変したからだった。だからあなたに何か言う余裕がなかったの」

「……そうだったんだ」

「優弥君、あなたのお葬式の後、泣いて謝っているわよ。あの時『がんばれ』って言えなかったって」

 少年は目元にぐっと力を込めた。息をのむ音が聞こえる。

 優弥君は優しかった。

 どうしようもなく。

 もし自分が優弥君と同じ立場なら、と考えてしまったのだ。母親が死ぬかもしれない、世界が終わるような感覚を味わっている最中に、はたして、他人に自分は気を遣えるだろうか。

 いいや、できないだろう。

 そう、結論付けてしまう、優しい彼だった。

「なんだか辛そうね」

 不思議そうな声で案内人が言った。彼女は少年とつないでいた手を引き寄せると、反対側の手で握りなおす。そして、空いた手で、少年の背中をそっと撫でた。

「……っ」

 力がこもっていた少年の目元に、涙の粒らしきものが膨らんだ。ぽろぽろとでてくるそれは、あとからあとからとめどなく、少年の目から生まれて、宙へ浮かんで、消えていく。

 涙ではないのだろう、と少年は思った。涙は下へ落ちていくはずなのに、その“何か”は宙へ浮かんで消えていくから。

「あら、見て」

 案内人が呟いた。涙らしきもので霞む視界を何とかぬぐい、少年は顔を上げる。

 草むらに、優弥君以外の人間がいた。倒れたまま草むらにいたせいで、少年の両親は気が付かなかったようだ。驚いた様子の2人は、彼らの顔を見て、ひくり、と表情を硬くした。

 数は3人。彼らは顔を上げると、優弥君を睨みつけるようなそぶりをして、ゆっくりと坂道を登っていく。

 皆、服は破け、手には擦り傷。顔は青や紫色に腫れあがっていた。一目見て、誰かと殴り合いの喧嘩をした、と分かるような状態だ。状況から見るに、優弥君が彼らと喧嘩したのだろう。

 彼らは、何も言わなかった。

 父親の花束を持つ手が、小刻みに震えている。母親は彼らに、ちらりとも目線をくれなかった。

 彼らが坂を上がり、道を通り過ぎ、川の向こうまで行ってしまったところで優弥君が動く。

「……よし」

 彼は草むらをかき分けると、ビデオカメラを取り出した。

 少年から借りたビデオカメラだ。元の持ち主である父親も、すぐに気が付いたらしい。それは、と彼の口元が小さく動いた。

「これ、借りてたビデオカメラです」

 赤いボタンを押した彼の指の下、電源が入ったビデオカメラの画面に、メニューが写る。録画した内容を見る画面へ移動し、彼は動画を1つ選ぶと再生させた。


「僕を撮るの?」


 少年の声が、河原に響いた。笑顔で尋ねる少年へ、優弥君が「そうだよ」と答える声が響く。続いて庭に出た二人がバスケットボールをする声や、お互いを撮影し合う様子。地面の蟻を撮ってみたり、キャッチボールをする光景を、どうやったらぴったり画面に収まるように撮れるか話し合う様子が映し出されていく。

「入院しているお母さんに、見せたくて。友達と、遊んでるよって……」

 優弥君がぽつりと言った。

 少年の両親は眉間に力を込めて、泣きながら映像を見ている。在りし日の、元気だったころの息子の姿。笑顔ではしゃぐ息子の姿が、どれほど、2人にとって慰めとなったかは分からない。

 映像が止まったところで、優弥君は別の操作をした。映像が記録されている場所ではなく、音声録音のフォルダを開く。

 かろうじて、案内人と少年の元まで、音声が届いた。

「……3人とも呼び出した理由は分かってるよな?」

 静かな優弥君の声が響く。

「はぁ? なんだよ転校生」

「とぼけても無駄だ。あいつをいじめていただろう!」

 怒鳴り散らす優弥君の声に、3人が一斉に笑い出す。

 まるで自殺に追い込んだこと自体を、勲章とでも考えているかのような声だった。

「死人に口なしだっけ、こないだの国語で習ったじゃん」

「それー。お前マジ頭イイわ。あいつ馬鹿だよ、あっさり死ぬんだぜ」

「死ぬほど辛くなるなんて、よわっちいやつ」

「でもこれで、西町の先輩にデカい顔されなくて済むぜ。お前も"  "みたいにいじめてやろうか、って言えるんだもん」

 はっきりと、少年の名前が口にされた。

 すると優弥君が、怒りをこらえた声で言う。

「おい。あいつがお前たちに何をされたのか、俺が知らないと思うのか?」

 優弥君は3人の少年の名前を、順番に呼んだ。

「クラスのやつらは証言に協力してくれる。お前たちに、何時いじめられるか、びくびくしてたんだからな!」

 続いて響くのは、肉を打つ重い音と、ぶっ殺してやるなどと叫び散らす少年たちの声だった。優弥君はそれに言い返すことない。ただ、ただ、彼らに殴り掛かっているだろう姿が想像された。

 何分過ぎただろう。

 やがて風音と河原のせせらぎだけが録音されるようになったあと、ずいぶん時間が立って「優弥君?」という少年の父親の声が入った。録音はそこで止まる。

「あいつらが、いじめをしていた証拠です」

 優弥君は泣いていなかった。ボロボロになった体のまま、まっすぐに少年の両親を見つめて、ビデオカメラを差し出す。

 父親はしばらく黙っていたが、やがて。そのビデオカメラを受け取り、優弥君に深く頭を下げる。

 あのビデオを父親がどうするか、少年には分からなかった。

「優弥君、傷の手当てをしましょう」

 少年の母親が言うと、小さく、優弥君は頷く。彼は唇を真一文字に引き結んだまま、何も言わない。

 少しだけ少年は安心した。案内人の本のように、何もかもが浮かび上がっていたら、今頃自分はここにはいないと思ったから。きっと家で、優弥君と遊んだ話を、両親に語って聞かせていただろう。

 河原に風が吹き抜ける。

 少年は頬に残った、涙のようなものをもう一度拭った。

「そろそろ行きましょうか」

 彼女が手を引く。案内人に頷いて、少年は歩き出した。

 案内人は一歩、足を階段を上るように動かす。すると先ほどまでの彼女の服が崩れ、真っ白なドレスへと変わり始めた。

 天へ上る階段を踏みしめて、少年は歩く。その目はまっすぐに前だけを見つめていた。

 おそらくは、3人へ挑んだ優弥君が、向けていただろう眼差しを思いながら。

 夕闇が迫る空は茜色のヴェールを脱ぎ、暗い紺色に変わりつつあった。

 少年の母が、ふ、と河川敷から堤防のほうを見上げる。

「ああ……」

 ため息交じりの声を漏らし、彼女は目を潤ませた。真っ白なドレスを着た美しい女性に手を惹かれた、我が子の背中がある。凛と前を向いた、我が子。

 何も言えずに彼女は、夫の花束を持つ袖を引っ張る。

 夫が妻を振り返ると、彼女は夜空を見上げていた。彼は妻の視線をたどり、目を見張る。

 父にも見えたのだ。我が子の姿が。

 天へまっすぐに歩いていく彼を先導するのは、女性。純白のドレスを身にまとい、天使を思わせる。

 優弥君も2人の様子に気が付いて夜空を見上げた。

「っ……がんばれ、がんばれよっ!」

 彼は歯の奥から絞り出すように、声をかけた。彼自身へ言い聞かせているようにも聞こえる声だ。

 星空のかなたへ消えていく『友達』は振り返らない。

 それで、優弥君はただ、ただ、彼へ心の底からエールを送る。

 

 星の美しい、静かな夜だった。




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