5-10『死刑宣告』
エヴァは白シャツにジーンズ、それにブラウンのジャケットを羽織っているだけのシンプルなファッションだったが、それをオシャレに着こなしていた。
「は、はいそうです」
織衣もエヴァの突然の登場に驚いて吃ってしまっていて、その横で穂高は言葉を発することが出来なかった。今は何か言葉を取り繕うとも演技が出来そうになかったからだ。
エヴァはスタスタと絵の前まで歩くと、値札をベリッと剥がして壁にかけてあった絵をヨッと取り外すとそれを織衣に渡した。
「それ、貴方にあげるわ。お代はいらないから」
「え、えぇ!?」
絵を渡されてプルプルと震える織衣の横で穂高も驚いていた。この絵の価格、一万五千円はツクヨミの任務で給料を貰っている穂高や織衣にとっても十分に大金である。例え数億、数十億もの価値がつけられる絵画もあると言っても、この絵は織衣が青ざめた表情で財布を握りしめるぐらいの価値があったはずだ。
「こ、これは貴方が描いた絵なんですか? こ、これ、とても良い絵だと思うんです、そんな絵をタダでなんて」
「ううん、私は貴方のその気持ちだけで嬉しいから。あ、持ち運びにくいだろうからケースに入れてあげるわ」
エヴァは画廊の隅にあったカウンターに穂高と織衣を連れて行くと、絵が丁度入りそうな大きなケースを取り出し、絵を布で包んでからケースに入れていた。
「私にはね、絵の価値なんてわからないの。勿論画家という仕事は、その絵を仕上げるのにかかった時間と材料費を考えて計算するものだけど、芸術の価値を決めるのは作者じゃなくてそれを見る人だから」
「で、でもいくらなんでもタダってわけには……」
「私はこれを仕事にしたくないの。私の絵を見た人が何を感じてくれるか、それが気になるだけ。
あ、裏にアトリエがあるんだけど、良かったら見ていく?」
「えぇ、良いんですか」
織衣がこんなに感情を揺さぶられているのを穂高は初めて見た。織衣は穂高の方をチラッと見たが、穂高は無言で笑顔を返しただけだった。どうやらこれが一応任務であるということを織衣は思い出したようだが、まぁ支障はないだろうと穂高は判断した。エヴァがこの画廊にいることも確認出来たし、少しぐらい時間を潰しても問題ないだろう、と。
エヴァは絵をケースにしまうと、側に置いてあった鞄を持って穂高と織衣をアトリエへ招いていた。
アトリエ、もといエヴァの作業場にはイーゼルや筆などの画材道具が並んでいるのは勿論のこと、デッサン画や様々な宗教の書物や分厚い画集が本棚から溢れ出てテーブルや椅子の上に大量に積まれていたが、ただ物が多いというだけで散らかっているようには見えなかった。穂高のイメージに反し絵の具が飛び散っているなんてこともなく、筆やパレットに年季が入っていると感じるぐらいだった。エヴァは本を少し片付けて穂高と織衣が座る分の椅子を用意し、二人はその椅子に腰掛けた。エヴァはさらに二人に紅茶を用意すると、レコードで音楽を流し始めた。それはアントニオ・ヴィヴァルディが作曲した協奏曲集『ラ・ストラヴァガンツァ』だった。
「そんなに私の絵を気に入ってくれたのは貴方が初めてよ。お名前は?」
「白雪……八雲、です」
副メイドから与えられたコードネームは白雪だけだったが、織衣は咄嗟に下の名前を作り出していた。
「じゃあ白雪さん、貴方も絵を描くの?」
「はい、そうですね」
穂高は二人の会話の邪魔にならないよう黙って紅茶をすすっていたが、穂高は織衣が絵を描いているのを見たことがない。だが不思議と織衣は絵を描くのが好きだった、という事実だけが何故か前から穂高の頭の中にあった。出灰で習う芸術科目は音楽、美術、書道、工芸から選ぶ選択科目だが、確かに織衣は美術選択だったのだ。ちなみに穂高は音楽を選択していた。
「でも、私はあまり聖書とか神話には詳しくなくて……風景とか人物とか、写実画ばかり描いてました」
「じゃあクールベとかミレーも好き?」
「は、はい。でも、見るだけならどんな絵も好きです。でも、最近はこういうルネサンス期のような宗教画を描く人って珍しいと思うんですけど、その……どうして貴方は宗教画をお描きに?」
こうやって普通に緊張している様子の織衣を見るのは穂高にとって新鮮だった。穂高は二人の話を聞いているフリをしながらアトリエの中を観察していた。
「私は子どもの時に、バチカンでミケランジェロの最後の審判を見て、自分もこんな絵を描きたいと思ったの。色んな教会や美術館にイエスを描いた絵が飾られていたけど、彼が何か奇跡を起こせば大げさに喜ぶ人がいて、彼が処刑されたらヒステリーを起こしたかのように嘆き悲しむ人がいる。勉強のために色んな絵を見て回っている内に、私にはそれが彼を偉大に見せるための演出にしか見えなくなってきたの。私の家はカトリックだったけど、私自身はそこまで宗教に興味が無かったから、そういうことを思ったのかもね」
「だから、あの磔刑の絵はあえてそれの逆を描いたんですか?」
「あれは……そうね。イエスの死は誰もが悲しむ出来事だっただろうけど、それはあくまで多くの人であって全員が悲しんだわけじゃないと思うの。その処刑を笑いながら見ていた人間もいたはずよ、公開処刑なんて見世物みたいなものなんだから。全員の意見が一致することなんてあり得ないわ、全員から完璧に好かれている人なんていない。だから、少しぐらい嫌われている方が親近感が湧いてくるものだと私は思ってる。あれをルネサンスの時代に描いてたら、良くて破門、下手をすれば異端審問で火炙りってところね」
「じゃあ、他にも……」
その後もエヴァと織衣は美術談義を続けていた。どうも二人は馬が合うようだが、美術に対して造詣のない穂高は一人蚊帳の外という状態だった。このアトリエの中を観察しても、本当に絵を描くための作業場というような感じでどこかに武器が隠さられているとか隠された通路が存在するとか、特に何も細工が施されているようには見えなかった。
その容姿や立ち振舞いも含めて、彼女はとても十字会幹部であるオスカル・ヴェントゥーラの恋人とは思えなかった。話を聞いている限り、ただ美術に対して勉強熱心な学生だ。いや、とても周囲に自分が十字会の幹部と交際しているだなんて言えないだろうが、権勢を振るっているようにも見えなかった。
二人はまだ美術に関する話を続けていたが、どこにもオスカルの存在を醸し出すような話は出て来ない。印象派がどうだとかロマン主義がどうだとか、穂高にとっては眠くなりそうな話ばかりしている。
しかし──エヴァと話している織衣は楽しそうだった。意外な織衣の一面、というかそもそも穂高は織衣が笑ったところを一度も見たことがなかった。今の織衣も笑顔というわけではないが、ツクヨミにいる時とは別人のように見える程だった。
公の場(学校)での織衣は教師達年上の人間に敬語を使うが、渡瀬や詠一郎などツクヨミの先輩に対して敬語を使わないため、穂高にとっては敬語を話している織衣が新鮮だった。いや、織衣はただエヴァが自分より年上だから、という理由ではなく、本当に尊敬している人物と話しているように見えた。
それを見た穂高は、自分もそうやって織衣を楽しませることが出来ないか考えようとしたが、織衣はサッカーになんてサラサラ興味が無さそうだし、映画や美術の話題にはまだまだついていけそうになかった。
「……というわけで私は日本への留学を決めたの。イタリア、いやヨーロッパとアジアは文化圏も宗教観も違うから新しい視点で絵を描けると思ったから。このギャラリーは昔お世話になった人が安くで貸してくれているから使わせてもらってるけど、私はあまり目立つのが好きじゃないからあまり店先を飾らないようにしてる。絵が売れるのも良くて一ヶ月に一枚っていうぐらいね」
結局、このアトリエでエヴァと織衣は三十分程話していた。まだ夕方ぐらいだが、いい加減外で待っている副メイド達がしびれを切らす頃合いだろう。
すると、突然織衣の携帯が鳴り始めた。おそらく心配になった副メイドが電話をかけてきたのだろう。織衣は残念そうな表情をしてエヴァに一言断って、副メイド達に今の状況を説明するために外へ出ていってしまった。残された穂高も長居する理由はないためエヴァに別れを告げて椅子から立ち上がろうとしたが、エヴァは笑顔で穂高に問いかけた。
「貴方のお名前は?」
「葛城めだかです」
「葛城さん、貴方は絵に興味がある?」
「彼女程はありません」
「フフ、そうみたいね」
穂高がさっきから織衣達の話を全然聞いていなかったのはエヴァも気づいていただろう。嘘を言った所でどんな絵が好きか聞かれても特に思い浮かばないため穂高は正直に答えていた。
「だって貴方は──」
するとエヴァは椅子から立ち上がって穂高の前まで来ると、今度はしゃがんで急に穂高の両肩を掴み、穂高に微笑みながら言った。
「──私を殺しに来たんでしょ?」




