1-3『邂逅』
高架橋を回送電車が高速で通過していき、巻き起こった風が周囲の草木をなびかせていた。
彼の顔は暗くてよく見えない。だが髪は肩ほどまで伸ばしていて、細身の体型から少女かとも思ったが背はまあまあ高く、男子の学生服を着ていたため少年だと織衣は認識した。
「何してるの?」
もう一度、少年が織衣に問う。
『織姫、まだ攻撃は控えてください。彼が一般人の可能性もあります。とりあえず、何か……嘘でも取り繕ってください』
あまりにも投げやりな注文だ。普段は任務中に一般人とばったり出くわすことなんてあってはならないし、織衣も任務中にこうして鉢合わせるのは初めてだった。
どんな嘘をつけばいい?
バイト帰り? とっくに条例で定められた時間は過ぎている。
ただの散歩? いや、夏の深夜に白いマフラーと黒いコートと黒い仮面を身に着けて、背中に太刀を背負った少女が散歩をしている世界観なんてファンタジーでもありえない。
「まあいいや」
しかし少年はいかにも怪しい織衣を問い詰めることはなかった。織衣からすれば彼だって十分に怪しい存在だ。例の吸血鬼の可能性もあったが、彼は織衣に対して何も仕掛けようとしてこないし、とても人を殺せるような人間には見えなかった。
織衣は警戒して黙り込んでしまっていたが、構わずに彼は話を続ける。
「最近、ここら辺で若い女の人が殺されているらしいよ。血を吸われてね。
死にたくないなら、早く帰った方が良いよ」
彼は織衣にそう警告して、彼女の方へスタスタと歩み寄る。
「……親切にどうも」
身を引きながら、織衣は少年の動きを警戒していた。
「夜は出歩かない方が身のためだから」
少年は笑っていたように見えた。少年はそのまま織衣の側を通り過ぎていく。
夜は出歩かない方が良い。それは確かだ。いつ何時、どんな事件に巻き込まれるかわからないし、治安部隊にだって怪しまれてしまう。
じゃあどうして、彼はこんな時間にこんな場所にいたのだろう?
『おい織衣』
「どうしたの?」
突然詠一郎から通信が入った。
『今の奴、どこに行った』
すぐに織衣は後ろを振り返った。
彼の姿はない。織衣はすぐに近くの曲がり角まで行って確認したが、彼の姿を見つけることは出来なかった。
「……いない」
『消えたぞ』
「消えた?」
神隠しにでもあったというのか。こんな短時間で織衣が見失う程の距離を移動できるとは思えなかった。
『織姫、周囲の監視カメラの映像を確認しても彼は見当たりません』
今や住宅街でも軒先に監視カメラが設置されている時代だ。まあ、個人で管理しているはずの監視カメラにもアクセス出来る方法をツクヨミが持っているのも恐ろしい話だが。
「もしかして能力者?」
『さあな。お化けかもしれん』
「別にお化けなんて怖くないから」
今の少年がもしも若い少女だったら、最近渋谷で起きている事件の被害者の亡霊という捉え方も出来なくはなかった。だが織衣はそんな非科学的な存在を全く信じようとはしなかった。自分が非科学的な力を持っているというのに。
『だが、今の奴が例の吸血鬼だったのかもしれねぇな』
吸血鬼、もとい殺人鬼の人物像は明らかではない。今のような少年の可能性だってゼロではない。
「だったら私を標的にするんじゃ?」
『タイプじゃなかったんじゃねぇか? 見かけた女を片っ端から襲ってる可能性もあるが、奴さんにも好みがあるかもしれないだろ。顔か体かは知らないが』
織衣は自分が標的にならなかった理由を考えてみた。薄暗いと女は可愛く見えるという、それは悪口に近いものだが向こうも織衣の顔はそんなに見えていないはずだ。体はどうかと、織衣は自分の胸部をチラッと見た。
腹が立った。そして誓う。
「わかった詠さん。明日の朝は覚悟してて」
『ハァ!? 別にお前の顔が体がどうだとは言ってねぇだろ!?』
「はいはいセクハラモラハラ」
『冤罪だ! どうして俺が目覚めたら蜘蛛に出迎えられないといけねぇんだよ!』
「朝蜘蛛は殺しちゃいけないからね。く・れ・ぐ・れ・も」
『……え、マジで言ってんの?』
それは冗談に過ぎなかったが、珍しく慌てている様子の詠一郎を面白く思いながら、織衣は通信を切った。どうやら彼も蜘蛛は苦手らしい。そもそもこの組織で蜘蛛を好んでいるのは織衣ぐらいしかいない。
「誰か、助けて!」
詠一郎とふざけた会話をしている場合ではなかった。織衣はどこからか聞こえた女性の叫び声を聞いてハッとした。
「どこ……?」
「こ、 こっち!」
織衣が声がした方へ向かうと、ビルの解体現場前の歩道で街路樹にもたれかかって倒れる、華奢な若い女性を発見した。
「血……!」
ホルダーに入れていた小型の懐中電灯で女性を照らすと、彼女は首を噛まれていたようで、そこから大量の血を流していた。雨の中で体温も下がり、衰弱しているように見えた。
「た、助け……」
「今、救急車を呼ぶから。オペ、聞こえる?」
『はい、医療班を手配します。ターゲットが付近にいる可能性もあるのでご注意を』
「うん。一旦応急処置をするから」
ある程度の傷ならば織衣は蜘蛛糸で縫合し治療出来る。だが深い傷は治療が難しく、翌日傷口が開いたぞと他のメンバーには不評だ。
そして、不評な理由はもう一つ。
「ひぃっ!?」
治療の際、患者の体に大量の蜘蛛が這いつくばるのだ。織衣自身も糸を操作できるが、織衣が生み出した蜘蛛の助けも借りて治療を施す。
「我慢して」
彼女が落ち着き次第、織衣は情報を聞き出そうとしていた。見た目の特徴だけでもわかればオペレーターや副メイドがどこからかそれらしい人物を見つけてきてくれる。被害者は全員殺されており、目撃者もいなかったことから犯人像は謎に包まれていたのだ。この状況を鑑みると、詠一郎が言う通り先程の少年が犯人だった可能性も高い。
だが、織衣は違和感を感じた。何かがおかしいと気づいた。
被害者は全員殺されていたはずなのに、どうして彼女は生きている────?
「ばーか」
殺される。
死ぬ。
耳に入ったおぞましい声が、自分の首元に迫る彼女の鋭利な牙が、織衣の生存本能を呼び起こさせる。
「私が獲物を生かしたまま逃がすわけないじゃ~ん」
ガバッと織衣は身を引いて、ホルダーからナイフを取り出して戦闘態勢に入る。
あと一秒。あと一秒遅れていたら、確実に首を噛まれていた。豹変し右目に青い光を灯した、おぞましい表情をした女、もとい吸血鬼に。
織衣は背中に携えていた太刀に手をかけた。だが太刀を振るうには街路樹や看板が邪魔をする。それに捕まえることを目的にしているため、安易に斬りかかるわけにもいかない。織衣は掴みかかろうとしてくる吸血鬼に蹴りを入れ、またすぐに後退した。ビルの解体現場の中に入り、そこを戦場にすることを決めた。
織衣が後退りをする度、ぴちゃん、ぴちゃんと水たまりを踏む。まだビルの解体は終わっておらず、瓦礫やショベルカーも残っているが十分な広さだ。吸血鬼もじりじりと近づいてきて、その距離は五メートル程。織衣にとっては十分な間合いだが、それは向こうも同じかもしれない。
「へぇ、ただのひよっ子というわけでもなさそうね。最近噂の能力者狩り?」
織衣は吸血鬼の問いに答えず、次々に手から蜘蛛を生み出して陣地の構築を急ぐ。吸血鬼も織衣と同じく右手にラピスラズリの装飾が施された黒い手袋を装着していた。推測通り血を操る類の操作系だろう。操作系は扱いやすいが相手に能力がバレやすいという欠点がある。
「誰かって聞いてんのよ!」
そう叫ぶと、吸血鬼は包丁を取り出して自分の腕を斬りつけた。中々にヒステリックな光景だが、吸血鬼は自分の体から噴き出る血液から赤い鉈のような武器を創り出し、それを振り回しながら織衣に接近してきた。
だが雑だ。鉈を振るう際に無駄な動きが多い。織衣の同級生の方がまだまともな動きをする。織衣がナイフだけでその攻撃を捌ける程だ。そして時間が経てば経つ程、織衣の陣地は強化されていく。織衣は鉄骨がむき出しになったビルの最上階に向けて蜘蛛糸を張って体を引っ張り上げた。最上階である八階部分に着地し、織衣は下を確認した。
「捕らえろ!」
織衣の合図と共に、瓦礫の山やビルの鉄骨など、数カ所に展開していた蜘蛛達から下にいる吸血鬼に向かって一斉に蜘蛛糸が放たれた。だが簡単には捕まえられず、すぐに躱されてしまう。
「あぁもう! 小賢しいのよ小娘がぁ!」
すると吸血鬼は織衣の方に向かって鉈を振り上げた。すると鉈の先から赤い刃が放たれ、織衣は思わず回避したが、刃は織衣が立っていた鉄骨を真っ二つにし、足場が崩れて織衣は骨組みぐらいしか残っていないビルの一階部分まで落とされた。しかし間一髪の所で上から糸を吊るしていたため、着地の衝撃はそれ程なかった。
「さあさあかかってきなさいよ!」
無事に地面に降りれたことに一息つく暇もなく、吸血鬼はビルの中へ突き進んできた。鉈を向けてきた吸血鬼に対し、織衣はホルダーから数本のナイフを取り出して、それらを投げる素振りを見せた。
だが織衣はナイフを投げなかった。身を引いて守りに入った吸血鬼の腹部に、強烈な蹴りを一発。クリーンヒットしたはずだったが、当たった感触がなかった。
当たっていたはずだ。しかし吸血鬼に実体はなく、その真っ赤な体を貫通しただけだった。
どうやら、織衣が戦っていたのは血液で組成された人形だったらしい。
「こっちよ」
織衣が声が聞こえた方向を振り向くと、二階の鉄骨から飛び降り、鬼の形相で襲いかかってくる吸血鬼の姿を捉えた。
が、吸血鬼は織衣に近づく前に足を止めた。いや、止められたのだ。
「近づけないでしょ?」
織衣と吸血鬼の間には蜘蛛の巣が構築されていた。吸血鬼がそれ以上近づこうとすると蜘蛛の巣に捕まるだけだ。着々と罠を張っていた織衣の術中に女はまんまと嵌ったが、それは足止め程度に過ぎなかった。切られれば糸は意味をなさなくなってしまう。
「鬱陶しいわねぇ!」
女は蜘蛛の巣の糸を全て鉈で切ってみせる。威勢はいいが、今度はそこら中に蜘蛛糸が張られていないか警戒しているようだった。残念ながら、織衣の能力はそう素早く罠を構築できる程便利なものではない。ある程度のインターバルを要する。
それでも、相手に見えない恐怖と戦わせるには十分だった。
「動くな」
そして、罠の構築は完了した。織衣は太刀を抜いて吸血鬼に向ける。
「一歩でも動けば、貴方の体はバラバラになる」
目に見えないほどの極細の蜘蛛糸が、吸血鬼を囲うように張られていた。今すぐにでも織衣が操作すれば、その体を切り刻むことだって出来る。このビルを囲うように蜘蛛の巣は構築されている、そのためもうこのビルから出ることは出来ない。
が、尚も吸血鬼は余裕そうに笑っていた。
「残念、終わってんのはアンタの方よ」
織衣の目の前が赤く染まった。吸血鬼は自ら、織衣の罠にかかりに行ったのだ。
「え……?」
織衣がその光景に驚くと同時に、吸血鬼の体から無数の赤い刃が織衣に向かって伸びていた。今度は逆に、織衣が動きを封じられたのだ。織衣は上下左右から無数の赤い刃の切っ先に囲まれ、一歩でも動けば今度は織衣が切り刻まれてしまいそうだ。
吸血鬼は待っていたのだろう、彼女が振りまく血液が雨によって広がっていくのを。血液さえあれば、彼女はすぐに戦いを終わらせることが出来たのだ。今は雨が降っており、地面には水たまりがある。この女が血液を操る能力を持っているなら、水たまりに浸透して広がっていく液体をも武器に出来る、ということか。
吸血鬼は甲高く笑いながら織衣の元に歩み寄り、織衣がつけていた仮面を乱暴に剥ぎ取り、赤い刃の中から織衣の顎に触れてニヤッと笑う。
「どこの誰かは知らないけど、アンタ処女?」
まさかの副メイドの推測通りの犯人像。織衣はその問いに何の反応も示さずにいた。
身動きがとれない中で、この状況を打破する方法を織衣は必死に考えるが、そういえば詠一郎がいたことを思い出す。だが彼が現れる気配がない。これぐらい自分で対処しろということなのか? もう死にそうなのに?
吸血鬼は口を大きく開き、織衣に鋭利な牙を見せた。その立派な牙は織衣の息を荒くさせるほど、死への恐怖を煽るには十分な形をしていた。
三日前のことを思い出す。あの時も織衣は死にかけた、いいやほぼほぼ死んでいたようなものだった。再び死に直面して、織衣はその恐怖を思い出した。
「死にたく、ない……!」
織衣がそう哀願すると、吸血鬼は恍惚の表情を浮かべて、織衣の首に口を近づけた。
「さぁ、綺麗な首を拝見させてもらおうかしら──」
このまま、自分も血を全て吸われて死んでしまうの?
こんなあっけなく自分は死んでしまうのかと、織衣は絶望した。しかし、織衣が首に巻いていたマフラーに触れた吸血鬼の動きが止まった。織衣の周囲を囲っていた赤い刃も消えた。
気づくと、織衣の目の前で吸血鬼は地面に膝をついていた。その胸には光り輝く剣が背後から刺されていて、ドバドバと血が流れ出していた。
「な、お前は……!?」
吸血鬼といえども、やはり心臓は急所だったか。心臓に杭を打たれるのが弱点だったのだろう、いや吸血鬼じゃなくてもそこは弱点である。
「だから、危ないって言ったでしょ」
吸血鬼の背後に佇んでいた彼は、吸血鬼に有無を言わさず思いっきり剣を斬り上げた。胸から脳天まで真っ二つに斬られた女は、大量の血を噴き出しながら地面に倒れ、水たまりを真っ赤に染めていた。
惨たらしい光景だった。さっきまでこの世に存在していた生き物とは到底思えなかった。
だが、この恐ろしい光景はどこかで見覚えがあった。織衣は顔を上げ、彼の顔を見る。
何度、彼を恐ろしいと思ったか。
何度、彼をおぞましいと思ったか。
「……能力者、狩り?」
彼は、織衣の前に再び現れた。