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ウォントビーアヒーロー  作者: 紐育静
第四章『誰もが蜘蛛を愛してる』

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4-21『普通の少女、姫野織衣』


 目覚めの良い朝だった。カーテンを開けて朝日を浴びようとすると、また外は真っ白に染まっていた。寝癖で少しボサボサになった長い髪を櫛で解かし、セーラー服に着替えて身だしなみをチェックし、階下のダイニングへと向かう。


 「あ、おはよー父さん」


 黙々とご飯をよそっている父、姫野紀行(のりゆき)は、織衣の方を見てコクリと頷くと、食卓の準備を続けていた。

 寡黙な、いや寡黙にも程がある紀行が喋る姿は珍しいものだ。こんな人間がどうして高校教師なんかやっているのだろうと、織衣は幼少の頃から思っている。教師としての評判もあまり良いものではない。


 「あ、オリちゃん。目玉焼きがまだ焼き上がってないのー」


 キッチンから包丁を持った母、姫野綾子(あやこ)が慌てた様子で姿を見せる。お願いだから包丁を持ってうろちょろするのはやめてほしいと織衣は何度も母に言っているが、改善される気配はない。


 「焼くだけならやっておくよ」

 「ありがとねー。お兄ちゃんはまだ起きてない?」

 「さぁ。焼き終わったら見に行く」


 いつもは織衣より早起きしている兄が遅れるのは珍しいことだった。織衣は目玉焼きをサッと焼き終えると、二階へ上がって自分の部屋の向かい側、茶色の扉をコンコンと叩く。


 「絃兄ー。起きてるー?」


 返事はなかった。だが部屋の中から物音が聞こえるため起きてはいるらしい。


 「うわぁ」


 ドアが開くと、思わず織衣は声を上げた。

 髪はボサボサ。目元には真っ黒なクマ、そして充血した目。いつもはしっかり者で制服なんか着崩さないのだが、ネクタイすらまともに結べない程に気分が優れていない兄、姫野絃成(けんせい)の姿を織衣は初めて見た。


 「うわぁ……どしたの?」

 「……心配には及ばない」


 そう言って絃成はスタスタと織衣の前を通り過ぎ、階下のダイニングへと向かってしまう。

 明らかに様子がおかしい。まさに絃成(げんなり)と……と織衣は思ったがしょうもないことを口に出すのはやめていた。いや、そういえば確かに昨日学校から帰ってきた時から絃成は様子がおかしかった。大学入試前最後の模試の結果が帰ってきたらしいが、余程悪かったのだろうか?

 


 「あらまぁけんちゃん、どうしちゃったの? 学校行ける?」

 「うん」


 少しずつ朝食のご飯を口に運びながら絃成は母に言った。普段から絃成はテンションが低めだが、今日はいつもより声のトーンが沈んでいる。朝からそんな調子では隣に座る織衣も調子が狂う。


 「絃兄、あまり無理はしない方がいいと思うよ」

 「うん」


 絃成は頷いているものの、話が聞こえているとは思えない。

 絃成は頭が良く博識で、織衣が知らないことを何でも知っていた。高校でもトップクラスの成績だったが、ここ最近は何だか調子が優れないように見える。有名な国立大学に進学したいと言っていたが、入試が間近に迫ってきたため気負うこともあるのだろう。織衣だってもうすぐ高校受験が待ち受けているが、そんなに気にしていない。


 「ねぇお父さん。げんなりけんちゃんに何か言ってあげてよ~」


 読んでいた新聞をテーブルの上に置き、無言で背広を羽織っている父に母は背中をバンバンと叩きながら言った。出勤の早い父は織衣達が朝食を終える前にいなくなってしまう。

 父はコートを着てリュックを持ちダイニングを出ていこうとしたが、絃成が座る椅子の隣で立ち止まった。


 「絃成」


 相変わらず愛想もクソもないしゃがれた低い声で言う。


 「勉学は日々の積み重ねだ。今までのお前の努力の日々が裏切ることはない」


 それだけ言って父はスタスタと立ち去ろうとしたが、彼のコートの袖を母が掴んで引き止めた。


 「ほらお父さん、オリちゃんももうすぐ受験なのよ? オリちゃんにも何か言ってあげてよ~」


 父は織衣の方を振り向いて、織衣のことをジッと見つめた。そして口を開く。


 「高校でも、良い友人を作れ」


 父はすぐに振り向いて、今度こそスタスタとダイニングから出て行った。それは照れ隠しなのか平常運転なのか織衣にはわからない。あんな人間を好きになった母に言わせれば平常運転なのだろう。あぁ見えてお父さんにも人間らしいところがあるのよと、割と酷いことを言っていたのを織衣は思い出す。

 しかし父の言葉は、受験生である織衣を励ますというか、もう織衣が高校に入った先の話をしているように感じた。

 一方で絃成は父の言葉に「うん」と答えただけだったが、朝食を食べるスピードが少しだけ速くなったように感じた。


 家を出て、同じ方向に学校がある織衣と絃成は同じ通学路を歩いて登校する。まだ雪がパラパラと降っていたので傘を差して歩いていた。最近新調した赤いダッフルコートを着るのが織衣の登下校の楽しみだったが、今日はあまり気分が優れない。

 最近は一緒に登校することも少なくなっていた。絃成は絃成で忙しかったし、織衣は友人の家に寄ったりしていたからだ。だが今日は、一緒についていないと不安になったのだ。朝からあんな調子では、ボーッとしたまま赤信号の交差点を渡りかねない。こんな時期に大怪我なんてしてしまったらそれこそ今までの努力が無駄になるだけだ。


 「ねぇ、絃兄」

 「どうした?」


 歩くスピードを少し緩めて、絃成は織衣の方を向いた。


 「模試、そんな悪かったの?」


 聞くべきかどうか迷っていた。そのことはあえて口に出さずに別の話題でも振ろうかと織衣は考えいていたが、何も思い浮かばなかったため直接切り込んでしまう。


 「いや、A判定だった」


 しかし絃成の答えは意外過ぎるものだった。


 「え?」

 「当日に遅刻とか体調不良が無ければ、それなりにやれると思う」

 「え、そうなの?」


 じゃあ朝、寡黙な父が珍しく絃成に助言してやったのは一体何だったのかと織衣は思う。完全に織衣達の勘違いである、心配して損した気分だ。


 「じゃあ、どうしてあんな気分が悪そうだったの?」

 「それは……それはだな……」

 「もしかして、好きな人に振られたりでもした?」

 「……あぁ、実はそうなんだ」


 案外あっさりと図星を突かれた絃成は、再び気分が沈み込んだようだった。


 「下らな」


 思わず織衣はそう言い放った。


 「まぁ、そうかもしれないな……」


 絃成は恋多き男だった。そして失恋も多い男だった。殆ど勉強一筋で趣味もお堅い絃成が唯一羽目を外すのが恋愛沙汰だが、まぁ彼は上手くいかないことを織衣は知っている。


 「なしてこんな時期に告白したわけ? 受験後でもよかったでしょ?」

 「善は急げと思ってな」

 「誰? 同級生(ドンパ)?」

 「同じクラスの……」


 おそらく絃成の気分が優れないのは、フラれた相手の顔を見なければならないからだろうと織衣は思った。一回も成功した例がないのにどうしてよりにもよってこんな時期に同じクラスの女子に告白してしまったのか、織衣は呆れて大きな溜息を吐いていた。


 「どんな理由でフラれたの?」

 「私におじさん趣味はないって、同い年なのに……」

 「まぁ、お父さん似だからしょうがないね」


 父は絃成が通う高校で物理の教師をしている。絃成が年齢より見た目が老けて見えるのは昔からで、織衣はそのネタに毎度笑ってしまうが、当の本人はかなり気にしている。


 「まぁ、大学に入ったらいつか彼女ぐらい出来るって……いつかは」

 「大学になったら、緒方先生って呼ばれることも無くなってほしいな……」

 「緒方教授になるのかもね……」


 与太話をしている内に、二人は学校に近い公園の前を通り過ぎようとしていた。織衣がふと公園の方を見ると、ブランコにちょこんと黒装束の少女が傘を差して座っていた。何というか、ゴスロリチックというか、闇をイメージしたような真っ黒い服が白い雪景色に映えていたが、その光景が何とも異様に見えた。

 どうして、こんな朝に一人で。


 「どうかしたか?」

 「いや……」


 だが織衣はあまり気にしないことにして、そのまま公園を通り過ぎていた。織衣が通う中学の前まで来ると、絃成は織衣と別れて高校の方へ向かった。その後ろ姿が、いつもより頼りなく見えた。


 ---


 期末テストも終わり、受験に向けて自習ばかりの授業を過ごして放課後を迎える。部活動生は外で雪かきをして汗を流すが、織衣は美術室で友人と時間を潰していた。織衣はもう美術部を引退しているような状態だが、部活が休みの日に美術室を使わせてもらっていた。OGの圧力だ、美術部の部長をしていた織衣の友人は何かと強い力を持っていた。


 「それ、何の本?」


 キャンバスの横から織衣は聞いた。


 「ガルガンチュアとパンタグリュエルだよ」

 「がるが……何て?」

 「フランスの作家、ラブレーが書いた本だね」


 絵の被写体として織衣の側に座って本を読んでいるのは、茶色がかったショートヘアーの、織田(おりた)里緒(りお)という少女だった。彼女とはかれこれ小学校からの縁で、一応文芸部に所属しているはずの里緒は暇潰しに校内をウロウロと回ってわざわざ織衣がいる美術室までやって来て、よくわからない文学のうんちくを語っていた。


 「面白い? どんな本なのそれ?」

 「フフ、とても面白い冒険譚だよ。感動とか美しさの欠片もない型破りなね。当時の風刺がきいているとか言われているけど、風刺なんて私にはわからないね」

 「じゃあ今度貸してよ。一晩ぐらいで読み終えるからさ」

 「フフ……織姫にはまだ刺激が強いかもしれないから貸してあげない」

 「ちぇ」


 刺激が強い云々言う割には里緒は下ネタに弱い人間だ。大抵の文学作品には官能的な場面もあるだろうに、何故慣れないのか織衣にはわからない。映画鑑賞が趣味の織衣も慣れていなかったが。


 「この作品を騎士道物語に含めて良いものかわからないけれど、そういった作品が流行していた時代にこんな破天荒な作品が生まれるとはね。今から四、五百年前……日本じゃ戦国の時代かな。ルネサンス最盛期の作品だと思うととても興味深いよ。騎士道物語は、今の時代の多くの作品に通ずるものもあるからね」


 文学少女、いや文学狂人である里緒の話を織衣は最初聞き流したりしたこともあったが、案外彼女の話は面白いもので、織衣も文学に興味を惹かれつつあった。

 織衣は里緒の話を聞きながら筆を進めていた。こんな変な人間の割には容姿も良いし姿勢も綺麗な里緒は描きがいがある。しかし美術室に飾るのはよしてくれという本人からの要望から、上手く描けた絵は本人に渡し、気に入らない絵は準備室に積み重ねられていた。


 「よくそんな古い時代の本を読めるね。私はあまり昔の本の内容が頭に入ってこないから」

 「じゃあこれはどうかな……」


 里緒はゴソゴソと自分の鞄を漁り、また本を一冊取り出した。


 「それ何?」

 「『キロク』だよ」


 黒く装丁され赤い帯がついた分厚い本に、金色の文字で『キロク』というタイトルが刻まれていた。著者名はない。


 「記録?」

 「鬼が録すと書いて鬼録だよ。本来は閻魔大王が持っている死者の台帳っていう意味の言葉なんだけどね。この本を書いたのは小泉悠遠って人なんだけど、織姫は知っているよね?」

 「あぁ、あのぶっ飛んだ宗教家みたいな小説家のおじさんね」


 小泉悠遠という小説家は、東京の方で怪しい宗教団体を率いている怪しい男だが、彼が執筆した作品は思春期の苦悩をテーマにした喜劇や群像劇として優れたもので、いくつかの作品がドラマ化されたり映画化されている。織衣の家にもいくつか彼の本が置いてある。


 「これはどうやら小泉悠遠が若い頃に同人誌として販売していたものらしくてね、数十のシリーズからなる大作らしいんだけど市場に出回っている数が少ないんだよ。フフ、この本を買うために私の財布は空っぽになったよ」


 つまり万単位で里緒の貯金が吹き飛んだぐらいにはプレミア価格がついた本というわけだ。里緒が読み終わったら読ませてもらおうと織衣は思った。里緒の家には業者かというぐらいの量の本が置かれていて、織衣もよく読ませてもらっていた。


 「そういえばなんだけど……」


 キロクという本を鞄にしまいながら里緒は言った。


 「この本を入手した時、まぁ色々と怪しいルートで買ったんだけどね」

 「え? そんな闇のルートから手に入れたの? 大丈夫なのそれ」

 「フフ、法には触れていないから問題ないさ。ただ、前にすすきのの駅でボヤ騒ぎがあったのを覚えているかい?」


 丁度一週間程前、北海道一の繁華街であるすすきのの地下鉄駅で放火騒ぎがあった。現場は一時騒然となったが、ベンチが少し焦げたぐらいで済んだらしい。


 「そういえばそんなこともあったね。あれって放火って言ってたけど犯人捕まってないんだっけ?」

 「そうらしいね。実は、私はその日に現場近くにいたんだけど、そこで絃成さんを見かけたんだ」


 里緒の言葉に、織衣は持っていた絵筆を思わずポロッと床に落としてしまう。そして織衣は立ち上がると、キャンバスの上から里緒に言った。


 「ちょ、ちょっと里緒! まさか絃兄が」

 「い、いや、私もそう思っているわけじゃないさ。ただ、織姫がそれを把握しているのか知りたくてね。絃成さんが通っていた塾ってそっち方面にあったかい?」


 絃成が通っている塾はすすきのとは違う方向にある。そっち側に友人の家があるとかいう話も聞いたことがないし、絃成はあまり一人で繁華街に出向かない。受験前の忙しい時期に絃成は一体何をしていたのか、悩み始めた織衣は椅子に座り直して考える。


 「絃兄は一人でいたの?」

 「そうだね。声をかけようかなと思ったんだけど、どこかに行ってしまってさ。何だか妙に挙動不審だったから気になってね」


 犯行現場の近くにいて挙動不審だったら警察に職務質問されてもおかしくないぐらい怪しいものだ。


 「ちなみに織姫は、絃成さん達の噂は聞いてる?」

 「噂? どの噂? 老け顔って噂?」

 「それは大体の知り合いが知っていることだろう、そうじゃなくてね。最近の札幌は少しばかり治安が悪いと思わないかい?」

 「え、そう? あまりそう思わないけど何かあったっけ?」


 織衣は里緒の絵を描くよりも、彼女の話の方が気になっていた。


 「最近の札幌は万引きとか痴漢とか、盗撮とか空き巣とか、死人が出るわけではないけど犯罪率が上がっているみたいなんだ。それに私の父の話によると、最近は怪我人が病院に運び込まれてくることが多いらしいんだ。しかも普通の怪我ではなくて、重傷というわけではないけど足をすりむいたとかナイフで斬られたとか鈍器で殴られたとか、そんな単純な傷じゃなくてよくわからないらしいんだ」

 「よくわからないって、お医者さんでもわからないの?」

 「うーん話を聞いても私は医学に疎いからねぇ。警察ですら手に負えないようだし」


 里緒の父親は札幌市内の大きな病院に勤めている医師だ。織衣も何度か里緒の家で見かけたことがあるが、織衣の父親とは違っておしゃべり好きで面白いおじさんだ。里緒はこれに似たんだろうと織衣も思っている。


 「でも、それに絃兄が関係ある? そんな悪いことなんて……」

 「それがね、一連の事件で捕まっているのは中学生とか高校生とか、若い学生が多いらしいんだ。そしてその学生達の多くは、絃成さんが通う塾に通っていた。

  実はその塾にある学生達のグループが、何か良からぬことを企んでるんじゃないかって噂があるんだよ。大きな塾だから色んな学校から頭の良い人が集まるだろうからね」


 確かに絃成は札幌市内の他の学校にも友人が多い。有名な進学塾に通っているため色んな学校の生徒と親交があるのだ。しかし、だからといって絃成が怪しいとはならないはずだ。

 今朝の絃成の様子がおかしかったのは、ただ単に失恋したことが原因だ。自ら犯した罪がバレるかもしれないという恐怖でおかしかったわけではないだろう、それを取り繕うためについた嘘とも思えない。


 「それがそんな噂になるの? 絃兄ってそんなヤバい人に見える?」

 「所詮ただのオカルト話みたいなものだろうけどね。ただ最近は……あの塾にあまり良い噂を聞かないね。実際のところどうなのかわからないけどね。

  ともかく、札幌の治安が最近悪いっていうのは本当のことなんだ。だから織姫も気をつけるんだよ? 織姫は変な男に絡まれてもヒョイヒョイっとついていってしまいそうだから」

 「余計なお世話。里緒だって変なことしないでね?」

 「フフ、どうだろうねぇ」


 里緒だって別に絃成を怪しく思って織衣に言ったわけではないだろう。変な疑いをかけられる可能性もあるため、それを忠告してくれただけだ。

 受験のストレス……それも大いにあるだろう。今だって織衣は絵を描いて、里緒は本を読んで現実逃避しているのだ。

 まさか、絃成に限ってそんなことはないだろうと、そこまで不安を感じないぐらいには織衣は絃成のことを信頼していた。


 

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