始まり
「何か面白いこと、ないかなぁ」
アイスを食べ終わると、雲に覆われ始めた黄昏時の空を見上げながら、儚げに汀はそう呟いた。汀は、こうして時たま悲しそうに空を見上げている時がある。
「どうしたのさ急に。らしくないよ、そんなの」
穂高はからかったつもりだった。いつもの汀ならムッとした表情で何か言い返してくるところなのだが、今日は様子が違った。
「正直なところ、もう柔道が楽しくないの。どれだけ頑張っても、もうそれらしい目標がないから。家に帰っても父さんはいないし、大会にもいなかった」
「僕の父さんがバカみたいに旗を振ったり、母さんが弁当を作ったりしてたじゃないか」
「だけど、私の父さんでも母さんでもない」
汀に母親はいない。汀を産んで数年後に病死してしまったらしい。自衛官として忙しい汀の父親は、長期間家に帰れない時は友人である鷹取荘二郎を頼っていた。彼ら二人は高校時代からの仲で、海風家と鷹取家は家族ぐるみの付き合いでもある。
中学の頃、汀が柔道の大会に出場するとなったら荘二郎達は店を閉めて汀の父親の代わりに応援に出向くこともあった。穂高の妹もそれについていったが、気恥ずかしいと思っていた穂高は一度も応援に行ったことがなかった。
「嫌になったらやめちゃえばいいんだよ。目標がなくなったのなら尚更」
「だけど暇なのよね」
「勉学は学生の本分」
「教師みたいなことを言うのね。勉強づくしの生活なんて嫌、楽しいと思えない」
進学校に入っといて何を言っているんだと穂高は思う。まあつまりはやりたいことが見つからない、ということらしい。何かと悩みがちな思春期にはよくある悩みだろう。
「何か、時間を忘れて熱中できるような趣味がほしいの。何か良いのない?」
「さあ。僕は君と違って刺激のない生活を送っているし」
穂高もそんなに熱中する趣味を持っているわけではない。昔はそんなこともなかったが、東京に移ってからは少しばかり退屈な日々を送っていたかもしれない。
「穂高君は何か、刺激が欲しい?」
「刺激というか、何か楽しいことがあればなって僕も思うよ。人生、楽しいに越したことはないって誰かが言ってたでしょ」
「オードリー・ヘップバーンね」
「いや知らないけどさ」
そうかもね、と汀は呟いてベンチから立ち上がると、腕を後ろに組んでクルッと穂高の方を向き、微笑みながら口を開いた。
「じゃあ、私が穂高のことを好きって言ったらどう?」
突然の汀の言葉に、穂高は口を開けて愕然としていた。フフフと悪戯な笑みを浮かべる汀を見ながら、穂高はおそるおそる聞いた。
「それを、僕はどう受け止めたら?」
「ご自由に」
「えぇ……」
突然の告白を受けた穂高は、オロオロしながら返答を考えた。戸惑う穂高とは裏腹に、そんな彼を見ていた汀は噴き出して笑い出した。
「あっはは、何真剣に考えてるの?」
「は?」
「冗談よ冗談、冗談に決まってるじゃない。
どう? 良い刺激になったんじゃない?」
「……はぁ?」
穂高の純情をからかうような笑みを浮かべながら、汀は穂高の目の前で魔女のように甲高く、そして満足そうに笑っていた。あいも変わらず、汀は穂高をからかうのが好きで好きでしょうがないらしい。それこそが汀の趣味であり楽しみなのだろう。
「弄ばれた方の身にもなってほしいね」
「刺激が欲しいって言ってたし。ちなみに答えは?」
「この結果を踏まえればノーだね。汀を椛の姉にしたくない」
「変な考え方ね。だからシスコンとか言われるのよ」
「僕はシスコンじゃない」
シスコンと呼ばれる度に穂高はそれを即座に否定する。それを未だに汀が面白がっているのも事実。穂高のシスコンぶりは、既に高校の同級生達にも知られている。
複雑な感情のまま、穂高もベンチから立ち上がった。そんな穂高の背後、ベンチの裏から物音がする。
「やぁお兄ちゃん」
その少女の声に、穂高は喉から心臓が飛び出そうなほど驚いてしまった。
「うわああああっ!?」
「私だよお兄ちゃん」
驚いた穂高は後ろを振り向くと、頭に赤いリボンをつけた少女がてへ、と笑ってみせた。鷹取椛、中学二年生。穂高の妹である。髪を腰ほどまで伸ばしているのは汀への憧れらしいが、汀のどの部分に憧れているかは穂高に教えてくれない。
「いたならすぐに声をかけたらよかったじゃん」
「なんだか楽しそうに汀ちゃんとお話してたから、邪魔するのも悪いかなって」
「穂高君が弄ばれているところを見物していたと」
「そういうことです。しがないお兄ちゃんがいつもお世話になってます、汀お姉ちゃん」
椛は汀にペコリと頭を下げた。穂高の隣に立つ汀は、椛の言葉に心を打たれたのか胸をグッと手で押さえていた。
「わ、悪くないわね……ねぇ穂高君、椛ちゃんだけ貰っていって良い?」
「はぁ!? なにそれどういうこと!? 良いわけないでしょ!?」
「お姉ちゃんって呼ばれるのも悪くないかなって。穂高君がシスコンになるのも納得できる」
「そこは納得しなくていい!
椛! 早く帰るよ! 帰ったらアイスを食べよう!」
「えー汀ちゃんと一緒に帰った方が面白いよー」
「穂高君と違って物分りが良い子ね。こんな妹が欲しい」
なんだかんだ言いつつ、穂高は二人と共に帰ることになった。一体あの告白は何だったのか、はぐらかされてしまったモヤモヤは穂高の心に残っていたが、椛が楽しそうならそれで良いと思っていた。椛も椛で、兄である穂高をからかうのが大好きだ。
「あ、そうだお兄ちゃん。さっき柔道の話してたけどさ」
「そこから聞いてたの!?」
「私、高校に入ったら柔道を始めてみたいんだ」
穂高と同じく椛も中学では帰宅部だが、自ら進んで生徒会長になりたいと言っているだけでも穂高の中学時代とは違うし、帰宅部といえど椛は音楽教室でキーボードを弾いている。その習い事の帰りに、椛は面白いものを見かけて潜んでいたのだろう。
「いきなりどうして」
「汀ちゃんに憧れてて」
「喜ばしきこと限りなし」
穂高は椛と汀の姿を照らし合わせる。幼少の頃から柔道一筋で生きてきた汀は、決して大柄とは言えない、むしろ細身な体格からは考えられないほどのパワーを生み出し、野郎が相手でも物怖じせず立ち向かう(穂高は口喧嘩の時点で汀に負ける)。一方で椛は運動神経が悪いわけではないが、昔から楽器を弾いていることが好きだった。
「冗談だよ。高校に入ったら軽音楽部に入ろうかなって」
「うちの学校、そんな部活ないんだけど?」
吹奏楽部と合唱部があるにはあるが、軽音楽というジャンルとは一線を画しているだろう。
「知ってるよ。だから作ってよ」
「んな無茶な。リコーダーでさえ上手く弾けないのに」
勿論穂高には軽音楽部を始めるつもりはさらさらないし、ピアノも多少は弾けるがやる気もない。それに椛が同じ学校に入学する頃には、もう大学受験で忙しい時期になってしまう。
「それで、お兄ちゃんはどうするの?」
「どうするって、何のこと?」
「いい加減さ、また────」
どうするの?
椛の言葉の真意を、穂高は知っていた。知っていたからこそ、椛に言うつもりはなかった。が、椛の言葉を遮るように、突然サイレンの音が辺りに鳴り響いていた。
けたたましいサイレン音はパトカーや救急車、消防車など数台の緊急車両を伴って、穂高達の側の通りを猛スピードで走り去っていった。その車両の多さに、周囲の人々もざわついている。
「な、何事?」
汀がキョロキョロを辺りを見回していた。どこかで事件か事故が起きたのだろうが、近辺でそんなことが起きているようには見えなかった。
「何か事件でもあったんじゃないの?」
どうせ自分達には関係ないことだ、そう考えていた穂高のズボンのポケットで、彼の携帯が振動していた。誰からか連絡があったのかと穂高は携帯を取り出して画面を見たが、穂高は自分の目を疑った。
『【ニュース速報】東京駅で爆発 数棟のビル倒壊か』
ニュースアプリからの通知、その現実とは信じ難い文面に、穂高は誤報なのかと一瞬考えた。同じくその通知を確認した汀や椛も同様に、ただならぬ事態が起きているのかもしれない、そう冷静に判断できたのは、これまでの経験があったからか。
「これ、何が起きたんだろ?」
「わからない。でも、早く家に帰った方が良いかもしれない」
椛の問いかけに穂高はそう答えた。これだけの事態ならテレビを点ければどこの局でも速報を出しているはずだ。
何かが起きる。普段の日常からはかけ離れた、未曾有の出来事に遭遇するかもしれない。そんな妙な胸騒ぎが穂高を襲い、顔を強張らせた。
まさか、また?
穂高の不安をよそに、周囲の防災無線のスピーカーから、聞き慣れない不協和音が流れ始めていた。
それは、Jアラートと呼ばれるものだった。しかし穂高が実際にそれを聞いたことがあるのは訓練の時だけだ。しかもそれは、地震情報に限られる。準備はされていても、この日本で実際に起こりうるとは考えられていなかった、有事のサイレン音だ。
『……大規模テロ情報、大規模テロ情報。
当地域で、テロの危険が及ぶ可能性があります。直ちに屋内に避難し、テレビ・ラジオをつけて情報を確認してください……』
起伏のない声の定型文と共に、不気味なサイレン音が夕暮れの街に鳴り響いていた。街を行き交う人々も携帯を片手に空を見上げ、この世界で起きようとしていることを知ろうとしている。この状況を理解するのに時間を要する穂高達の前を、消防車や救急車がサイレンを鳴らしながら、再び猛スピードで通り過ぎていく。気のせいか車通りも慌ただしくなっていた。どこへ逃げるのか、人々は困惑した表情で移動を始める。
防災無線の放送から程なくして、穂高達が持っていた携帯がエリアメールを受信していた。
『避難指示(緊急)発令
こちらは東京都です。
午後四時三十五分、東京都全域に避難指示(緊急)が発令されました。東京都内で大規模テロの危険が……』
「ねぇお兄ちゃん、何が起きてるの?」
椛は不安げな表情を浮かべながら、穂高の左腕の裾を掴んでいた。携帯を握る穂高の手は震え始めていた。
ただ事ではない。それはまだ未熟な子どもである穂高でもわかる。だが、今からこの東京で、この世界で何が起ころうとしているのかを理解するのは難しかった。
「早く逃げよう。外にいるのは危ないかもしれない」
「逃げるってどこに……きゃあっ!?」
「て、停電!?」
突然辺りの街灯や信号の光が一斉に消え、穂高達は驚きながらも駆け出した。ただでさえ薄暗くなっていた夕暮れの景色が、さらに不気味なものになる。防災無線も一時途絶えたが、再び不協和音を流し始めていた。
『こちらは陸上自衛隊東部方面総監部です。
現在、東京都内で大規模なテロ攻撃が発生しています。警察・消防・自衛隊等の指示に従い、直ちに安全な場所に避難してください。これは訓練ではありません。
品川区、港区、中央区、千代田区においては……』
放送から聞こえる女性の声が震えていた。焦りを感じた。それは穂高達も同じだ。
ひとまず家へ帰ろうと走り出す穂高達の前に、前方からいきなり自動車が吹き飛んできた。
「うわぁっ!?」
「危ない!」
近くの駐車場に逃れた穂高達の脇を、自動車がゴロンゴロンと横に転がっていく。事故というには明らかにおかしな動きをしていた。
「助けてくれぇぇっ!」
大破した車に乗った男性の悲壮な表情を見ても、助けを求める決死の叫びを聞いても、穂高達はどうすることも出来ないまま、車は近くの住居の塀に衝突し押し潰されていた。
「そんな、どうしてこんな……!」
こんな事故があるか? 車が地面を転がって、その勢いで壁にぶつかってぺしゃんこになるようなことがあるのか?
目の前で起きた事故を見て、何が起きるかわからないという無知の不安から、自らに迫る死への恐怖へと切り替わった。周囲の人々は悲鳴を上げながら、慌てふためきながら、迫る危機から逃げようとしている。
「な、何あれ……!?」
椛が指差す方向を見ると、そこには体中に鉄板やチェーンソー、ノコギリや鉄骨を引っ付けた、白いコートを羽織った男がゆっくりと歩いてきた。顔には太陽が描かれた白地の仮面をつけていて、目の部分から青い光を放っていた。
「何だ、逃げないのか? あぁ、怖気づいて逃げられないのか。
そこらの人間のように、泣き喚きながら逃げればいいものを」
笑いながら、しゃがれた声で男は言った。その男が何者であるかを判別するには時間を要した。彼がただの犯罪者、テロリストなのか判断するのが困難な程に、彼を人間と捉えることが出来なかった。そんな男を前にして、穂高達は何も喋れないどころか、逃げることも出来なかった。
立ち尽くす穂高達の元に、パトカーのサイレン音が近づいてきた。三人の近くで急ブレーキをかけて止まると、すぐに警官が降りて拳銃を構えていた。
「早く逃げなさい! こいつらは相手にしちゃいけない!」
そう叫んだ警官の声でハッとした穂高は、椛の腕を引っ張って汀とともにすぐに駆け出した。目の前にある恐怖から、一刻も早く遠くへと離れたかった。
ただ、後ろから聞こえたグシャリ、グシャリという不快な金属音が、穂高の心にさらなる絶望感を生み出していたのだった。