5-39『恋とは違うもの』
朝、目覚まし時計のアラームで穂高は目覚めた。朝の五時、本部にいる時はランニングへ出かける時間だ。毎日渡瀬による修行を受けている以上、渡瀬からは他のトレーニングは免除されていたが最早生活習慣の一つになっていた。
ジャージに着替えて外に出ると、顔に鋭く刺さるような冷えた空気が穂高を襲いかかる。年末の大阪、心斎橋周辺は薄暗い朝方でもちらほらと人が見えた。朝帰りのテンション高めな人間もいれば、酔い潰れて道端で吐いている人間もいる。その光景はツクヨミの本部がある池袋でも見慣れたものだ。
穂高達高校生組に課されている朝のランニングは往復十キロ程、穂高は予め大阪の地図を調べてその距離に収まりそうなスポットを探し、白い息を吐きながら走っていた。
川にかかる歩道橋から、商業施設の向こうにドーム状の屋根が見える。歩道橋を降りて商業施設の脇を走って角を曲がると、目の前に大阪ドームが姿を現した。
四月十三日、東京駅で爆破テロが起きたとほぼ同時刻に、阪急線高槻市駅、大阪環状線今宮駅付近で電車に仕掛けられた爆発物が爆発を起こしたのを皮切りに大阪でのテロが始まった。東京と同じように革新協会と治安部隊が市街戦を繰り広げたが、別件のため大阪に滞在していた千代と北斗が二人で大阪市内の騒動を鎮圧。革新協会は当時プロ野球の試合が開催されていた大阪ドームに選手や観客三万人を人質にして立て籠もったが、二人は正面から強行突破してこれを制圧。人質に一人の死傷者も出さないまま大阪ドームの人質を解放し、大阪での混乱は収束した。千代はついでに野球選手のサインを貰って帰ったらしい。
関西では神戸や京都も含めて十万人以上の死傷者を出しているが、大阪ドームでの人質解放作戦は完璧な結果を残した。その手柄は千代と北斗ではなく、大阪府警と自衛隊の特殊部隊のものとなっている。
千代はぶっきらぼうで大雑把な性格だが、何かと面倒見の良い人間だ。織衣や緋彗達も千代を慕っているし、苦離紅茶狩惨堕荒騎士とかいう妙竹林な集まりを率いるだけの求心力もある。穂高が知っている千代という人間は、あの兄が貶すような利己的な人間だとは思えなかった。
自分が能力という力を知らなかったように、まだまだ未知の世界が広がっている。それを実際に目にしなければ信じることが出来ない。今の穂高は、自分の目に見えるものを信じようとしていた。
ランニングから帰ると、玄関に希の靴が置かれていた。穂高は何となく受け入れていたが、自分が泊まっている部屋に勝手に人が入ってくるのは異常なのではないかとも考えていた。まぁしかしリーナに当たり前のように家を踏み荒らされていた時期もあったため穂高は気にしないことにした。
「あ、おはよーさんさん。どこ行ってたん?」
キッチンから黄色いエプロンを着けた希がひょっこりと顔を出して穂高の元へ駆け寄ってきた。
「ランニングです」
「えらい真面目やなぁ、そんな太ってるように見えへんのに」
「いや、ダイエットのためじゃないんですが」
体力の消費が激しい能力者がダイエットなんてするとすぐに体調を崩してしまう。高校生組も任務前と任務後はよく食べるものだ。能力者狩りだった頃の穂高も空腹でよく倒れることがあった。
「今日は目玉焼きとソーセージを焼いとるから、もうちょっと待っといて──うぉっとぉ!?」
希はキッチンの方へ振り向こうとした瞬間、足を滑らして前へ転倒しそうになった。
「の、希さん!?」
穂高は慌てて希の腕を引っ張ろうとするも力が足りず、逆に前へ倒れる希に引っ張られてしまった──。
「いったぁ……」
廊下に仰向けに倒れた希が頭を擦りながら言う。同じくすっ転んでしまった穂高は希との衝突はギリギリ避けられたものの、穂高が希に覆いかぶさるような状態だった。
「ご、ごめんなタカちゃん。ウチおっちょこちょいやから……」
照れくさそうに笑う希に対し、穂高は黙ったまま彼女の左手を掴んでいた。
「へ?」
希の艶やかな、紫色の混じった黒髪が、突然の事態に戸惑っているような可愛らしい瞳が、みずみずしく透明感のある肌が、穢れを知らなさそうな唇が──彼女を構成する全ての要素が、穂高の目には官能的に見えた。彼女の容姿、芳しい香水の香り、その戸惑う表情が、どうして急にこんな情欲をそそるのか、希の左手を掴んだ穂高は動きを止めて、自分の行動と思考に困惑し、そして戦っていた。
「な、なぁ。ウチら、そういうのはまだ早いんとちゃうか……?」
穂高が希の左手を掴んでから、お互いに目を合わせたまま時が流れた。しかし穂高の携帯に着信が入ったことで穂高は我に返った。希の手を引っ張って起き上がらせ、穂高は自分の頭を押さえていた。
「お怪我ありませんか?」
「いや、このとーり立派な毛が生えとるで?」
自分の髪の毛をいじりながら希は笑顔で言う。
「……そのままご健在であることを祈ります」
携帯に入った着信を確認すると、渡瀬から今日の集合場所と時間の連絡が来ていた。
「すいません、僕はシャワー浴びてくるので」
「え? それどういう意味なん?」
「いや、外を走ってきたので」
「あぁせやったな。じゃあウチは朝ごはん用意しとくさかい」
穂高はキッチンの向かいにある脱衣所に入り、ジャージを放り投げて浴室へ。シャワーから冷水を出し、頭で滝のように浴びながら鏡で自分の顔を見る。
鏡に映る穂高は険しい表情をしていた。どうしてだ? この昂ぶる感情のためか? それを抑えるためか? さっき、自分は一体何を思った? 何をしようとした?
穂高は衝動的に動きかけていた。ツクヨミに入ってからそんなことは一度もなかったのに、どうして今?
自問自答を繰り返した穂高は能力を発動し、光剣で自分の左手の甲を突き刺した。
「ぐっ……!」
リーナから手の神経を傷つけないようにするための切り方という、人生で役に立つとは全く思えないレクチャーを受けたことがあったが、穂高はそれを実践していた。光剣を抜くと、浴室の床を流れる冷水が赤く染まっていく。凍るような冷水の冷たさ、そして左手の激痛で穂高は自分の感情を制御しようとした。この昂ぶる感情を抑えるために自分が何をすればいいか、ツクヨミに入る前の穂高はその対処法を知っていた。しかしツクヨミに入ってから、ある意味では自分の行動が制限されてからはその対処法を失ってしまっていた。
『貴方は女の味を知っている』
穂高がツクヨミに加入するためにリーナの無力化を条件に出したように、牡丹も穂高に能力者狩りをやめさせるという条件を提示した。それは派手な能力を使う穂高の行動を控えさせることによって能力の秘密性を保持するためかと穂高は考えていたが、彼女達は他にも何か企んでいる。これを乗り越えろというのも修行の一つかもしれない。
穂高は浴室を出て部屋着に着替えると、希に見られないようこっそりと自分の部屋に入り、念のため用意していた救急セットを開けて左手に包帯を巻いていた。止血は能力でどうにか防いでいるが、痛みはまだ残っていた。
「お、ご飯出来とるでー」
今日の朝食は目玉焼きとソーセージだと穂高は聞いたつもりだったが、テーブルの上には立派なお好み焼きが堂々と待ち構えていた。
「平常運転ですね」
「味噌汁のおかわりもあるからな」
「それもお好み焼きなんですよね?」
「まぁそうやね」
チラッとキッチンの方を覗くと、確かに鍋の中にお好み焼きが放り込まれていた。どうやら希のお好み焼きの能力は料理が完成したと思った時点で変化してしまうようだ。穂高はお好み焼きは嫌いではないが、朝から何枚もこの重い見た目のお好み焼きを食べられるような気はしていなかった。
「その手の怪我、何かあったん?」
希は穂高の左手を見て不思議そうに言った。
「いや、ちょっと手を滑らせて能力を発動してしまっただけです」
「手を滑らせて能力って発動するん!?」
「まぁ、そういうこともあるんです」
早速席に座ってお好み焼きの端の方をつまんで口に入れると、炊きあがったばかりのような白米の味がした。希はどの部分を食べればどんな味がするのかを見て判断出来るようだが、まだ穂高はそのレベルに達してなかった。
「美味いか?」
「さっきからご飯の部分しか当てられません」
「まだまだやなぁ、そんなんじゃ大阪は生きていけないで」
絶対にそんなことはないと穂高は思いつつ、ようやく目玉焼きらしい部分を当てることが出来たが、確かにソースの味はしても青のりと鰹節の味がしないのは頭が混乱しそうだった。
「なぁ、タカちゃん」
お好み焼き(ソーセージ味)を頬張る穂高に、正面に座る希が言う。
「もしかしてウチに気があるん?」
穂高はモグモグとお好み焼き(ソーセージ味)を咀嚼し、それをゴクンと飲み込んでから口を開いた。
「ないことはないです」
あると言うと嘘になるが、穂高自身が信じられないほどに彼の心は揺さぶられていた。希は穂高の答えを聞くと手を叩いて大笑いしていた。
「まだ君には早いと思うな。あんなんでときめいとったら悪い女にひっかかって人生搾り取られてまうで」
実際に穂高は悪い女にひっかかっているがそれについては触れないようにした。
「あとは大阪弁の魔力やろうな。東京の人よりはフレンドリーに見えるやろ?」
穂高は東京の人間を冷たいとも感じたこともないが、やはり大阪弁はどこの地方の人間が聞いてもわかりやすい方言だし希自体が親しみやすい性格の人間だ。穂高も急に距離を詰められると革新協会の人間なのかと警戒してしまうが、希には心を許していた。
「あとやっぱ大阪弁を話す女子は可愛く見えるやろ? ウチもやっぱ好きやねんって言ってみたいわぁ」
「……それの相手ってダメ男じゃないですか?」
「よぉ知っとるな。まーウチはあまり恋を知らんから、誰かに振り回される恋もしてみたいなぁ思うねん」
穂高は逆に希の恋路が心配になってきたが、まぁ他人の恋にとやかく言ってもしょうがないかと考えながらお好み焼き(味噌汁味)を頬張っていた。
「意外ですね、希さんがあまり恋をしたことが無いなんて」
「ほーん、それは褒め言葉やと受け取っとくで。ウチも誰かを好きになることはあるよ、それが実らんかっただけや。タカちゃんもそういうことなかったか?」
「まぁ、ありましたけど」
「そうやって失恋を繰り返してウチらは成長せなあかんのや。うん、好きな人のことで頭が一杯になって眠れない夜ってのも良かったで」
希は目を瞑って懐かしそうに自分の思い出を振り返るながら語っていた。穂高も実らぬ恋多き少年で、希が言うように誰かのことで頭が一杯になって集中できないというのは多々あった。穂高は好きな人と離れ離れになってから初めてその恋に気づいてばかりだったが、口には出さないものの自分が恋をしているという自覚はあった。
穂高は朝食のお好み焼きを食べ終え、マグカップに入ったホットココアを飲んでいた。
「やっぱ大阪弁ってええよな。ウチは日本で一番可愛い思うとるけどどう?」
「僕は博多弁こそが最高だと思ってるので」
「そういやタカちゃんは福岡の出身やったなぁ……いや、君もいつかは虜になるで。大阪弁で喋るちーちゃんはものごっつええもんやで」
ちーちゃんという知り合いがいたか穂高は一瞬悩んだが、そういえば希は千代の友人で苦離紅茶狩惨堕荒騎士の一員だったなと思い出す。確かに千代は大阪出身とは言うが、千代の話し方からは訛りを感じたことがなかった。
「千代さんって大阪弁話すんですか?」
「あぁ、そっちではあまり話さんのかな。ウチと喋る時はいつも大阪弁やけど……せやな、やっぱ怒らせたら手っ取り早く聞けるんちゃうか? ちーちゃんはドスの利いたえぇ大阪弁話すで、ものごっつ怖いけど」
「絶対嫌ですね」
穂高が朝食を食べ終えると希は皿も洗っていくと言ったが、穂高は皿洗いぐらいは自分でやると伝えて希は帰っていった。朝からハプニングはあったものの、希はあまり気にしていないようで助かった。
ただ穂高は、あれだけの出来事で感情があんなに昂ぶってしまった自分を恐れていた。




