5-36『親友、織田里緒』
十二月二十七日午前九時、羽田空港発新千歳空港行の飛行機に織衣は乗り込んだ。緋彗と和歌がわざわざ空港まで見送りに来て、大げさに名残惜しそうにしていたのが席に座ってからでも思い出して笑えた。
飛行機に乗ったのは一年前、北海道から東京へ渡った時以来だ。盆の時期に帰省しないかと副メイドに提案されたこともあったが、織衣は夏休みの間も本部に残っていた。だが今日、牡丹からのクリスマスプレゼントである航空券があったとはいえ札幌への帰省を決断したのは、織衣の心境に変化があったからだった。
飛行機は無事に新千歳空港に到着し、織衣はスーツケースを引いて到着口を出た。すると、近くの案内板の側に見知った顔が立っていることに気がついた。織衣が近づくと向こうも織衣に気づいたようで、こちらに笑顔を向けて口を開いた。
「久しぶり、織姫」
茶色がかったショートヘア、同級生のはずなのに大人びた雰囲気の笑顔、そしていつも持ち歩いている分厚い本──。
「久しぶり、里緒……」
織田里緒。織衣がまだ札幌にいた時の親友である。織衣は里緒に何か声をかけようと、せっかく一年ぶりに再会したのだから何か気の利いたことを言おうと思ったが、それ以上の言葉は出てこなかった。里緒の様子を伺っていると、彼女は本を鞄にしまってから織衣に言う。
「織姫から連絡が来た時は驚いたよ。もう、こっちには戻ってこないものかと思っていたからね」
北海道へ旅立つ前日に、織衣は里緒におよそ一年ぶりに連絡を取った。年末年始に北海道へ帰ること、そして半ば逃げるように故郷を去った自分が言うのはおこがましいとは自覚しながらも、里緒の家に泊めてくれないかと織衣は頼んだのだった。こちらから一方的に関係を断ったようなものだった上に急な話でもあったが、里緒は快く承諾してくれた。
「でもやっぱり、あまり楽しそうには見えないね。こうして一年ぶりに、かつての友と再会出来たというのに」
織衣は何か言葉を絞り出そうとしていた。だが先に出たのは謝罪の言葉でもなく歓喜の言葉でもなく涙だった。泣き始めて目頭を押さえる織衣を、里緒は仕方のない奴だね、と言う風に優しく抱きしめていた。
「場所を変えようか。ここにも、織姫が帰る場所があるんだから」
身寄りを失ったも同然の織衣にとって、昔の彼女のことを知る人間は少ない。少なくともツクヨミにはいない。しかし里緒の姿を見ると、織衣は安心感から自然と涙を流してしまっていた。不安だったのだ、あのクリスマスの事件の後に直接別れも告げず、それから一切連絡を取ろうとしなかったのに、今更どんな顔をして里緒と会えば良いのかわからなかったのだ。
だが里緒はこうして、再び織衣を迎え入れてくれたのだった。
雪の影響で多少の遅延はあったものの電車を乗り継いで、織衣は里緒の家、小高い丘の上に立つ立派な洋館に上がり込んでいた。里緒の部屋には相変わらず大量の本が並べられていて、一年前と比べて何が増えて何が減ったのか全くわからないぐらいだ。
「かの作家は言った」
椅子に腰掛けた織衣に紅茶を出してから里緒は言った。
「微笑めば友が出来ると」
その変な口上は昔と変わらない。
「しかめっ面をすればシワが増えると」
里緒にそう言われて、織衣は自分の表情が険しくなっていることにようやく気がついて、慌てて表情を緩めようとして指先で頬を引っ張り上げた。そんな織衣を見て里緒はクスッと笑って言う。
「ま、織衣が微笑むと不幸な想い人が増えるだけかもしれないがね。年明けに君が転校したと知ると、多くの男子はそれを嘆き悲しんでいたよ。忽然と姿を消してしまった姫の存在はいつしか幻となり、夢となり、しかしその殆どは月日が経てば煙が消えていくかの如く薄れてゆくものだ。多くの友人達は心の片隅に誰かを想いながらそれぞれの道を歩み、そこで新しい場所を見つけ、新しい生活を過ごしていった」
里緒はティーカップを持ち、そして物憂げに呟いた。
「私も、織姫も」
里緒はティーカップに口をつけ紅茶を啜っていた。
織衣は、親友の里緒が無事でいることは知っていた。あの札幌での騒動にも四月デストラクションにも巻き込まれず、両親ともに今も元気でやっていると渡瀬から定期的に聞かされていた。しかし、織衣は里緒と連絡を取ろうとはしなかった。今更、新しい世界を生きているであろう里緒の邪魔をしたくないと、そう考えていたからだ。
「藍里のことは覚えているかい?」
「うん。うちの部の部長だったし」
「そう、美術部部長で生徒会長もやっていた……藍里がヨーロッパで絵画を、いや芸術の全てを学びたいという夢を語っていたのは覚えているだろう? 藍里は日本画にも精通していたが、彼女の興味はそこで収まらなかった。学業も優秀だった藍里は東京の高校に無事合格してね。わざわざ親戚の家に下宿することにして東京へ行ってしまったんだ。より高いレベルの芸術を学び、夢に近づくため……」
高橋藍里という少女も織衣達の同級生で、里緒を文学狂人と称するなら藍里は美術狂人、そう称することが出来るぐらいに同じ美術部員だった織衣でも意味がわからないぐらいに美術に対して情熱を持っていた芸術家肌の人間だった。
「私が藍里の死を知ったのは五月のことだった」
里緒は再び本を膝の上に乗せ、そして開いた。相変わらず分厚い本を読んでいる。
「わざわざ藍里のお母さんが訪ねてきて、私に伝えてくれた……東京渋谷の、神宮通りで起きた爆破テロ。社会勉強と小遣い稼ぎのためカフェで短期のアルバイトをしていた藍里は事件に巻き込まれ、帰らぬ人となったよ」
四月五月の頃は、まだ革新協会によるテロが頻発していた時期だ。どの事件がどんな内容だったか一つ一つ思い出すことは難しい、精々和光事件ぐらいだ。
織衣は里緒の話を聞きながら胸が痛くなり、紅茶に手を出すことが出来なかった。織衣は藍里が東京に、身近な場所にいた事も、彼女が死んだことも知らなかったのだ。
「ご両親は四月のこともあったから、藍里に札幌へ戻ってこないかと提案したこともあったらしい。東京に比べれば、北海道はいくらか治安が良かったからね。まだ年頃の娘を一人で遠く離れた場所に置いておくのも不安だっただろう。でも、彼女の夢を邪魔するのも悪いと思って、藍里を応援したんだ……」
悔やんでも悔やみきれないことだろう。親戚の家に下宿させるとはいえ、それまでは毎日顔を見ることが出来た子どもが家からいなくなるのは親からすれば不安なことだ。どんな結末を迎えようとも、その過去を悔いても、もう何も変わらない。
「藍里の夢は海外へ留学してあらゆる芸術を学んで、彼女なりの芸術を見つけることだった。それに多額の費用がかかることは藍里だって勿論知っていたのさ、絵を描くための画材を用意するのにもね。藍里には人並み外れた情熱もあったし真面目に生きようとしていた、今から資金を集めようと忙しい合間を縫ってアルバイトをするぐらいにはね。
もっとも藍里は……ご両親の結婚記念日にプレゼントをするために小遣いを稼いでいると私に言っていたよ、事件の二日前にね。だが、何も実ることはなかったんだ……」
そう、誰もが善意で行動していたのだ。革新協会以外は。
「全ての出来事を運命というたった二文字の言葉で片付けるには、私達は多くのことを知りすぎていた」
例え事件がニュースや新聞が報じられたとしても、多くの人々は余程有名人が死なない限り、誰が死んだのではなく何人死んだのか、誰のせいで死んだのか、そんなことにしか興味は向かない。その後は場合によって誰が責任を取るのか追求するぐらいだ。被害者の人となりを知る人間は限られる、例え知人らに取材して特集を組んだとしても、それらが長くセンセーショナルに伝えられることも多くはない。それらは無関係な人間にとっては、自分の日常に消えていく事柄に過ぎないのだから。
「でも多くの人々は、それを運命という言葉で片付けることだろう。どれだけの気の利いた感想を言うために言葉を取り繕うとした所で、私達には……目の前で起きたことしか知ることは出来ないんだ。そこにどんな内実があろうともね」
里緒はフッと微笑んで織衣を見た。君には何があったのか、と問いかけるような瞳で。
「ごめん、里緒」
織衣は里緒に頭を下げた。どんな言葉を取り繕うと考えても、謝るのが先だと織衣は考えた。
「私は、里緒達に何も言わずに」
「私は織姫の謝罪を聞きたいがために、この家に君を泊めようと決めたわけじゃないし親に頼み込んだわけでもない」
織衣の謝罪を遮って里緒は強い口調でそう言った。織衣が頭を上げると、里緒は怒っているようには見えなかったが辟易しているように見えた。
「確かに織姫は一言も別れを告げることなく、私達の前から忽然と姿を消した」
事件が起きた去年のクリスマス、織衣はその二日後にはもう東京へ旅立っていた。何もかもが嫌にならり、全てを捨てるように、全てから逃げるように──新たな環境に僅かな希望を抱いて。
「きっとどこか遠くの親戚に預けられたのだろうと考えていたよ。事情が事情なだけに、織姫が憔悴していることもわかっていたつもりだった。
私が織姫の居場所を知ったのは、君が消えてから二ヶ月が経った……年が明けて私立受験が終わった二月のことだったよ。とある人から、あぁ勿論織姫の組織の人だよ……聞いたのさ。あの日に起きたことをね……」
里緒は表情を曇らせ、それ以上言葉を続けなかった。
里緒は織衣よりも遥かに賢い人間だ。多くのことを理解し、そして織衣の気持ちまで、あらゆるパターンを想定して理解しようとしてくれただろう。里緒は織衣の身に起きたこと、そして織衣がいなくなったことに傷心していたのだ。
沈痛な面持ちの里緒を見て、黙って聞いているだけでは居ても立っても居られなくなって、織衣は口を開いた。
「私だって勿論、里緒達に連絡するつもりだった。でも……」
「でも?」
織衣はその次の言葉を発することが出来なかった。
でも……どうして里緒達から逃げたのか、その理由を直接言うことが出来なかった。だからあの日のことを思い出したくなかったのだと、織衣が逃げ続けていたことから里緒も薄々気づいているだろう。里緒は紅茶を一口飲むと、口ごもる織衣に言った。
「多くを語る必要はないよ、織姫。君が何を言っても何も言わなくても、それが言い訳だとも卑怯だとも私は考えないし愚弄しようとも思わないさ。クリスマスの事件については私が触れて良いことなのかと思扱ったよ」
一年の歳月を経てようやく、織衣は里緒の前に現れる決心がついたのだ。北海道へ帰る前に電話をかける時も、織衣は手を震わせて何度も諦めようとしたし、何度も諦めがつかなかった。一年前の出来事を、能力者としての自分を、織衣はようやく受け入れようとしたのだ。
「藍里は言っていたよ。いつか織衣が再び私達の前に現れて、その口で話してくれるまで待ってあげようと」
しかしもう藍里はいない。同じ東京という街に住んでいたのに、織衣が知らない間に殺されてしまったのだ。
「藍里はああ見えて、というか彼女らしいというか、結構根に持つタイプだからね。次に会った時は織姫の裸体画でも描いてやると言っていたね。私はそれをこの家に飾るのを楽しみにしていたよ」
おそらくだが織衣が知っている藍里という少女はそれを冗談で言っていない。今も藍里は天国か地獄でいつか織衣を丸裸にしてやろうと、辱めてやろうと考えているはずだ、今も織衣の側で何か喚いているかもしれない。
里緒は自分の携帯を取り出すと画面を操作していた。すると突然織衣の携帯が鳴り始める。里緒はわざわざ目の前で織衣に電話をかけ、織衣が出る前に電話を切った。
「私は織姫の新しい連絡先も教えてもらっていたんだよ、藍里もね。藍里はかけなかったようだけど、私はすぐに電話をかけた。でも、織衣は出なかった」
今年の二月から三月にかけて、織衣の携帯に里緒から何度も着信があった。しかし織衣は、その電話に出る勇気がなかったのだった。
「私は織姫の声を聞きたかった。勿論直接会いたいとも思っていたさ。私は心配だったんだ、織姫があまり強くないことを知っていたからね。でも何度電話をかけても留守電を残しても、昨日まで私と織姫が繋がることはなかった」
里緒だってそこまで強いわけではない。織衣mの幼い頃はいつも泣きべそかいているような子どもだったが、里緒だって強がっているだけで最後には堤防が決壊するように泣き出すような子どもだった。
「織姫の組織の人が、一体どういう意図があって私に織姫の連絡先を教えてくれたのかはわからない。きっと織姫に了承を取っているものだと思っていたからね。でもそれはただの、彼の善意だったのかもしれない」
里緒が言う彼とは渡瀬のことだろう。里緒や藍里に織衣の無事と連絡先を伝えたのも。渡瀬は織衣と里緒達に機会を与えたのだ、その関係が途絶えてしまわないように。結果的にそれは、またこうして織衣が札幌へ帰るためのきっかけにもなった。
「私は織姫が東京で新しい人生を、新しい環境で、新しい友人達と共に手に入れたのだと納得することにしたんだ。そういう転機は何度もあるものさ、卒業や就職を経てもずっと一緒ということは難しかったはずだからね。ならば私なんか……もう、織姫には必要ないのだと考えたんだ」
「そんなことないよ」
「あぁ違うさ、きっと良い人がいるんだと少しばかり妬いていただけだから」
勿論緋彗と和歌も織衣にとって良い友人だ。緋彗は織衣がツクヨミに入ってきたばかりの頃から彼女を元気づけようと渋谷だの秋葉原だの東京の色んな場所に連れ回してくれたし、意外と相談にのってくれるタイプだ。しかし里緒は、緋彗や和歌が持っていないものを、幼馴染しか持っていないもの、幼かった織衣との思い出を持ち合わせている。
「私はどうだっただろう……中学を卒業して、親に勧められた私立の高校に入り、毎日織姫や藍里が住んでいた家の前を歩いて、その度食傷気味になりながら、たまに授業をサボって図書室や河川敷で本を読む毎日だよ」
確かに里緒は中学の頃から不真面目にも授業をサボったりしていたが、高校生になってもやっているとは織衣も思っていなかった。きっと中学の時と同じ様に教師達に嫌われていることだろう、特に国語の教師には。
「私は、未だに過去に囚われているんだ。高校になって多くの友人達は別々の学校へ進学していった。毎日面白くない授業を受けながら、新しい日常で心の空白を埋めようとしているのさ……でも私は今でも、織姫がいなくなったことで生まれた空白を埋められずにいるんだよ」
里緒も織衣と同様に交友関係が広いわけではない。どうしてか変な人間とばかりつるんでいるし、里緒本人も他のクラスメイトに混じってワイワイ騒ぐようなタイプではない。休み時間には教室の隅で、いや教室という環境すら嫌って図書室や織衣がいる美術室までわざわざ足を運んで本を読んでいた。
「どうして……私を家に泊めようと思ったの?」
織衣が里緒と話すのを躊躇っていたのは、彼女が自分のことを嫌っているかもしれないと考えていたからだ。里緒は好き嫌いを表に出して語ることはないが、嫌いなものとは距離を置くことが多かった。嫌いなものでも離れていればどうでもよくなってくる、と。
それだけに、里緒にとって織衣はどうでもよくなっているのではないか──それを里緒の口から説明されるのを織衣は怖がっていた。
しかし里緒は、織衣に優しく微笑みながら口を開いた。
「私はこれでも、織姫のことをかけがえのない友だと思っているよ」
その言葉が、織衣の心にのしかかっていた重荷をどれだけ取り払ったか計り知れない。
「私は自分が変人だということを誰よりも理解しているつもりさ。認めたくもないけどね。勿論、そんな私と一緒にいた織姫や藍里も変人だということも知っていた」
「私を、怒らないの?」
「どうして、私が織姫のことを叱らないといけないんだい?」
「私は、里緒達に何も伝えずに東京に逃げて、里緒から連絡が来ても避け続けて……一年も経ってから突然連絡して……」
「もしも私が今も怒っていたなら、今日織姫をここに泊めるようなことはしなかったと思うよ。電話にも出なかっただろうね。勿論、わざわざ家に招いてくどくど説教するような趣味もない」
織衣は知っていたはずだった。里緒はそんなことで織衣を怒るようなことはないと、ましてや織衣と絶交するような人間ではないということを。ただそうに違いないと決めつけて、思い込んで、自分に言い聞かせて、それを言い訳にして逃げる自分を正当化しようとしていただけだった。
「ただ私は、寂しかったんだ」
織衣は再び泣き始めていた。自分が情けなくなったのもあるが、何よりも、里緒は過去を受け入れるための勇気をくれた。
「そりゃ私は頭のおかしな人間かもしれないけれど、織姫の悩みを受け止めるぐらいの覚悟はあったつもりだよ。織姫は大概自己評価が低いけれど、君も相当なお節介焼きで、人を思いやることの出来るお姫様じゃないか」
牡丹からクリスマスプレゼントとして新千歳行の航空券を渡された時は馬鹿らしいとさえ織衣は思っていた、しかし帰ってきてよかったと喜ぶことが出来た。
「私は織姫のような不幸を味わったわけじゃない。それに織姫が生きている世界は私に見えるものじゃないんだ。でも、私だって織姫の支えでありたかったんだよ……君の、その計り知れない苦しみの」
そう言って里緒は椅子から立ち上がると、織衣の頬に手を添えて笑っていた。
「笑っておくれよ、織姫。昔のように…………」




