5-24『織衣のクリスマスイブ』
東京は北海道のように頻繁に雪が降る気候ではない。この冬でも関東の山間部に雪が積もるぐらいで平野部に雪が降る気配はなく、ホワイトクリスマスという小洒落た季節にはならなかった。
織衣が過ごした去年の冬は雪が降っていたが、毎年のように積雪する雪国でそのありがたみを感じたことはなかった。幼い頃は雪だるまを作ったり雪合戦をして遊んでいたが、大人の階段を登っていく内にそういった遊びに興じることも減ってしまっていた。
そんな過去の自分を思い返しながら、クリスマスイブの夜、織衣はサンシャインシティの屋上から東京の夜景を眺めていた。確かにこれ程綺羅びやかな夜景は綺麗かもしれないが、クリスマスを感じるためには物足りないものだった。
「寒くないのかい?」
屋上に腰掛けて夜景を眺める織衣の隣に、いつの間にか渡瀬が佇んでいた。流石に夜も遅く寒いためエリーは連れてきていないようだ。織衣も突然渡瀬が出現しても驚かなくなった。
「札幌程はないから」
今の織衣は私服ではなくツクヨミの黒いコートを羽織っていた。冬場はインナーの重ね着も出来るため寒さには困らない。しかし首に巻く白いマフラーだけはどんな季節でも欠かさない。
織衣は隣に佇む渡瀬を見上げた。背は高いがそんなに威圧感があるような体格ではない。織衣が一年前に出会った渡瀬は、今よりかは若干子どものように思えた。今でこそ佇まいは大人っぽく見えるが、あの時は渡瀬もまだ高校生だったのだ。その割には随分と落ち着いていて、大人びた雰囲気の人間だったが。
「一年前……」
渡瀬はそう呟いて、織衣と同じく目下の都心を眺めていた。織衣の過去を知っているのは、渡瀬と牡丹と華ぐらいだ。任務でもないのに無闇に夜中に外出するのは控えるよう言われているが、華に伝えたらすんなりと許可してくれた。華は織衣の過去に一切触れてこないが全て知っているはずだ。だが心配だからと渡瀬をよこしてきたのかもしれない。
「あれが、織姫ちゃんにとっての始まりだったんだよ」
札幌での事件が無ければ、織衣はこんな形で上京していなかったはずだ。せいぜい修学旅行か、もしくは進学先に関東の学校を選んでいたら、というぐらいだ。一年前までの織衣ならそんな未来ぐらいしか思い浮かばなかったし、こんな苦悩の仕方はしなかっただろう。
しかし能力者になっていなければ、織衣はツクヨミの面々と出会えていなかった。そのどちらが幸せだったかは、もう悩むことも選ぶこともない。
「前を向くのは大変だよ。自分を縛るものと戦わないといけない。首を回すことも、目を開くことすら難しくなることだってあるんだから。
織姫ちゃんは、前を向けるようになった?」
織衣は何も答えられなかった。今日も織衣は逃げたのだ。一人でクリスマスイブの夜を越えるのが怖くなったのだ。明日、クリスマスを無事に迎えられるかという不安ではなく、この夜におぞましい悪夢を見てしまうんじゃないかと、眠りに就こうとした織衣は考えた。緋彗や和歌を頼ることも出来ず、一人になりたいからと真冬の夜にわざわざ外出したのだ。こんな凍えるような寒さの真夜中でも気を紛らわすことが出来ると織衣は思っていたが、やはり側に誰かいないと落ち着かない。
織衣は白い息を吐きながら口を開いた。
「私は……自分のこともわかっていて、どこに向かうのか……どんな未来が待っているのかを、知っていたつもりだった」
「スタンド・バイ・ミー?」
「そういうわけじゃないけど……でも、この世界は怖いぐらい広いから」
この日本ですら全ての土地を踏破するのは長い時間を要するものだ。それぞれの街を巡り、地元の人と交流し、その土地の文化や風俗を理解し、また自分の世界を広げていく。それはテレビや雑誌という媒体を介して知識として蓄えるとしても、それら全てをまるで地元や故郷のように感じるのは難しい。織衣にとって東京はまだ、第二の故郷と呼べる土地ではなかった。
「自分の行動範囲が世界の全てだよ。幼ければ幼い程ね。織姫ちゃんはこの一年で色んなことを知ったはずさ、知りたくなかったことまでね」
確かにツクヨミの能力者が生きる世界は、常人が生きている世界とは全く違う。殆どの人が知っているであろう表面的な世界と、多くの人が知ろうとしない内面的な世界の狭間にツクヨミは存在している。能力者である織衣達が、その身分を隠して高校生として生活しているように。
知らなければよかったと思ったことは何度もあった。特に能力者狩り……鷹取穂高がツクヨミに来てからは。革新協会や十字会の残酷な行い、能力者狩りの戦い、そして、能力者狩りこと穂高の境遇を……。
「私は色んな人と出会って、私が知らない世界を知って……でも、知りたいこともたくさん出来たから」
「例えば?」
「……五年前のこと、とか」
四月デストラクションは、織衣自身も東京で騒動の一部始終を知った。世間一般の価値観ではなく、一人の能力者としてだ。あの日、ツクヨミがどういう風に動いたか、日本各地で何が起こっていたかを知ることが出来た。
しかし五年前、福岡事変は未だに多くの謎が残っている。織衣がまだツクヨミの存在を、能力者すら知らなかった頃は一連の騒動を真に受けるのも難しかったが、かといって陰謀論に傾倒するのもバカバカしいと感じていた。ツクヨミに所属する能力者として生きていて、渡瀬や穂高、昴のように、あの日を生き抜いた能力者を見ていると、あの事件に、あの一日だけの戦争にツクヨミが関わっていないとは思えなかったのだ。
「五年前か……」
渡瀬はニコニコとを微笑みながら空を眺めていた。渡瀬でもまだ中学二年生の頃だ。彼は中学生だった頃もこんなすかした風な男子だったのだろうか。
「織姫ちゃんは、ツクヨミが関わっていると思ってるんだね?」
「うん」
聞きたいことがあったら聞け、答えたくなかったら答えないのだから、と織衣に言ったのは渡瀬だ(穂高も言っていた気もするが)。しかし、織衣は珍しく悪戯な笑みを織衣に向けて言った。
「織姫ちゃんが僕に勝てるようになったら教えてあげるよ」
織衣は渡瀬の答えを拒絶という風に感じ取った。無理難題が過ぎる、穂高によれば渡瀬は詠一郎と一緒だったとはいえあのオスカルを瞬殺したというのに。織衣は能力者として渡瀬に遠く及ばない、天地がひっくり返っても不可能だろう。
いや、福岡での出来事は渡瀬にとっても思い出したくないことかもしれない。ツクヨミにいる面子からは基本的に家族の話は耳にしたことがない、渡瀬も同様に。だからきっと渡瀬も福岡で家族を失っているのだろう。もしかしたら穂高と同じように……渡瀬が穂高のことを妙に気にかけているように見えるのは、似た境遇だからなのかもしれない。
「織姫ちゃんは、紋章共鳴を使えるようになったでしょ? 十分成長したと思うよ、僕は」
「……それは、穂高君のおかげみたいなものだし」
「確かに、織姫ちゃんは穂高君と出会ってから変わった気がするよ。面白いでしょ、穂高君は」
「面白くない」
「どういうところが?」
「いつも危険な目に遭うから」
穂高のおかげで命を助けられていると捉える事も出来るが、穂高はツクヨミに入ってからも自分から平気で危険な場所に足を踏み入れるし、何故か彼は面倒事をよく持ってくる。穂高は織衣のことをよく助けてくれるが、彼はそんなに死にたいのかと思う程自己犠牲精神が強すぎるというか、献身的過ぎるのだ。
「でも、オスカルは織姫ちゃん自身の手で撃退できたでしょ? 大きな一歩だよ。良い成功体験じゃない?」
「そんなこと……ないよ。私は何だかおかしくなりそうで、自分じゃないような誰かに体を操られているような感覚だったから……」
織衣が身につけた紋章共鳴は、まるで誰かが織衣に手ほどきしてくれたようなものだった。今の織衣もどうして自分が紋章共鳴を使えるのかよくわかっていないが、あの感覚が楽しいと思えるようになっていた。
「僕には、織姫ちゃんから憑き物が大分取れたように見えるけどね。まるで呪いが解けたみたいに」
織衣は自分の首に触れた。そこにあるのは一年前の傷跡だ。それは呪いのように、どれだけの月日が経っても織衣の首から消えることはない。
「……この傷は消えないの?」
触れても特に違和感はないが、やはり鏡で見ると気持ちが良いものではない。火傷痕のように黒ずんだ皮膚は化粧で簡単に誤魔化せるようなものではなく、こうしていつもマフラーで隠している。
「それは能力の残滓だよ。きっと……織姫ちゃんのお兄さんの能力が焼き付いてるんじゃないかな」
「じゃあ、これはおに……兄の怨恨ってこと?」
「さぁね。それはお兄さんに聞いてみたら?」
「どうやって?」
「心の内に聞いてみなよ」
無理だ。織衣自身の心の中にいる、織衣自身が彼女の心に作り上げた兄、姫野絃成が織衣を許すことはない。許してしまえば彼に甘えてしまうことになると織衣は思っていたからだ。織衣にとっては、それが自分への戒めだったのだ。
「まだまだ織姫ちゃんは伸び盛りなんだよ。人としても、能力者としてもね。能力者としての自分にもっと向き合えるようになったら、穂高君をギャフンと言わせられるぐらいには強くなれるかもしれないね」
織衣は穂高をギャフンと言わせたいと思っているわけではないが、そんな未来も面白いとも思った。それが面白いと思えるようになったぐらいには、織衣は能力者としての自分に向き合えるようになっていたのだ。
「穂高君や渡瀬さんは、向き合えてるの?」
我ながら変な質問だと織衣も思ったが、渡瀬は再び都心の夜景に目線を戻してから答えた。
「僕はこう見えても、皆のために生きているつもりだよ」
別に織衣は渡瀬のことを悪役のように感じたことはないが、そんな献身的というか人間という生物を愛しているように感じたことはない。渡瀬は確かに優しいし色々と気を遣ってくれる先輩だが、その中々崩れない穏やかな笑顔が不気味に見えることもあった。
「それは、穂高君も一緒だと思うよ」
「穂高君が?」
「そんなに意外かい? あんなに自分の身体や精神をすり減らしてでも革新協会や十字会と戦っている穂高君は、そこら辺の人よりかは正義感に溢れているだと思うけど」
確かに穂高は正義感には溢れている人間かもしれない。だが今、渡瀬が穂高をヒーローと言わなかったのは、やはりその残虐性がヒーローに向いていないからだろう。確かにまだ鷹取穂高という少年ではなく、能力者狩りという存在しか知らなかった頃の織衣は、能力者狩りはただ人を殺すことに快楽を得るタイプの狂人かと考えていた。鷹取穂高という少年を知ってからは、そういった側面も持っているのかと勘繰っていたが、穂高はただ──大きなものを背負って戦っているように見えていた。
「私も、皆のために戦えるかな?」
「ううん、そんなことは考えなくて良いんだよ。織衣ちゃんが今の自分に満足できているなら大丈夫だろうけど、まずは自分のことを大事にしてあげるんだ。まぁ穂高君は自分のことを大事にしてないかもしれないけどね」
そう言って渡瀬はフフッと笑っていた。穂高の自己犠牲精神が強すぎるのは決して笑い事ではないが、リーナという穂高専用の治癒師がいるが故に穂高の命は随分と軽いものになっている。
「十六歳の子どもが背負うことじゃないんだよ、皆の命なんて……ただ織姫ちゃんがそうなりたいのなら、穂高君の手助けをしてあげると良いと思うよ。それが近道だと思う」
「……渡瀬さん達って、何かと理由を付けて私と穂高君を近づけようとしてない?」
「気のせいじゃないかなぁ」
渡瀬はすっとぼけているが、渡瀬達は織衣と穂高の関係を勘違いしているらしい。織衣と穂高の関係はただの友人か、同じ組織に所属する仲間か同僚か、不思議と彼はそのどれにも属さないように思えたが、じゃあ何なのだと織衣は自問自答していた。
せっかく渡瀬との会話で気分を安らいできたところだったのに、今度は変な考え事で眠れなさそうだと織衣は頭を悩ませながらも渡瀬と本部に帰り、そしてクリスマスの朝を迎えた。




