5-13『未熟な怒り』
「寒くはないですか?」
渡瀬はエヴァに聞いたが、彼女は「大丈夫」と答えた。十一月末の夜はかなり気温が下がり、コートを着ていても肌寒く感じるぐらいだ。秩父は標高も高く都心より気温が低い。この美の山公園は普段は一般開放されているが、今は周辺地域を封鎖して戦闘に備えていた。
「賭けるか? 奴が何を選ぶか」
詠一郎が暇でも潰したいのか、藪から棒に渡瀬に言う。今、詠一郎と渡瀬はエヴァの両脇に立ってオスカルが来るのを待っていた。一応縄で簡単に身動きが取れないようにしたものの、エヴァは全くと言っていい程抵抗する素振りを見せないため特に警戒していなかった。
「じゃあ、死を選ぶ方で。茨城に行く用事を賭けます」
「それ、俺の仕事が増えるだけじゃねーか。やめだやめだ、同意見だったら意味がねぇ」
オスカルはヘリか車でこの場所へ来るはずだ。オスカルの能力はおそらく『感覚』、相手の知覚に干渉して渡瀬達の目線では瞬間移動しているように見えるようにしたとしても、オスカル自身が実際に瞬間移動出来るわけではない。だから能力を使用して素早く移動できないはずだ。
「穂高の奴は来るのか?」
「もう向かってきてると思いますよ」
「じゃあ一緒に戦わせてみるか?」
「穂高君を介護しながら?」
「だるいな。まぁ見学ぐらいで良いだろ、見るだけでも学べることはあるだろうさ」
詠一郎は多忙で殆ど本部に帰らないため、おそらく穂高は彼とあまり話したことが無いはずだ。しかしツクヨミに加入する前に穂高は詠一郎の戦いを少しだけ見ている。あれは相手が特殊だったため参考にはしにくいが、今日は少し力を入れて戦うことになるだろう。
「穂高君は納得しますかね」
「さぁな。アイツがどれだけ良識的な人間か試されるのかもしれん。俺はそうならないことを祈ってたり祈ってなかったりするが──」
詠一郎が突然黙った。彼がお出ましになったからだ。渡瀬達の目線の先から、ゆっくりとその人影が近づいてくる。
葉の落ちた木々に囲まれた広場に、オスカル・ヴェントゥーラが現れた。黒スーツだけという冬の夜には寒そうな格好だが、それ程慌てて駆けつけてきたのだろう。
「Buona sera,Oscar」
詠一郎がそう挨拶すると、オスカルはフッと笑って口を開いた。
「日本語で良いぜ、クソ野郎共。で、これは何かの取引か? それともすぐに俺を殺すか?」
オスカルは笑っているが、右目に赤い光を灯し既に能力を発動していた。今すぐにでも戦闘が始まりそうな緊迫した雰囲気の中、渡瀬が言う。
「クローチェを裏切って、僕達と共にクローチェを潰しませんか?」
オスカルやエヴァの生い立ちは副メイドの調査によってある程度渡瀬達も知っている。オスカルは家族が十字会の構成員だったとか自ら望んだというわけではなく、エヴァを巡ってジャンと決闘した上で彼に勝利したのにも関わらず十字会に入っている。それは恋人のエヴァを守るためならば、オスカルが十字会という組織の看板に拘る必要もないだろう──そう穂高は考えたのかもしれない。
「嫌だね」
しかし、オスカルは渡瀬達の、いや穂高の提案を断った。オスカルがそう答えるだろうということは、渡瀬も詠一郎も聞かずとも知っていたことだ。穂高から頼まれたため一応聞いたものの、穂高はまだわかっていないのだ。敵方の人間に興味を持ってついていく物好きな人間のことが。彼の身近にもいるはずなのに。
「俺はジャンの帝国が好きなんだよ。お前らにはわからねーかもしれないが、俺はでっかい夢や理想が好きなんだ。ジャンは俺を簡単に裏切るだろうが、俺はジャンを裏切るつもりはない」
ならば仕方がない。渡瀬と詠一郎は予定通りに事を進めるだけだ。
「わかりました」
渡瀬はジャケットの内側に装着していたホルダーから拳銃を取り出し、隣に立っていたエヴァのこめかみに向けた。
その予感を察知したオスカルが、口を開くよりも早くエヴァの元へ向かおうとする。しかし無駄だ、オスカルの能力では、もうこの引き金を止めることは出来ない。
オスカルが叫ぶよりも早く、渡瀬はその引き金を引いた。
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穂高達による陽動で現場が混乱している中、渡瀬達が乗る車がエヴァを乗せたことを知ると、長居は無用と穂高達はそそくさと退散して本部へ帰投した。これで穂高達の任務は終わったが、穂高は能力を発動してコートを装備すると、渡瀬から伝えられた秩父の美の山公園という場所へ急いだ。
穂高の能力はよく派手だと言われる。それは副メイドからも注意されることだ、あんなに派手で目立っていてはいらん目撃者が増えてしまうと。穂高は『光』の能力で光そのものに変化して空を飛ぶように移動できるが、極力街の明かりに擬態しながら目的地へと向かっていた。
穂高が本当に光の速さで移動できるのなら東京の池袋から埼玉の秩父まで一瞬でたどり着けてしまうはずだ。だが穂高と戦った渡瀬の話によると、穂高が光速で移動しているつもりでも実際には音速よりも遅く、せいぜい時速数十キロから百キロ程らしい。それを見るだけでおおよその時速を計測できる渡瀬も相当おかしいが、やはり常人離れした力を使うと体力を消耗してしまう。
しかし今日は問題ない、穂高は現場で見学するだけで良いのだ。滅多に見られない詠一郎や渡瀬とオスカルの戦いは、能力者として非常に興味があるものだった。
ただ、もしも穂高が渡瀬達に頼んだように、オスカルがツクヨミ側に寝返るようなことが起きてしまったら? オスカル自身が何を考えているかわからないが、その可能性はあまり高いようには思えない。しかしそれが実現するのなら、不幸な人間を少しは減らせるのではと穂高は思っていた。
本部を出て一時間程経つとすっかり辺りは暗くなり、秩父の山中へ辿り着く頃には穂高もヘトヘトになっていた。携帯で現在位置を確認しながら美の山公園に到着し、渡瀬達を探す。
するとその時、穂高の全身に痺れるような感覚が襲った。それはまるで寒気のような熱のような、何か強大な気配を感じた時のものだ。穂高はそれを感じた方角へと急いだ。
葉の落ちた木々に囲まれた広場に人影が見えた。エヴァの両脇に詠一郎と渡瀬が立ち、その向こうにオスカルの姿が見えた。穂高は近くに行こうと渡瀬達の元へ向かおうとしたが、突然渡瀬が懐から何かを取り出した。
遠目でも、それが拳銃であると穂高は気づいた。その銃口は、エヴァのこめかみを狙っていた。
オスカルが急に鬼の形相になり、エヴァの元へ駆けつけようとする。
しかし、エヴァとオスカルの距離は離れすぎていた。穂高でもわかる、オスカルの能力ではその距離を縮めることが出来ないということを。
そしてオスカルが叫ぶよりも早く、その引き金が引かれた。
その光景が、一連の動作と時間の経過が穂高にはスローモーションのようにゆっくりと感じられた。渡瀬が持つ拳銃から弾丸が放たれ、それがエヴァのこめかみに着弾すると、噴水のように勢いよく真っ赤な液体が噴き出した。エヴァは着弾の衝撃で軽く体が吹き飛び、そのままゆっくりと地面に倒れた。
「渡瀬さん!」
穂高は思わず叫んでいた。すると渡瀬は穂高の方を向いた。いつもの笑顔で。
今の穂高は、その笑顔を許すことが出来なかった。
「Eva!」
穂高が叫ぶと同時にオスカルの声も響いた。穂高が渡瀬と詠一郎の近くまで駆け寄ると、オスカルの怒りを、能力者としての迫力をより間近に感じることが出来た。やはりオスカルの能力はかなり強力だ、渡瀬と詠一郎が二人がかりで戦わなければならないわけだ。穂高は倒れたエヴァの側でしゃがんで彼女の体を揺すったが、もう息はなかった。
穂高は渡瀬と詠一郎の意図を汲み取れなかった。穂高の頼んだ提案が交渉した結果か? その交渉を断った代償がこれか? どうしてエヴァを殺す必要があった? どうしてわざわざオスカルの怒りを誘うような行いをしなければならなかった?
立場上巻き込まれざるを得なかったとはいえ、ただ愛したい人を愛しただけでこんな仕打ちを受けなければならないのか?
「Dio cane……!」
オスカルが何を言っているのかわからないが、おそらくふざけるなと言っているのはニュアンスで感じ取れた。
「Dio……non pensavo fossi un fottuto bastardo……!」
穂高も十字会の拠点を襲撃した際に彼らからよくイタリア語で罵倒されていたため、耳に入れている内に大分聞き取れるようになったつもりでいたが、その怒りを表情と語気でしか感じ取れない。穂高が渡瀬の方を見ると、彼が口を開いた。
「神はいない、かな」
穂高はオスカルの方に目を戻した。オスカルは首につけていたチョーカーを握っていた。赤い光が光線のように周囲に放たれ、そして彼の体に花の紋章が浮かび上がり始めていた。
「そうかもしれないね」
明らかに怒りで能力の暴走を始めようとしているオスカルを前に、渡瀬は平然とそう語った。詠一郎も両手をポケットに突っ込んだままだ。
この落ち着き具合を見るに、二人はこうなることを知っていたはずだ。暴走した能力者と戦うことがどれだけ難しいかを知っているはずなのに、どうしてわざわざこんな手段を選んだのか、穂高の疑問と怒りはますます高まっていく。
「Rubino,ti desidero, ti voglio────」
オスカルの額に二本の黒い角が伸びていた。まるで鬼のように──その瞬間、地面に伏せているのがやっとなぐらいに大地が鳴動した。いや、実際に大地が揺れ動いているのではなくこの空間が歪んでしまったのかと穂高は感じた。オスカルの能力の暴走により、穂高の視覚や触覚、あらゆる『感覚』が乱れてしまっている。高周波の不快な耳鳴りに急激な吐き気に目眩、この世界を感じ取るためのあらゆる感覚が歪まされながらも、穂高は何とか意識を保ちながら渡瀬と詠一郎を見た。穂高が一人苦しんでいる中、二人は何事もないように涼しい顔で立っていた。
「渡瀬」
「はい」
「やるぞ」
「はい」
オスカルが渡瀬と詠一郎に襲いかかった。もう陽気でお調子者のような若きイタリア人の面影は失われていた。鼓膜がはち切れんばかりの咆哮が響き、血管が浮き出て赤く染まった肌はまるで鬼のよう、まさに鬼気迫る勢いでオスカルは渡瀬と詠一郎を攻撃しようとした。
オスカルのその迫力に穂高も身構えた。胃の内容物が出ないよう必死に堪えながら、思わず仰け反りそうになった。
しかし、まず詠一郎がスッと簡単にオスカルの右腕を掴んだ。
そして、ほぼ同時に渡瀬がオスカルの左腕を掴んだ。こんなにも感覚が乱されているはずの空間で、正確にオスカルの体に触れたのだ。
するとオスカルの両腕は、まるでねじられたように簡単に千切れてしまった。
それは一瞬のことだった。両腕を失ってもオスカルの咆哮は途切れず渡瀬に噛みつこうとしたが、渡瀬はオスカルの顎を掴んだ。オスカルが動きを止めた一瞬の間に、今度は詠一郎の腕がオスカルの胸を貫いていた。
詠一郎はオスカルの胸から心臓のような真っ赤な臓物を引きずり出した。するとオスカルの咆哮が止まる。渡瀬がオスカルの顎を掴んだまま地面に思いっきり叩きつけると、オスカルはもう動かなくなっていた。
穂高を襲っていた知覚の異常は消え、穂高はフラフラと立ち上がってオスカルの姿を見た。両腕を失い、胸に空いた大きな穴は赤く染まり、顔はまるで何度も鈍器で殴られたように酷く欠損していた。
その光景を、穂高は不思議と見慣れているような気がしていた。どこかで何度も見たことがあるはずだ。
そうだ、これは──今まで自分が何度もやってきたことだ、穂高自身が、穂高自身の手で。穂高が戦った相手がこうして簡単に倒されることも、その体が原型を留めていないのも珍しいことではなかった。
しかしオスカルはそんな簡単な相手ではなかったはずだ。彼と戦ったことがある穂高はそれをよく理解していた。その能力に対して様々な対策を考えていたが、それに費やした時間が無駄だったように感じられた。
「──どうして」
穂高に背を向けて佇む渡瀬と詠一郎に向かって穂高は言った。
「どうして、エヴァを殺す必要があったんですか」
エヴァへの同情は誤った選択だということは穂高自身もよくわかっていた。穂高が何を言おうとも、革新協会や十字会を相手に残虐な行為を繰り返してきた殺人鬼が言う事に何の説得力がないことをわかっていても、穂高は堪えることが出来なかった。
今まで自分が奪ってきた命とエヴァの命、その違いは何か?
エヴァが美人だったから?
織衣がエヴァの絵を気に入ったから?
エヴァが壮絶な過去を味わっていたから?
何故自分がこれ程憤りを感じているのか、穂高自身もわからないまま能力を解除せずにいた。体力は限界に近かったが、まだ戦おうとしていた。
目の前にいる、渡瀬と詠一郎を相手に。
「……穂高君」
「待て、渡瀬」
穂高に語りかけようとする渡瀬を止め、詠一郎が穂高の前に立ちはだかった。
「俺が相手になってやるよ」
詠一郎がニッと笑ったのを見て、穂高も少し口角が上がった。彼は穂高を叱ることなく──いや、これが鉄拳制裁というものか。なんだっていい、一度湧き上がった収まらない怒りを、どこかにぶつけなければ気が済まなかった。
「能力者狩り……いや、穂高、お前も自分自身よくわかっているはずだ。その方向性のない怒りの矛先を、俺に向けるといい」
手加減する必要はないと穂高は思った。だって穂高が苦戦したオスカルを瞬殺できる能力者なのだから。
「紋章共鳴──」
穂高が右手首に装着していた黒い腕輪を掴んだ。
「おうマジか」
意外そうな声を発しながらも、詠一郎は余裕そうな表情だった。
「──“月光”」
穂高は本気で、全力で詠一郎と戦おうとしていた。




