四月の記憶
求めなさい。そうすれば、与えられる──『マタイによる福音書』第七章第七節より。
あの時殺されていれば良かったと、あとどれだけ後悔するのだろう?
これからどれだけ、自分の不甲斐なさと愚かさを嘆き、葛藤する日々を過ごしていくのだろう?
その苦しみから逃れるために、一体どれだけの犠牲が必要になるのだろう?
段々と鮮明になっていく意識の中で、彼はそんなことを考えていた。視界がはっきり晴れると、ガラガラと壁が崩れ落ちていく建物や積み重なった瓦礫の山、骨組みだけが残る車の残骸。そして世界の終わりを告げるかのような、赤黒く染まる夜空が彼の目に映し出された。
現実とは信じがたいその光景は、地獄を見たことがない彼にとっても、まさに地獄であると形容する他なかった。何が起きたのか、今全てを理解しろだなんて、齢十五そこそこの少年には困難だろう。ただわかることは、幸か不幸か彼がまだあの世の住人ではないということだ。
生きている。生き延びたのだと、彼はようやく気づくことが出来た。目の前にはもう恐れるものはない。待っていればいずれ助けも来ることだろう。ただ彼の感情は、この災厄から生き延びた喜びよりも、生き残ってしまった悲しみの方が勝ってしまっていた。
「お兄ちゃん?」
青いリボンを着けた長い黒髪の少女が、不安げな表情で彼に問いかける。その手が優しく彼の頬に触れると、その温もりを肌で感じ取れた。どうやら自分は彼女に膝枕をされているらしい、と彼は後頭部で感じ取る。彼女の頬に付いた鮮血は誰のものなのだろうかと、彼は実の妹を目の前にして、他人事のように考えていた。
「なぎさ、汀は?」
彼は汀という人物の行方を求めた。彼は体を起こすと、汀という少女が近くの地面に横たわっていることに気がついた。建物や車の破片が散らばる地面には、彼女の体から流れ出た血溜まりが広がっている。
「汀ちゃんは──」
殺された。
誰に?
自分達を襲ったテロリストか?
いいや、彼らの亡骸はそこらに転がっているだけだ。もういない。ならば一体、誰が汀を殺したのだろう?
「あぁ、そうか」
彼らと戦ったことが、もう遠い昔のように思えた。彼らは今までの出会ったことのない、いや出会いたくなかった化物ばかりだった。
汀。彼の想い人は彼らに殺された。そんな事実が結果として残されていた方が、そう記憶に刻まれていた方が、彼にとっては幸せだったかもしれない。
「僕が、汀を殺したんだ」
新学期が始まって間もない、桜が散り青く染まり始める四月のこと。彼は奇跡を願い、奇跡を手に入れた。大切な人を守るために、ヒーローとなるために。しかし、その願いは儚くも散ることになった。
ある兄妹がきっかけとなった長い戦いの日々の始まり。それは彼がヒーローとなるための、彼らがヒーローとなるための、長い物語の始まりだった。
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鷹取穂高の休日の日課は、時たま時間を見つけては家の食堂の手伝いをすることだった。と言っても、本を呼んだり勉強したりしながらレジで会計を待っているだけの簡単な仕事だ。井戸端会議に襲来するご婦人たちとはすっかり顔見知りで、何気ない日常を見ることが穂高の楽しみでもあった。
「うちの野球部、マネージャーの先輩がすげぇ可愛いんだよ。アイドルかってレベル」
レジの後ろで椅子に座りながらスポーツ雑誌を読む穂高の前で、紺色のジャージを着た少年が熱弁している。彼は汗をタオルで拭きながら「あれは少なくともEだ」と付け足す。
「凄い人気だよねあの人。部活動紹介だけでどれだけ一目惚れした連中がいることやら。
もしかして涼太も惚れた口なの?」
新入生向けのオリエンテーションの際に見かけただけだが、そんな短時間だけでも十分に印象に残っていた。レジ脇の置いていたクッキーをつまみながら「ボンキュッボンだったね」と穂高は付け足す。
「いいや、焦りは禁物だ。やっぱり俺自身がどれだけかっこいい奴なのかしっかりアピールして、存在感を強めないとな!」
フフンと胸を張りながら彼はコップの水を飲み干した。彼、嵯峨崎涼太は穂高と小学校からの付き合いで、ランニングの補給所代わりにタダで水やお菓子を貰いにこの食堂へやって来る。その度このようなくだらない話をするのも穂高の楽しみだ。
「中学の頃はサッカーで天下を取るとかぬかしてたのに、今度は甲子園にでも行くつもり?」
「仕方ないだろ、先輩がどストレートなんだから。場外ホームランにしたいぐらいだ」
「わかる。でもまずは、そもそも今現在お付き合いしている人がいるかどうか調べないとね」
同級生の男子共は先輩マネージャーの話で盛り上がっていたし、そんなノリと勢いで涼太が野球部に入部したことも穂高は知っている。涼太がこの先、女に惑わされてどんな高校生活を送ってしまうのか、穂高は心配していなくもない。
「穂高くーん、会計おねがーい」
井戸端会議に勤しんでいたご婦人の一人がレジへやって来た。最近お孫さんが生まれたという恰幅の良いマダムだ。
「あ、はーい。三千三百八十円ですね」
「いつもお手伝いしてて偉いわねぇ。あ、穂高君達高校生になったんでしょ? ほら、これ入学祝いよ~」
「ありがとうございます」
「涼ちゃんにも、ほら」
「お、まじっすか。あざーす」
常連のご婦人から、入学祝いにと穂高と涼太は板チョコをプレゼントされた。甘党の穂高にとっては嬉しいプレゼントだ。
ご婦人の会計を終えたタイミングで、涼太もタオルを首に巻いて立ち上がる。
「んじゃまた明日な。俺は自主練でもしてくるぜ」
「宿題終わったの?」
「文武両道を極めたらかっこいいだろ? 終わってねぇけど」
スポーツ万能でそこそこ顔も良く、恋のためならどんな障害をも乗り越える覚悟の涼太は割と先輩を射止めてしまうんじゃないかと穂高は一瞬考えたが、そういえば成功例がなかったなと我に返った。
穂高は涼太を見送ろうと立ち上がったが、穂高の腕が不運にもレジ脇に置かれていた招き猫に当たってしまい、陶器の割れる甲高い音が店内に響いた。
「大丈夫かぁ!?」
この食堂の店主、鷹取荘二郎が慌てた様子で厨房から二人の元へやって来た。
「大丈夫だよ父さん。だけど招き猫が……」
左手を上げていた白い招き猫は、床に落ちた衝撃で縦に真っ二つに割れてしまっていた。その光景が穂高には何とも不気味に見えた。
「うげぇ、縁起わる……」
涼太は青ざめた表情で招き猫の破片を拾っていた。昔からこの食堂に置かれていた色褪せた招き猫は、心なしか悲しげな瞳をしているように見えた。
「はは、お客さんが来なくなっちゃうな」
「呑気なことを言ってる場合じゃないよ。替えを買いに行ってこよっか?」
「おぉすまんな穂高。後で駄賃をやるからよろしくな」
穂高は食堂の外で涼太を見送った後、自室に戻って支度をし、再び店内に入る。すると荘二郎の妻である恵が出前の配達から戻ってきたところだった。
「あ、母さん。レジに置いていた招き猫が壊れちゃったから買いに行くんだけど、他に買うものある?」
「あら、じゃあ醤油を買ってきてくれる? 今日はちょっと出前の注文が多くて暇がないのよねぇ」
「わかった。んじゃお小遣いちょーだい」
「はいはい」
夕飯の買い物をするのも、最早穂高の日課に近いものだ。夫婦で営む食堂も段々と忙しくなってきたため、スタッフを増やそうかという話もある。暇があれば手伝う穂高も、学業に励むためバイト代わりというほど根を詰めて手伝いが出来るわけでもなかった。
「んじゃ、行ってくるね。五時までには戻るよ」
「いつもありがとね。気をつけて行ってらっしゃい」
いつものように、穂高は家を出て近所のスーパーへと向かう。
それが──彼らとの最後の会話になるとは、穂高には到底考えられなかった。彼は至って普段どおりの日常を送っていたつもりだったし、これからもそんな日常が続くものだと、当然のように考えていたからだ。
「よーしよーし」
近所にあるスーパーへの近道は、人通りが多い広い通りではなく路側帯もない暗く狭い路地だ。夜中は暗くて怖いからと避けて通るが、昼間ならそれほど怖くない場所だ。路地には人が住んでいるのかわからない古い民家や木々が生い茂る空き地があるだけで人気はない。
そんな路地で、穂高は見覚えのある少女を見かけて足を止めていた。腰にまでかかりそうな長く黒い髪の少女は、粗末な小屋に住んでいる黒猫の前でしゃがみながら、気味が悪いほどの笑顔を浮かべていた。見ると、ミャーミャーと鳴く黒猫の前には魚の缶詰が置かれていた。
「ご飯美味しい? 次はもっと美味しいのを持ってくるからねー」
同じクラスの同級生、海風汀もまた、穂高とは小学校からの縁である。普段の彼女は確かに可愛らしい一面もないことはないが、どちらかというと男勝りな振る舞いばかりしている。そんな汀がこんなに浮かれている姿を穂高は見たことがなかった。
見てはいけないものを見てしまったと、汀の珍しい姿に困惑しながら穂高は来た道を引き返そうとした。が、汀が可愛がっていた黒猫が穂高に気づいて突然走り出し、汀の目線も自然と穂高の方を向いた。
「げっ」
「友達を見てげっとはなんだよげっとは」
穂高の存在に気づいた汀はあからさまに嫌そうな顔をしながらその場で硬直していた。やはり見られたくない一面だったのだろう、よりにもよって穂高のような粘着性の強い男子に。
穂高は足元で喉を鳴らしてくつろぐ黒猫を可愛く思いつつ、どうしたものかと立ち尽くす。
「このネコ、どうも肉付きが良いと思ったら汀も餌付けしてたのか……」
まさか友人が、それも普段はそんな素振りを全く見せない汀がデレデレしていたのは、穂高にとってはかなりの衝撃だった。高校生でいる間はずっとそのネタでいじることだって出来そうだ。
「……泣きたい」
「ミャーミャー鳴いとけば?」
「ミャー」
黒猫が変わりに鳴いていた。
「ところで、穂高君はこんなところで何してるの?」
汀は諦めた様子で穂高の元へやって来て、黒猫を抱き上げた。汀の腕の中で心地よさそうに黒猫は鳴く。
「これからそこのスーパーに行くだけだよ。汀は道場帰り?」
「そ。またお菓子に買いに行くのね」
「それもだけど、招き猫が壊れちゃってさ。お客さんがお店に来なくなっちゃうよ」
穂高がそう困った素振りを見せると、汀はハッと何かを思いついたように目を輝かせた。
「ねぇ、この子を看板猫として」
「衛生的に勘弁」
汀の提案を穂高はすぐに却下した。
「でも、穂高君ってネコ派でしょ?」
「父さん達がアレルギーだから無理」
「でもほら、招き猫代わりに」
「どんだけウチで飼わせたいのさ」
「可哀想だから」
何ともわがままな理由だ。だが当の汀が飼えないのは、彼女の父親もまた動物アレルギーだからである。涼太とかいう女という生物にしか目がない男子はそもそも動物なんて興味がないだろうと穂高は考えていた。
「ひとまず、僕はスーパーに行かないといけないから。商売に願掛けは必要だからね」
「やっぱり看板猫を」
「却下」
さらに食い下がろうとする汀に対し穂高はそっぽを向いて、本来の目的地であるスーパーへ足を進める。
「ねぇ、穂高君の叔父さんのコーヒーとかお菓子ってとっても美味しいと思うの! だからネコカフェってのも」
「なあい! 需要がなあい!」
「試さずに否定するのはおかしいと思うわ!」
尚も諦めずに追いかけてくる汀から逃げるように、穂高は全速力でスーパーへと走っていった。
スーパーの陳列棚の片隅に、数種類の招き猫が並べられている。千客万来の願掛けのため、穂高は左手を上げている三毛の招き猫をカートに入れた。
「ねぇ、黒いやつは買っていかないの?」
穂高が後ろを振り返ると、黒猫好きな汀が黒い招き猫を手に取っていた。
「もう家にあるよ。黒いのは魔除け、そんなのが壊れたらそれこそホラーみたいじゃん」
あの店主は迷信やおまじないにすがらないと不安になるタイプのようで、しっかり魔除けのために黒い招き猫がレジ脇の棚の上に居座っている。そんな黒猫が壊れる光景を想像してゾクッと悪寒を感じつつ、穂高は前を向いた。そして再び悪寒を感じるとすぐに後ろを振り返った。
「どうして君がここにいるの!?」
「え? お菓子おごってもらえるかなって」
「また僕を財布として使う気だな!?」
「アイスを食べたいわ。春風が吹く中で食べる冷たいアイスって最高よね」
汀は年がら年中アイスは最高よねと言う。穂高は汀を撒いたつもりだったが、スーパーの場所は近所に住んでいる彼女も知っているため、どれだけ逃げても意味がない。穂高は汀が望んだ通りのチョコアイスと、さらに自分と妹の分もカートに加えていた。
「今日は良い日ね」
近くの公園のベンチに腰掛けて、汀は幸せそうにカップアイスを食べている。大分暖かくなってきたが、吹き付ける春風はまだ肌寒い。ご満悦な汀の横で、穂高は溜息を吐いていた。アイス代は穂高の自腹だ、また彼の貯金が減っていく。
「まぁ、珍しいものを見れたしね」
「涼太とかに言ったらどうしてやろうかしら……」
涼太は大笑いするだろう。指を差しながら。「マジかよ、似合わねぇ~」という具合に。もし涼太に話してしまったら、汀は一時の間、話しかけても口を利いてくれないだろう。
「冗談だよ。汀はまだ道場に通ってるの?」
「うん。帰りはいつもネコを見に行ってた」
「いつもあんなデレッデレなの?」
「それは気分次第だから」
プイッと穂高から顔を背けて、汀はアイスを口に運ぶ。今日はさぞかし気分が良かったのだろう。今は穂高にアイスを奢ってもらって、尚のことご機嫌だろう。
「そういえば、汀は部活入らないの? うちの高校、まあまあ柔道部強かったでしょ?」
穂高達が高校に入学して、かれこれ一週間以上経っている。中学時代は柔道の世界で名を馳せていた汀は、今は帰宅部の穂高と共に帰っているだけだ。親戚がやっているという道場にはまだ通っているそうだが、前ほど頻度は多くないらしい。
「部活には入らないかな。柔道は護身術として習っていただけだし、他にもやりたいことなくて」
「強いのにもったいないよ」
「良いの良いの。大体父さんが過保護だっただけだから。
あ、そうだ。椛ちゃんに教えて上げてもいいけど? 変な人に出会っても撃退できるかもしれないし」
「それは是非ともお願いしたいけど、椛が汀みたいになるのは嫌だなぁ」
「どういう意味で言ってる?」
「何でもないよ」
突然凄んだ汀の声に身の危険を感じた穂高は、テキトーなことを言って言葉を濁した。確かにいつ何時何が起こるかわからないため、護身術は習っていても損はしないはずだ。
世界有数の大都市である東京は一千万人以上の人々が、首都圏には四千万人以上の人々が住んでいる。絶対数が多ければ、何かと増えるものもあるだろう。
だがもうこれ以上、何かが起こることなんてないだろう。穂高はそう信じていた。
今日が、そんな日になってしまうことを知らないまま。