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第三部前編 五十九話のあと ユマ視点②

(ユマ)


 気持ち良いまどろみから引き戻される。

痛いほどの冷気が肌を刺し、鼻腔の粘膜を刺激する。腕の辺りもズキズキ痛むし、手足は痺れて思うように動かせない。


 ユマは(うめ)いた。



「ああ、良かった。気付かれたのね」



 甘く優しい声がする。

 ママに似てる。ママの声ではないけれど、落ち着く感じは同じ。穏やかな乳香の香りを漂わせて──


 目を開けると、ランタンの灯りに照らされた婦人の顔が見えた。助け起こしたユマの頭を膝に載せ、心配そうに覗き込んでいる。年の頃はユマの母カミーユと同じくらいだろうか。綺麗な人だ。



「ここは……?」



 尋ねた後、よその屋敷へ入り込んだことを思い出した。



「ご、ごめんなさい……私、勝手にお屋敷の中へ……」


「いいのよ。可哀想に……怪我をされてるのね。立てる?」



 何とか立ち上がり、小柄な婦人の肩にもたれ掛かる。侍女と思われる老婆がランタンを持った。



「さあ、中へ入りましょう。怪我の手当てをするわ。温かい飲み物でも飲みましょう」



 婦人に支えられ、だだっ広い庭園を横切った。庭園……というよりか、ただの草原である。草は伸び放題。所々に植えられた木も、枝を好き勝手に伸ばしている。手入れはほとんどされてない。


 歩く内、すぐに足の感覚は戻った。

 変な体勢で寝ていたため、身体が強張っていただけである。ユマは婦人から身を離し、自分の足で歩いた。



「良かった。歩けるのね。心配したわ」



 安堵の溜め息を吐く婦人の顔は穏やかで、後ろ暗さなど微塵も感じさせない。

 一方、荒れた庭園に囲まれた巨大な屋敷は不気味だった。手入れしてあれば、さぞかし立派な屋敷なのだろうとは思う。


 だが、三日月に照らし出されたその姿はお化け屋敷にしか見えない。


 荒れ放題の庭と魔女のごとき老婆のせいかもしれなかった。侍女と思われる老婆の腰は九十度近く曲がっており、鉤鼻と皺くちゃの顔は絵本に出てくる魔女そのものであったから。


 重々しい扉を押せば、錆びた蝶番が音を立てる。ユマは思わず顔をしかめた。

 

 屋敷の中は暗かった。

 使用人は老婆の他にいないようだ。

 広々とした回廊にトーチは灯されていない。

 ランタンの灯りだけを頼りに歩いた。


 揺れる灯りに照らされ見えるのは、白い埃の塊──ではない。蜘蛛の巣だ。天井やトーチを置く台にあちこち張られている。



『本当にお化け屋敷みたい……』



 婦人が優し過ぎるのも心配になってくる。

 廃墟のようなこの屋敷に似つかわしくない人だ。上品でおっとりしていて、とても優しい。見ず知らずの侵入者を気遣うなんて。



 不安を募らせていく内に着いた。

 テーブルと椅子が四脚。あとは小さな飾り棚と揺り椅子、スツール、ソファーがあるだけの小さな部屋。この部屋だけが明るく、暖かかった。燭台に蝋燭が灯され、暖炉には赤々と燃える炎が踊っている。



「どうぞ。くつろいで頂戴」



 婦人に促されるまま、ユマはソファーに腰掛けた。すぐさま、老婆が消毒液やら包帯の入った籠を持ってくる。案外、機敏な動きである。手際よく傷の手当てをしてくれた。傷と言っても、門扉をすり抜ける時に負った擦り傷程度だが。


 その後、温かいココアを出され、ユマは恐る恐る口を付けた。火傷しないようそろそろと(すす)れば、優しい甘さがじんわり染みていく。


 婦人は揺り椅子に腰掛けた。老婆は大きなスツールに体半分を預けて、腰をさすっている。  

 婦人は自身も同じものを啜ってから、話し始めた。



(わたくし)、アンジェリーヌ・クレマンティと申します。ただの未亡人ですわ。この広い屋敷に老いた侍女二人と住んでいるの。もう一人は寝てしまっているから、明日紹介するわね。


今日は遅いから泊まっていきなさい。薄汚い所ですけど、清潔なベッドくらいはあるわ。掃除が行き届いてないのはごめんなさい。三人だけで管理するのは大変なのです。その内二人は動きに制限がある老人ですしね。なので、怖がる必要はありません。ここはお化け屋敷ではなくて、家族のいない哀れな女達が身を寄せ合って暮らしているだけですから」



 笑みを浮かべながら話すアンジェリーヌ夫人からは悲壮感は感じられない。黒い瞳と癖のあるブルネット※は艶々していて若々しいし、皺一つない顔は美しい。未亡人と言っても、まだ再婚できそうだ。


 それより「クレマンティ」という名前には聞き覚えがある。六年前、イアン・ローズの乱で戦死した元宰相の名前だ。このことに関してユマは全く詳しくなかった。


 その謀反の後に父が帰ってきたので、何となく関係があるような気はしている。だが、他国にいた父がどういう形で関わったのかまでは分からなかった。家にいるイアンはそのイアン・ローズに似ているからと、皆にイアンと呼ばれているが……


 水を得た魚のごとく、夫人は生き生きと話し始めた。



(わたくし)にもあなたと同じくらいの年頃の娘がおりますのよ。イザベラといって、とても歌の上手な子なの……あ、あなたよりもちょっと年上かしら? 


事情があって、何年も留守にしていたと思ったら、またすぐに旅立ってしまうんだもの。一体、今何歳なのか……忘れてしまったわ。飄然として男みたいな子。そう、あなたみたいに男の格好をして、剣を振り回すこともあったわ。亡くなった主人の話ではなかなか強かったみたい。


今はディアナ女王陛下にお仕えしてますの。仕送りはあるから、私達こうやって不自由なく暮らしていけますのよ……そうだ、お名前をお聞きするのをすっかり忘れていたわ」


「……ユマ、と申します」



 姓は言えない。

 もし言えば、いかにもお人好しの夫人は家族が心配しているだろうと気にする。連絡されてしまったら元通りだ。

 幸いにも、アンジェリーヌ夫人はそれ以上何も聞いてこなかった。


 ココアを(すす)ると、少しだけ気持ちが落ち着く。暖かな暖炉も母に似た夫人も、心を穏やかにさせた。遠い昔にもここでこうしていたような、不思議な感じがするのだ。

 老婆がオレンジピールを持ってきてくれた。



「どうぞ、どうぞ。食べて。今の時期、庭でたくさん穫れる夏みかんで作るのよ。もう、たくさんあるから食べきれなくって……イザベラはこれが大好きなのよね。今、グリンデルにいるから送ってあげなきゃ。今朝、ローズ城で戦が起きて大騒ぎだったでしょう? びっくりしたわ。ねえ、ソニア? そこのソニアが町へお使いに行った時、聞いたのよ。冷や水を浴びせられたみたいになったわ。イザベラはたまたまグリンデルにいてローズ城には居なかったの。無事で本当に良かった……」



 ソニアというのは侍女の老婆のことである。

 一度溢れ出した取り留めのない話は、なかなか止まらない。

 ユマは鮮やかな(だいだい)色のオレンジピールを手に取った。砂糖をまとったお菓子は暖かい灯火の中、宝石みたいにキラキラ輝いている。


 一口、口に入れれば、ブワッと広がる爽やかな香り。甘さの後に酸味、ほろ苦さが襲ってくる。複雑な味だ。でも、とても美味しい。



「とても美味しいです……」



 言った途端、涙がこぼれそうになった。

 幼い頃、同じお菓子をバム島で食べた。そのことを思い出したのである。



「ごめんなさい……」


「あらあら……」



 夫人は話をやめ、老婆にハンケチを持ってこさせた。心配そうに伺うその顔は善人そのものだ。ここにいる娘がローズ城を襲った悪い男の娘などとは思いもしないのだろう。



「ごめんなさい。私が全部悪いのです。私が我が儘だから……いい子にしてられないから、次々と悪いことが起こるの。兄姉が死んでしまったのも、パパが変わってしまったのも、ローズ城が襲われたのも全部私が悪いんだわ……」



 自分でも何を口走っているか分からない。

 涙がポロポロこぼれて、白いハンケチを濡らす。この優しい人にまで迷惑をかけているような気がして、ただただ、申し訳なかった。


 抑えていた言葉は堰を切って流れ出す。



「父が大切にしている従者の子供を身ごもってしまったのです。彼は私じゃなくて、父を選びました。私、一人で家を飛び出したのです」


「まあ……」


「父は出来損ないの私より兄や姉を愛してました。兄も姉も亡くなって……どんどん父との関係は悪化しました。父にとって私は邪魔者で、さっさと結婚相手を見つけて厄介払いしたかったみたい。


出て行く時だって、娘の私ではなくて彼だけを引き留めたんです。それで、彼は恩人である父を裏切れないと屋敷に残りました。唯一、味方だった母は心配しているでしょうが、私は父だけでなく恋人にまで捨てられたのです。


たった一人でどこへ行けばいいか分からずさ迷う内、このお屋敷にたどり着きました。もう戻る所など、どこにも……」



 漏れる嗚咽(おえつ)を抑えようと、握ったハンケチを口へ当てる。

 肩にフワリ、柔らかな毛布を掛けられた。

 ユマの背中をさするアンジェリーヌ夫人の顔が近くにある。憐憫に目を潤ませ、ユマを抱き締めた。



「可哀想に。さぞ辛かったでしょう……」


「私……ご迷惑を……」


「全然迷惑なんかじゃないわ。帰る場所がなければ、好きなだけここに居てくれていいのよ。私達も張り合いのない毎日を送っているだけだし、話し相手がいるだけで嬉しいわ」



 胸一杯に乳香の香りを吸い込めば、安心してまた眠くなってくる。聖母を思わせる人にもたれ掛かり、ユマは瞼を閉じた。


 

 

※ブルネット……僅かに茶味を帯びた黒髪。

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