第三部前編 五十九話のあと ユマ視点①
(ユマ)
寒風は容赦なくユマの頬を煽った。
あんまり冷たくて、涙がそのまま凍り付くんじゃないかと思う。
泣きっ面に蜂とはまさにこのこと。
守ってくれるはずの恋人はユマではなく、天敵である父親を選んだ。
戻れば必ず、好きでもない男と結婚させられる。全てあの糞親父の思い通り。
『冗談じゃないわ。誰が戻るもんですか』
妊娠は嘘じゃない。
ここ数日、ユマの体調がおかしいことにまず母のカミーユが気付いた。女の勘だろうか。すぐさま医者に診せたのである。
妊娠三ヶ月。
どうすればいいか分からなかった。
ダーラに話してもきょとんとしているし、ユマ以上に分かっていない。
カミーユがダーラに真意を問いただした。
「いい? ダーラ。赤ちゃんは産んだら育てなくてはいけないの。母親だけでなく父親もよ。あなたはこれから父親にならなくてはいけない。その覚悟はある? お腹の子とユマのことを愛しているの?」
「愛」という言葉にダーラの耳がピコンと反応した。ぼんやりした瞳が急に熱を帯びてくる。
「愛してる。愛してます。お嬢様のことは」
「お腹の赤ちゃんも一緒よ。ユマの一部なの。いいえ、あなたの一部でもあるわ」
「赤ちゃんのことはまだ実感が湧かないけど、お嬢様の一部なら大事にします」
「そう……じゃあ、このことを主人にちゃんと自分から話しなさい。いいわね? 必ずユマとお腹の子を守ると約束して。絶対よ?」
「分かりました。絶対に守ります」
ダーラの瞳に嘘はなかった。
普段はふにゃふにゃして意志薄弱のくせに、こういう時は別人みたいにシャンとする。
ユマは胸をときめかせ、そんなダーラの横顔を見つめていたのだ。
──あの時、守るって言ったじゃないの? 早く助けに来なさいよ
見上げれば、夜空に三日月がぶら下がっていた。まるで、こちらを見て笑っているみたいだ。ユマはブルルッと身震いしてから、マントの襟を立てた。
そろそろ、執事のシリンが連れ戻しにくる。その前に遠くへ行かねば……もっと遠くへ……
そうは言ってもどこへ行くかなんて決まってない。部屋にはグリンデルへ行く……とだけ書いた置き手紙を残した。父への嫌がらせである。グリンデルにいるディアナ女王の元で仕えるという意味だ。
だが、国内ですら王都と生まれ育ったバム島以外はほとんど行ったことがない。一人で他国へ行けるとは到底思えなかった。
ここは王都の中心部。
貴族の屋敷が連なるいわば高級住宅街だ。
下町とは違い、治安は悪くない。
しかし、普通は夜道を婦女子が一人で歩いたりしない。昼間でも供の者を連れて歩く。身分の低い町娘だって誰かしら連れて歩くのだ。
ひとけのない暗い道を歩く内、ユマは不安になってきた。ガス資源豊富な夜の国では至る所にガス灯が設置されていると聞くが、ここは鳥の王国。ガス灯が設置されているのは繁華街だけである。
ランタンは持ってきていない。
今はこちらを笑う月明かりだけが頼りだった。
自然と早歩きになってしまう。
どこをどう歩いたか、分からなかった。
自分の呼吸と足音が混ざる。
競争しながら耳に飛び込んでくる。
呼吸、足音、呼吸足音、呼吸足音呼吸足音呼吸足音呼吸足音……
急かされて、次第に歩く速度は上がっていった。
ダーラが思い直して追いかけてきてくれたら……いや、もう誰でもいい。シリンでも、イアンでも──
自ら発する音に追いかけられベソをかく。
その内、ふと気づいた。音の中、雑音が交じっていることに。
自分のではない「足音」だ──
背筋に冷や水を浴びせられる。
ユマは駆け出した。
走って走って走って走って走って──
相手も走っている。
追いかけられている。
道を幾つも曲がって、袋小路に出た。
足音は確実にこちらへ向かってくる。
もう行き止まりだ。
絶体絶命──
石畳と高い石塀に囲まれた牢獄で暴漢に襲われる。塀の合間から覗く空からは、嫌らしく笑う月が淡い光を放っている。
誰も助けに来てくれない。
一人ぼっち。
何故だろう?
こんな時に何故か幼い頃の思い出が浮かび上がってきた。迷子になった時のことである。
あれはまだバム島にいた頃……
ユマはまだ五、六歳だった。
祭りを見に城下へ下りたのだ。
人形劇に飽きて、猫を追いかけ回している内に従者達から離れてしまった。
気づいた時には一人。
今と同じだ。
通り過ぎるのは見知らぬ顔ばかり。
恐ろしくなって、声を張り上げて大泣きした。
そんなユマに近付いてきたのは、山のような巨体をした大男だった。長過ぎる髭を揺らし……
「パパ!!」
供も連れず一人、探しに来た。
傲岸不遜な父にユマはしがみついた。
「勝手に離れたら駄目だろうが!!」
父は物凄く怖い顔で言ってから、ひょいとユマを抱き上げた。それでも恐さより安堵の方が勝っていた。
強くて偉くて格好いいパパ。
背だって皆より高いし、体も一回り大きい。
あんなに長い髭を結んでいる人は他に見たことがない。
島の民は皆、殿様殿様と言ってパパを慕っていた。パパが歩けば、皆避けてお辞儀する。殿がお通りになる、髭殿のおでましだと。
うちのパパは特別だということは幼心にも分かっていた。そのパパが一人でユマのことを助けに来てくれたのだ。
濡れた頬を指で拭い「もう泣くんじゃないぞ」と言う。キスされると、濡れた頬に髭が張り付いた。安心はしたものの、まだユマは泣きやまなかった。まだ身体に一人ぼっちの恐怖が残っている。
そんなユマの様子をジッと見つめていたパパが突如、首を下げユマを頭上高く持ち上げた。ユマは突然の浮遊感に身を固くする。パパはそのまま低くした自分の首の上にユマを置いた。肩車だ。
世界が変わった。
そこには今まで見たこともないような世界が広がっていたのである。
さっきまで人の影に隠れて、道の先すら見えてなかった。人々の足元だけ追っていたのだ。
今は自分がどこを歩いているか、ハッキリ分かる。城へ繋がる細道だ。
人々の頭頂部が幾つも見える。
頭の上はこうなっていたのかと感心する。
でも、何より世界はこんなにも広かったのかと。
城だけじゃない。遠くの山々や耕地の向こうの森まで見渡せた。この世にはたくさんの色がある。草木の緑、娘達のドレスより鮮やかな花々、家々の屋根は皆カラフルだ。情報量の多さに目眩がした。青空がいつもより近く感じるのは気のせいじゃない。
目の高さだけで、ガラリと変わる。
手前しか見えてなかったことにユマは気づいた。
「パパ、すごい! 魔法だ!」
そんなことを言ったように思う。
涙はすっかり乾き、はしゃいだ。
「ユマ、大っきくなったらパパみたいになりたい! パパみたいに大っきくて格好いい殿様になるんだ!」
それを聞いてパパは豪快に笑った。
「何だってなれるさ。おまえはこのアスターの娘なのだからな」
確かにそう言ったのだ。
パパ……父は。
涙は止まらないどころか、嗚咽が漏れ出した。父は助けに来ない。あの時のようには。いつから変わってしまったのか……
足音は近付いてくる。
自分が死んだら、嘆き悲しんで欲しいと思った。兄や姉が死んだ時、無反応だった父に取り乱して欲しかった。泣いて悔いて……弱いところを全てさらけ出してほしい。
愛していると言ってほしい──昔みたいに。
『パパ……助けて……』
呟いて後ずさりする。
その時、寄りかかった所がギギギ……と不快な音を立てた。
ユマが寄りかかったのは、とある邸宅の門扉だった。不用心にも錠が掛けられてなかったのである。代わりに二枚の扉が開かないよう鎖が巻き付けられている。鎖の方にはちゃんと鍵が掛けられていた。
しかし、鎖の巻き方が緩いせいで隙間ができている。大人は通り抜けできないが、子供や華奢な娘なら通れる。
ユマはその狭い隙間に体を滑り込ませた。
本当にギリギリだ。
錆びた鉄の門扉はザラザラする。マントを引き裂き、その下の皮膚まで傷つけた。
興奮が勝って痛みは感じない。
今はひたすら足音の主から逃れたかった。
何とか通り抜けた後は茂みに身を隠し、息を潜める。両手で耳をふさぎ、目をつぶって。追ってきた暴漢が去るまで……
とれぐらいの間、そうしていただろうか。
こちらを笑う月は西へだいぶ移動している。
緊張がフッと途切れた瞬間、ユマはウトウトし始めた。
実は昨晩、一睡もしてなかった。
兄ディオンの綺麗な死に顔がちらつき、寝れなかったのである。
心配だったのだ。
ダーラも父も死ぬのではないかと。
大切な人が次々といなくなっていく。
ディオン、モーヴ……愛していると言ってくれたサチ・ジーンニア……
──パパは私よりディオンやモーヴのことが好きだった。さっきだって、引き留めたのは私じゃなくてダーラだったし
出来損ないの私はいらない子。
──私がモーヴの代わりに死ねば良かった。皆に愛されていたモーヴじゃなくて、私が
どろりと睡魔がユマを飲み込んだ。
眠りなさい。
全て忘れて。
恐ろしい追っ手からも、嘲笑う意地悪な月からも、守ってあげる。
優しい夢魔が訪れた。
闇が濃くなる。
ユマの意識は途切れた。




