第三部前編 二十八話 ディアナ視点③
(ディアナ)
イザベラの話では、シーマはいつ目覚めてもおかしくない。そうなる前にグリンデルへ行って、とっとと話をつけた方が良いと。
ディアナは散々悩んだ挙げ句、一週間後に発つとナスターシャ女王へ連絡した。
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「公にせず、こっそり城を出るのです。いなくなったことが広まらないよう影武者を用意しております」
「クリムトとヘリオーティスに城を守らせるだけでは不安だわ。それにハウンドとかいう怪人もいるでしょう?」
「ハウンドが今までローズ城に来たことは一度だってありません。何らかの怨恨を持つ者には違いありませんが、個人的に行動しています。シーマ派の意向に沿って行動してるようには見えないんですよ。ハウンドはローズ城は襲わないと思います」
イザベラとこんなやり取りをしながら、ディアナは息子ロリエの髪を結っているのだった。
髪の長い貴族の男子は珍しくない。女子はまとめ上げるのが常だが、男子は幾層にも編み込んで後ろに垂らすことが多い。
支度ができ次第発つので、ディアナは息子との別れを惜しんでいた。
ディアナとアナンとの間に産まれた次男ロリエは九歳。まだまだ可愛い盛りである。
叔母のナスターシャ女王には息子達の存在を隠していた。もし知られたのなら、間違いなく脅しの材料にされるだろう。この事実は揺るぎない地位を築いてから公表するつもりだ。世間の目は厳しい。
そもそもグリンデルの縁談話自体、手順が間違っていた。
ディアナとシーマはまだ完全に離婚してないのである。本当は婚約前に離婚のための宗教儀式をしなければならない。シーマの同意(得られる可能性はかなり低い)がない場合、裁判を起こして離婚を認めさせる必要があった。イザベラは後からどうにでもなると言うのだが……
幸いロリエは非常に賢かったため、知恵の島の学術士学校の寄宿舎へ入れることにした。寄宿舎は初等部から入れる。年齢的には一年足りないものの、何とかねじ込んだ。
「お母様、カオルとアキラにはいつ会えるの?」
ロリエはいまだにこんな寝ぼけたことを聞いてくる。
知能は高くともまだ幼い。
使用人達が荷物をまとめる様を見ながら、不安を滲ませた。アナンの暁城を逃げるように出て行った時のことを思い出すのだろう。
「大丈夫。その内、二人とも戻ってくるからね。お母様もちょっと留守にするだけ。ロリエ、おまえは将来のため勉学に励みなさい。兄二人と違って、おまえは頭がいいのだから」
アキラが死んだとは口が裂けても言えなかった。カオルが敵側にいることも。
──また追われるように城を抜け出るのか
六年前(ディアナの中では十八年前)カワウの王子と婚約してから、ずっと逃げ続けている。
最初はカワウの王城。
壁が現れたとアダム・ローズの知らせを受け、大慌てで城を出たのである。カワウ王家はディアナを拉致監禁して無理やり結婚させるつもりだった。
その後、土漠で宿営中に襲われ、ユゼフと二人で逃げる。次はソラン山脈の五首城。やっと落ち着けたかと思いきや、今度は魔国へさらわれてしまう。
魔国の黒曜石の城からは盗賊の手引きで抜け出した。そしてグリンデル。私生児の王子と無理やり結婚させられると聞いて、逃げることに……
──あれは私をシーマの元へ連れて行くための方便かと思ってたけど、本当だったのね
あの時、寝たきりのサチ・ジーンニア──シャルル王子はグリンデルの百日城に逗留していた。
それから、鳥の王国王城──夜明けの城からは二度も逃げている。
一回目は妹ヴィナスがシーマの子を妊娠したと知って……
二回目は城内にヘリオーティスを入れたことで捕らえられた時。
過去に行ってからはアナンの暁城から。
このローズ城もこっそり抜け出ることになろうとは……
髪を結い終わり、侍女に着衣を整えられているロリエを横目に見ながら、
──ねえ、ミリヤ。私、戻ってこれるわよね? ずっと転々としている気がする。根無し草みたいに城から城へと──
ディアナは囁いた。
──ええ。大丈夫です。何かあっても、私やイザベラもお側にいますから。必ずお守りします
ディアナは胸から下げたお守りを握り締めた。ユゼフがくれた真鍮のお守り。太陽とシャリンバイの。
壊れた懐中時計はいつの間にかミリヤが直してくれたので、ロリエに持たせた。
カオルの物だが、もういらないと言うから仕方がない。シーマの手に渡り、その後、忌まわしいアスターの屋敷に何年も眠っていた時計だから捨てても良かったのだが。
離れ離れになった兄弟が出会う時のしるしになればと持たせることにした。
瀟洒なローズ城玄関ホールにて。
天井には魔王が巨大蜘蛛と戦う勇ましい姿と煌びやかなシャンデリア。小さなテーブルの上、置かれた一輪挿しには秋薔薇の生き残りが揺れる。
ディアナは覚悟を決めて、泣きそうなロリエを抱き締めた。同じ年頃だったアキラとはお別れできなかった。何も言わず我が子の前から姿を消したのである。アキラは家出し盗賊になり、そして……死んだ。
だから、ロリエとはちゃんとお別れをしようと思ったのだ。
「すぐに会えるわ。ほんの数ヶ月なんだから。また家族で暮らせるようになる」
安心させるための嘘を繰り返せば、涙は零れない。だが、アキラのことを思い出してしまった。
この時代から六年前、グリンデルの城から逃げる時、付き添ったのがアスター、獣人の少年、それとアキラだった──※第一部前編145─147話
その時、ディアナは未来に産む子供のことなどまだ知らない。無愛想な男だと思ったが、アスターと馬を相乗りするよりはましとだけ。
二時間ぐらいだったろうか。アキラと同じ馬に乗った。ほとんど会話はなかった。
ディアナは後で思い出して身をかきむしるほど後悔したのである。
アキラにとってはあれが母親との最後だったのだから。
アキラの顔には傷があった。
眉間から頬にかけての深い傷痕──
「どうしたの? お母様?」
無意識の内にディアナは頬を濡らしていた。
涙は一度溢れれば、止まらない。次から次へポロポロと。
「お母様、泣かないでください。僕は大丈夫。一生懸命勉強して、絶対に立派な学匠になってみせます」
ロリエはディアナの顔を両手で挟んだ。親指で涙を拭う。額を付け合わせた。
「みんなでまた暮らすんでしょう?」
「……ロリエ……顔が……涙で濡れちゃうわ」
「そんなの構わない」
幼い少年は母の心を敏感に感じ取り、寄り添った。だが、心が通い合うのはほんの一時。
先に離れたのはロリエの方だった。
床の幾何学模様は踏む場所によって足音が変わる。天然石が作り出すカラフルな文様がブーツのつま先を弾いた。
冷たい音は一瞬に──
ロリエは床を跳ねるように駆け、そのまま主殿の外へと。いとも簡単に姿を消してしまったのである。
「あっ! ロリエ!」
手を伸ばし「待って」と言う前にミリヤが後ろから抱き締めた。
分かっていた。
追えば別れが一層辛くなるのも、外に出した感情が収拾つかなくなるのも。
ディアナは人目も憚らず、その場に泣き崩れた。
天井から視線を送るのは魔王エゼキエル──いや、魔王になる前のエゼキエル王かもしれない。精巧な絵の中でエゼキエルが戦っているのは蓬莱山の巨大蜘蛛なのだから。
戦っているにも関わらず、優しい眼差しを投げかける王はユゼフに似ている。絵の中の彼はこのローズ城で幾度となく母子の別れを見てきたのかもしれなかった──なぜか、そんな妄想がフワッと思い浮かんで消えていった。
泣きじゃくるディアナの横ではイザベラが何か話していた。すぐ横で話しているのにまるで遠くから聞こえてくるような儚い声で。
耳障りな雑音は嗚咽にほとんど掻き消された。
──ディアナ様、サチが味方になってくれれば、全てうまく行きますわ。サチもイアンもシーマのことを良く思ってません。
だってイアンは嵌められて謀反を起こしたんですもの。あの二人はニーケ様を守ったのです──
──私達、魔国で家族のように仲良く暮らしてましたのよ。蓬莱山でだって、助け合ってきたのです。カオルもきっと戻ってくるわ。
途切れ途切れ、耳へ入ってくる言葉を消化するのには時間がかかった。
──アスターは自分の有利な方につくでしょう。そういう男です。赤ん坊が生まれたばかりだし、家族を危険にさらしたくないはず。
最終的に残るのはユゼフだけです──
唐突に飛び込んできた彼の名が、ディアナを現実に引き戻した。




