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第二部後編 七十三話 なぜキャンフィは裏切ったのか キャンフィ視点

(キャンフィ)


 俺もだ。キャンフィ、愛してる──


 そう言って抱き締めたイアンの言葉に嘘はない、キャンフィは信じていた。


 優しい温もり。お揃いの褐色の瞳。とうとう一緒になれるんだと涙が滲んだ。



 ──イアン様、キャンフィの全てを差し上げます



 浴衣の帯を解こうとするキャンフィの手をイアンは押さえた。



「キャンフィ、傍で寝てくれないか? お前の温もりが欲しい」



 高鳴る鼓動を悟られるのではないかと恥ずかしがりながら、キャンフィは同じ布団に入った。


 が、そんなのは杞憂だ。

 イアンの拍動の方が大きく、キャンフィのはかき消されてしまった。


 獣を思わせる荒々しい拍動がキャンフィを揺らす。着衣の上からでも、熱い血がたぎっているのは分かる。

 更には布団の中、互いの息が滞留する。湿った呼気と雄の匂いにキャンフィはめまいを感じた。


 知っている幼い頃のイアンとは違う。

 肉は硬く力強さに満ち満ちている。抱きすくめられただけで、どうにかなってしまいそうだ。


 過去のトラウマから男性に対する恐怖感はあった。男らしければらしいほど、恐怖感は強くなる。だが、イアンに対してはそれを上回るだけの期待感があった。



 ──どうしよう? あたし、イアン様に抱かれたらおかしくなってしまいそう



 恐れより別の心配をしていた。それも杞憂だったとやがて分かる。


 幸せはほんの一時。


 硬かったイアンの身体は弛緩し始めた。荒れ狂っていた心音は穏やかになっていき、呼気もそれに合わせてゆっくりになる。



「イアン様?」


 キャンフィは起き上がって声をかけた。



「イアン様??」



 もう一度。

 キャンフィの腰に巻かれた腕がダランと落ちる。


 イアンは子供のような顔をして寝ていた。寝顔は出会った頃と変わらない。上唇と下唇が少しだけ離れて桃色の舌が覗いていた。可愛らしい(いびき)まで聞こえてくる。


 余りに無防備──


 幼く無邪気な顔を見てキャンフィの胸は疼いた。


 キャンフィは知っている。

 イアンが部屋に女を何人も連れ込んで楽しんでいたことを。馬車の中で、庭園で、回廊で……無節操に女と交わっていたことを。


 女達の嬌声や笑い声も。

 イアンは性に放埒であった。



 ──どうして? あたしのことは抱かないのですか? あたしが汚いからですか? 子供の頃、あたしが犯されるのを見たから



 イアンはあの一件以来、キャンフィから離れていった。キャンフィはそれでもイアンを諦めきれず、ローズの兵士に志願したのである。


 例え愛してもらえなくても、少しでもそばにいたいとそう願って……


 この時、キャンフィにはイアンの都合を考えるだけの余裕はなかった。脳裏に浮かぶのはイザベラの言葉である。


 宴会の席で楽しそうに笑うイアンと小太郎を見てイザベラはこう言ったのだ。



 ──知ってる? あの二人、親子なんだって



「よく似ているわよね。母親はサーシャっていう子。元々はガーデンブルグ王家の隠密だったみたい。シーマが謀反の黒幕と分かってから、手を貸してしまったと悔いて自害したそうよ。子供を異界へ飛ばして守るぐらいイアンのことは好きだったみたいね」



 キャンフィは黙って聞いていた。イアンの色事を聞くのには慣れている。何年も近くにいれば、嫌でもそういう話は耳に入ってくるものだ。



「イアンってば、ほんと女たらし。ほら、好色で有名なカトリーヌ侯爵夫人とも長いこと付き合っていたでしょう? ローズ城に出入りしてたジャスミン女史は知ってる? イアンの家庭教師の。ずっとローズ家に仕えていたあなたの方がこの話は詳しいわよね。王室学術士の中でも一、二を争うぐらい優秀だと言われてた人がイアンとできちゃって、子供までできて……結局イアンの両親が泣いて謝罪して堕胎させたって話。魔国にも隠し子がいるかもしれないわ。魔国にいる時はライラという亜人の娘がお気に入りだったの。全くイアンったら……」



 戻ってからというもの、暗かったイザベラはイアンの噂話になるとペラペラいつものように喋り始めた。噂話が好物なのは彼女らしい。


 不倫の話も家庭教師の話もキャンフィは知っていた。細かい所はキャンフィが知っている話と違うが。聞きたくもない話だ。


 この聞きたくない話を冷たい心で聞き続け見続け、何年も過ぎていった。今ではもう何を見聞きしても動じない自信があった。


 しかし、澱は確実にキャンフィの心に溜まっていったのだ。



 ──他の女は抱くのにあたしとはしたくないんですね。あたしは寝る時に抱っこするあなたのお人形さんではないです。肉も付いて血も通っているんです。あたしはあなたがいない五年間もその前もずっとあなたのことを想い続けていた。大勢の内の一人でもいいのにそれすらあなたは許してくれないのですね。



 慰み物にもならない辛さがあなたに分かるでしょうか。


 影で見続けるだけでも良かった。

 でもあなたは私の心を弄んだ。


 だから、私はあなたの大切な物を奪う。


 あなたは私から自尊心という名の防具を奪い取ったのだから。私の心を丸裸にして鋭い爪を立てた。


 それは身体を傷つけられるより遥かに痛いのです。辛うじて保っていた私の心はまた壊れそう。


 無関心は一層傷を膿ませます。

 せめて憎んではくれませんか?

 それが心の代償です。




 ††  ††  ††


 ディアナ女王は上機嫌だった。

 泉の水を奪い取り、シーマはもう虫の息だ。

 満面の笑みを浮かべ、派手なピンクの玉座にのけぞり返った。


 玉座以外は重厚で繊細な装飾が施されている女王の間。元は謁見ホールだった。キャンフィもよく見慣れた場所だ。


 そう、ここはローズ城。


 札に封じた虫食い穴を使って、エデンからこのローズ城へキャンフィとイザベラは帰ってきたのである。


 アスターが戻ってくることを懸念したディアナは一足早く夜明けの城から引き揚げていた。アスターの権威はまだ健在だ。一度制圧した王城を手放したのはアスターが生きているからに他ならない。ディアナに大人しく従った軍や騎士団もアスターが戻れば元に戻る。



「それも時間の問題よ。シーマが眠り続ければアスターの人気も地に落ちる」


「それはどうかしら?」



 水を差すようなことを言うのはイザベラだ。

 せっかく上機嫌だったのに、ディアナの眉がつり上がった。イザベラは構わず続ける。

 


「アスターの支持者は騎士だけではありませんわ。内海の諸侯からも高い人気を誇ってます」


「それもシーマが王であればこそ。シーマが偽物、虚構だったと分かれば離れていく」


「いーえ。そもそもシーマの人気を作り上げたのはアスターの存在が大きいです。勿論それだけではないですけど、シーマあってのアスターと言うより、アスターあってのシーマかと」


「ふん。何が言いたいのよ?」


「確実に息の根を止めるべきでしょうね。アスターに関しては」



 イザベラは冷酷に言い放った。

 鋭い目つきやドスの利いた声は暗殺者そのものである。普段の陽気で華やかな雰囲気からの豹変ぶりに驚かされる。

 キャンフィもアスターには怨みがあったが、イザベラの(まと)う空気は憎悪や怨恨とまた別であった。



「すでに手は打ってあります」



 酷薄な笑みを浮かべながら言うのは侍女のミリヤだ。この女を侍女と言うのには疑問があるが……


 ミリヤの言葉を受けて、イザベラは笑顔を見せた。

 今度はいつも見せる明るい笑顔だ。

 しかし、人を殺す相談をしてる時に見せる笑顔じゃない。キャンフィはゾッとし、身震いした。



「ミリヤ、やるじゃない……ディアナ様、私からも幾つかご報告がありますわ」


「何かしら? 悪いことじゃないといいんだけど」


「まず、ティモールです。あいつ、どっかの犬ですわ」


「あー……知ってるわ」


「え? ご存知で? 蓬莱山で途中まで一緒に行動してたんですけど……深夜、使い鳥に呼び出されてそのままどこかへ行ってしまいましたの。他にも怪しい点が幾つか」



「イザベラ、ティモールはユゼフ・ヴァルタンの……」



 ミリヤがディアナの代わりにそっと教えた。

 その間、ディアナは一点を見つめたまま、笑いも怒りもしなかった。



「ああ、そっちか……あいつもちょっと厄介ですわね……あとカオルはやっぱりエンゾの所にいました」


 それを聞いてディアナは安堵の溜め息をついた。



「良かったですね、ディアナ様……」



 ミリヤも隣でうっすら感涙している所を見ると、相当心配していたのだろう。しかし、イザベラが容赦ない言葉を浴びせた。



「エンゾの所で大人しくしてるだけなら良かったんですけど、何を血迷ったかアスター達の手伝いをしてましたわね。蓬莱山のヒュドラはイアンとカオルで協力して倒したんです。何度でも寝首をかけたのに、イアンのことを助けてました。アホじゃなかろうかと」



 ディアナは頭を抱え込んだ。

 イアンを助けて欲しいとカオルに頼んだのはキャンフィである。誓わせもしたのだ。

 キャンフィは居心地悪くなり、うつむいた。



「カオルの奴……私への当てつけかしら」


 ディアナが声を絞り出した。



「ディアナ様、大丈夫です。今はアキラ様のことで混乱されてるだけです。ちゃんと分かって下さいます。戻ってきて下さるはずです」



 ミリヤはディアナの背を優しく撫でた。

 イザベラの方は無表情。カオルに対して何ら思う所はないようだ。



「イアンもこちら側へ取り込めると思いますわ。最初からシーマとつながっていた訳ではないみたい。今はあちら側ですけど上手いことたらし込めば、こっちの味方です」



 イザベラがチラリと見てきたので、キャンフィは目をそらした。イアンのことで役に立てる自信はない。きっと、嫌われてしまってるだろうから。



「イアンのことは別にどうでもいいわ。どうせ剣士としてしか使い道はないでしょう。それよりこの泉の水をどうしよう? 本当に不老不死になるの? 誰か飲んでみてよ」



 ディアナはヒョイと小瓶をイザベラへ投げた。随分、ぞんざいな扱いである。イアンが命懸けで取ってきた水を。



「毒味よ。お願い」



 イザベラはそう言ってキャンフィにそれを渡した。


 柔らかに光を発する水は魅惑的だ。

 それ自体が発光しているのに、どこからか光が射しているのではと錯覚を覚える。


 今頃、イアンは激怒しているだろう。

 裏切ったキャンフィのことをもう二度と許さないだろう。


 キャンフィは全く躊躇わず水を飲んだ。

 愛を失った今、死ぬのは怖くない。


 水は甘かった。

 イアンの囁きのように。

 一口、コクンと飲み下しイザベラに返した。

 イザベラはミリヤに渡し、ミリヤが飲んでからディアナはようやく口にした。



「光ってるだけで普通の水じゃない? 本当に若いままでいられるのかしら?」



 ディアナはふざけた笑い方をした。

 見下し馬鹿にしている。大した物ではないと。


 これを取って来たイアンのことも、そう……

 キャンフィは拳を握り締めた。

 イアンの大切な物を女達で全部飲んでしまった。もう後戻りできない──




「あ、そうそう。ここ最近、ちょっと物騒なのよねぇ」



 ディアナが口火を切った。

 最近、巷で「ハウンド」という名前の怪人が出現しているらしい。

 


「立て続けにヘリオーティスの拠点が襲われてるのよ。何でも、狼犬の仮面を付けた黒ずくめの男なんですって」


「正体は亜人でしょう。すらりと背の高い男で長剣を振り回し、どんな相手でも一太刀で斬り伏せるんだそうです。ヘリオーティスは次々に拠点を失い、活動も休止せざるを得ない状況に──」


 ミリヤが話を引き継いだ。

 キャンフィの耳には五分も届かない。イアンのことで頭が一杯だったのだ。上の空で聞いていた。

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