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第二部後編 三十七話「寒い……」のあと アスター視点

 不気味な音と衝撃波の後、アスターは──



──────────────

(アスター)


 不気味な音が聞こえた直後、サチが叫んだ。


「ヤバい! アスターさん、耳を塞げ!!」



 言い終わる前に馬が暴れ始める。

 耳など押さえようものなら、振り落とされる。アスターは馬から飛び降りた。


 次に待っていたのは不可思議な現象だった。

 凍った地面に足がつくや否や、視界の色が変わっていったのである。白と灰色の世界から、黄色がかった明るい色調の世界へ──



『おや? 色が変わったぞ。どういうことだ?』



 馬は怯えた様子で伏せてしまった。

 サチは耳を塞げと言っていたが、アスターには何も聞こえない。動物や亜人だけに感知できる音なのか。


 視界の色が変わると共に、目に入る光量も減った。

 空に太陽が見えないのは同じ。だが、一面を覆う雲は夕暮れ時のように紅く染まっていた。全部に(だいだい)の絵の具を塗りたくったみたいな統一感がある。見える範囲全てが同じ色調。紫や青、濃紺はなく、夕闇の気配を全く感じさせない。奇妙だ。


 アスターは注意深く辺りを見回した。

 色調以外、変わった所はないようだ。

 凍った川も、延々と生い茂る枯れ木も…… ………… ………… ………… …………

 

 ……いや……サチがいない!!!


 しかし、考える余裕はなかった。

 突如、目の前に異形が現れたのである。


 赤らんだ猿の顔に胴は獣か。

 虎模様の四つ脚で立ち、蛇の尾をくねくねとくゆらせている。

 涎を垂らしながら身を低くし、今にも飛びかからんとしていた。



「おい、この化け物と戦えと言うのか?」


 誰とはなしに呟く。

 アスターは静かに(ラヴァー)を抜いた。

 獣の背後で蠢く蛇が口を開けば、


 キィィィィィィ……ヒョォォォォ

 ……キィィィィィィ…ヒョォォォォ……


 先ほどの不気味な音が空を切った。



「そうか、音の犯人はお前だったか……」


 まだ話している途中に獣は飛びかかってくる。アスターはひらり身をかわし、獣の胴を斬りつけた。


 ヒョォオオオオオオ……


 飛び退き、すぐに向かってくる。

 また、斬りつけた。

 素早いが、熊や獅子と格闘したことのあるアスターにとって戦えぬ相手ではない。


 避け、斬りつける。

 向かってくる。また避ける。斬りつける。

 何度か繰り返す内に獣は血まみれになった。


 ヒョォオオオオオオ……



 身体は硬く、一度に致命傷を与えるのは難しい。だが、出来ないこともない。


 戦い疲れたのか、獣は後ろへ退いた。

 口でハッハッと息をしている。

 一方のアスターは全く乱れていない。



「おい、拍子抜けだぞ。蓬莱山の魔物とはこの程度か。初戦にしても軽すぎる。魔国の黒獅子の方が手応えあったぐらいだ」


 「黒獅子」という言葉に獣は反応した。



 ──黒獅子を知ってるのか??


「お? 化け物、喋れるのか?」


 ──化け物ではない。我はヌエ。泉を守る聖獣である


「聖獣ねぇ……私には邪悪そのものに見えるんだが。あ、そうそう黒獅子天子はこの私が倒した」


 ──なんと!? 黒獅子天子をか?


「まあ、死にかけたがな」



 猿顔のヌエは信じられないといった風に目を見張った。



「信じられないのも無理はない。我々人間は武器がなければ弱い存在だからな。貴様らのような回復力もないし。その牙や爪で一度でも裂かれればそれで試合終了。ゲームオーバーだ。常にギリギリの所で戦っているのだよ」



 この会話の最中にヌエのアスターを見る目が変わっていった。獲物を見る目から珍奇を見る目へと。俄然、興味を持ったようだ。


 ヒョォオオオオオオオオオオオオオオオ──


 長めに尾の蛇が鳴いた。

 アスターは剣を構えたまま、微動だにしない。


 ──なんともないのか?


「何がだ?」


 ──普通の人間であれば、まず我の姿を見ただけで腰を抜かす。どんなに勇名を馳せた猛者だろうが、戦意を喪失する。何とかこの異形に耐えられたとしても、鳴き声を聞いた途端、(すく)み上がって動けなくなるのだ



「ほう……そうなのか。確かに貴様の鳴き声?……そのヒュウヒュウ、キーキーしたのな、不気味ではあるな」



 ──魔人や亜人ならともかく、平気な人間は初めて見た



「鈍感だからかもしれぬな。魔国の瘴気を吸っても何ともなかったし。神秘的な力が作用しにくい体質らしい」



 ヌエの呼吸が落ち着いてきた。

 まだ、襲ってくる気配はない。

 本当はこんな呑気にお喋りをしている暇などないのだが。


 アスターも好奇心旺盛な男なので、異形とのお喋りを楽しんでもいた。それに戦闘体制じゃない相手に襲いかかるのは無粋である。

 


 ──人間よ、名は何という?


「アスターだ。ダリアン・アスター」


 ──アスター……なぜ、ここに来た? 泉の恩恵を狙うのは強欲な者ばかり。お前から欲は感じられぬ


「何を言うか。私は欲の権化のような男だぞ。蓬莱の泉を狙うのは我欲を満たすためだ」


 ──戯れを……我には分かるのだ。人間の煩悩が。お前は何も懊悩していない。何か、深い悲しみの底で生きているような……


「おいおい、ふざけるなよ。私はな、王と祭り上げた男が死にそうになってるから助けるためにここへ来たのだ。今までトントン拍子で出世してきたのに、その男が死んでは困るからな」


 ──刹那の快楽だけ貪るのは、悲しみを紛らわせるためか?


「うるさい、黙れ。お喋りはもう終わりだ」



 お喋りが過ぎた。

 悲しみに関する話はしたくない。アスターは唐突に斬りかかった。

 

 今度は避けられる。

 逃れる寸前、尾の蛇がニュッと伸びたかと思うと、アスターの左腕に噛み付いた。



「ちっ……」



 それはほんの一瞬の出来事だったが、手に痺れが走った。

 再び、両者離れて睨み合う。



 ──毒だ。数分でお前は死ぬ。解毒できるのは特別な魔人の血だけ。それでもまだ戦うか?


「ふぅむ……ならば、貴様を数分で倒さねばなるまい」


 ──なぜ、落ち着いている?


「あいにく助かるあてがあるんでね。ところで、私と一緒にいた小柄で子供みたいな顔をした男はどこにいる?」


 ──お前と一緒にいた少年は元の世界にいる


「元の世界、だと?」


 ──今、お前がいるのは我が作り出した領域だ。平行線上に並ぶが、ここは隔てられた空間。お前の言う少年は元の世界で山の精霊(ニンフ)と対峙しているはず。もう喰われた頃かもしれぬ


「それはマズいな。その男はゲームの大切な駒なのだ。ここで死なれては困る」


 ──ではアスター、我と勝負せぬか?


「む……すでにしているわけだが」


 ──お前は強い。だが、このままだと毒が回って死ぬ。ただの人間だ。そうでなくとも、我が雷を呼べば、あっという間に片が付く。それではつまらぬのだ。我は少々遊びたくなった。せっかく骨のある人間が来たのだからな、もう少し戦いたい。


「なめ腐りおって。すぐに殺さなかったことを後悔させてやる」


 ──そうだ。毒が回る前に我の尾を切り落としてみよ。そうしたらお前の勝ち。元の世界へ戻してやる、というのはどうだ?


「何だ、それは? 毒が回る前に貴様を殺した方が手っ取り早いではないか」



 アスターは笑いながら距離を詰めた。

 ラヴァーを振り上げ、一気に畳みかける。

 胴を立て続けに斬りつけた。

 

 刺突しないのは固く分厚い肉を刺した場合、抜くのが困難だからである。

 一発で仕留められなければ、こちらがやられる。

 

 斬りつけるのは二度が限度だった。

 彼らと人間との違いは傷つけられても、戦意を喪失しない点である。人間でそれをできるのはごく少数だ。


 向かってくるヌエに対し、ラヴァーで防御する。前足を浅く斬りつけ、後退する前に向かってくる首を斬りつけた。



『やはり硬いな……』



 首は太く、幾ら剛剣と言えども叩き斬るのは困難と思われた。

 決めるなら一度きりだ。


 奴の申し出を受けてみるのも悪くないかもしれない、とアスターは思った。

 話した感じでは狡猾さを感じられない。ただの酔狂だ。騙して()めようとしているようには見えなかった。



『しかし……』



 蛇の尾はクネクネしており、つかみ所がない。自分で言った通り、本体に致命傷を与える方が容易(たやす)い可能性もある。的の動きが曲線だとやりにくいのだ。直線であれば、簡単に予測できる軌道がいまいち不正確になる。


 荒々しく動き回る本体とは全く関係なく動くのも然り。難易度は高い。



『だが、出来ぬこともないか』



 若かかりし日、こういった修練をした覚えがある。練習すれば人間、蠅を剣で真っ二つにするぐらいのことは出来るのだ。叩き潰した方が楽なので、わざわざそんなことはしないが。

 


『要は動きを封じればいいんだろ』



 アスターはヌエが向かってくる寸前に身を低くした。そのままヒョイとヌエの体の下に潜り込む。身体を滑り込ませ、奴の後ろへと。飛び上がった隙を狙ったのである。


 ヌエの背後で素早く向きを返し、両手で持っていたラヴァーを片手に持った。空いたもう片方の手を蛇へ突き出す。

 案の定、蛇は噛み付いた。


 この全ての動きを秒に満たない時間でやってのけた。優れた武芸家がそうであるように、アスターの中の時間もゆっくりと流れていた。


 体の中で耳の次に痛覚が鈍い指であっても、鋭い牙で貫かれれば痛い。

 痛みが合図となり、後は体が勝手に動いた。


 斬──


 ヒョォォ……


 蛇の首をぶった切った時、断末魔の叫びが指先を通じて伝わってきた。



 ──お見事!


 負けたのにヌエが何故か嬉しそうな声を上げる。



「おい、勝ったはいいが、こいつ離さないぞ」



 頭だけになっても、蛇は指先に食らいついて離そうとしない。無理に剥がそうとしても、ますます引っ付いてくる。アスターの手は血で真っ赤に染まった。



 ──すまぬ。尾は我の意志とは違うのだ


「まあいい、約束だ。殺してはならない男を救いに行く。元の世界へ戻せ。馬も一緒にな」


 ──よかろう



 ヌエが頷くなり、黄色がかった色彩が目の端から白灰色へと変わっていった。

 そこでようやく、アスターは蛇の頭を引き剥がした。

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