第二部後編 三十三話「繋がる」のあと ユマ視点②
(ユマ)
悲鳴だけじゃない。
耳に流れ込むのは怒号、叫び声、大勢の足音、何かを叩き割る音、壊れる音……
気付けば、きつく抱きしめられている。
密着どころか、やっと呼吸できるぐらいきつく……
──ダーラ、苦しい
言おうと思っても声が出なかった。
恐怖の他に熱情が沸き上がってきて何がなんだか分からなくなる。
ユマは混乱していた。
──おいら、様子を見てきます。ここでジッとしていてください
耳をくすぐるダーラの声が直接脳に響く。
それは恍惚をもたらし、我を忘れそうになった。
すんでのところで我に返り、離れようとするダーラの手首を掴んだ。
──お嬢様?
──ダメよ。行ってはダメ。ここにいて。
──モーヴ様をお一人にするわけにはいきません
──いや……ダメよ、だめだめだめだめ。ここにいて
強く、ダーラの腕に爪を食い込ませる。
離れたらもう二度と戻らない気がしていた。
──大丈夫です、お嬢様。必ず戻りますから
ユマは泣きそうになった。
怖くて不安で……
離れていく手にしがみつくことしかできない。
──置いていかないで
その時、離れかかっていた手がユマの口をふさいだ。
「ん? むぐぐぐ……」
再び身体の自由が奪われる。
階段を荒々しく駆け上がる音が聞こえた。
こちらに来る。確実に危害を加えるであろう何者かが……
ドンドンドンドンドンドン……身体が微動するのは心臓が暴れているせいだ。
激しく荒ぶる心音が自分のものかダーラのものなのか、もう分からない。
ユマは今にも気絶しそうだった。
──バタン!
書斎のドアは乱暴に開け放たれた。
隠れている棚の僅かな隙間から光が差し込む。
入ってきたのだ。
男達が何やら怒鳴りながら、棚の本を落としていく。音はだんだん近づいてくる。
「ここはいねぇかぁ……」
すぐ近くで男の声が聞こえた時、ダーラが一瞬震えた。
「でも、どこかに隠れてるはずだ。使用人の話では」
今度は気怠い掠れ声だ。女?
板一枚隔てた所の本がバサバサと落とされた。
呼吸もできないほど強く、ダーラに口を押さえられる……でなければ、ユマは声を出していた。
「ユマお嬢様ぁあああ!!……って、出てこねぇか」
「お嬢様ーー、痛いことはしませんよー。出ておいでー! あんたの糞親父を笑い物にするだけだよぉ」
間延びした声の男と掠れ声の女がケラケラ下品な笑い声を立てる。
声も出せず身動きもできない状態で、ユマは目の周りを濡らした。
『モーヴはどうしたのだろう? 連中に見つかってしまったのだろうか』
一抹の懸念が染みのごとく広がっていく。
絶望がすぐ近くで大きな口を開けていた。
この身を捕らえる逞しい腕から離れれば、あっという間に飲み込まれてしまう。
ドアの向こうから呼ぶ声が聞こえ、男達のおふざけは止まった。
慌てているような、何か危機的状況が起こったような、そんな声だった。
「分かったぁー、今行くぅー……はぁ……」
背を向けるのが分かった。
ユマの体から力が抜けていく。
ダーラの腕が緩み、やっと息を吸い込んだ。
危機は脱したのか……
「待ちな!」
男の足を止めたのは掠れ声の女だった。
「あんだよぉ、グレース?」
「なんかこの奥の本棚、厚みがないかい?」
ガラガラガラガラッ!
言うなり、女は棚をズラした。
ランタンの光が無情に目を刺す。
ユマは勢い余って転びそうになった。腕を掴んだのは……ダーラ?……じゃない。
見上げた先にあったのは、穴の二つ空いた真っ黒な顔。黒い覆面だ。生臭い血の香りが鼻をつく。
二つの深緑は澄んだ湖の底を思わせる。
覆面の穴の向こうからは宝石みたいな瞳が覗いていた。
ユマとダーラは明るいランタンの光に晒されていた。鬼畜どもの穢れた視線を浴びながら。
「お嬢様に触るな!」
ダーラが覆面の手を払いのける。
ユマを後ろへ下がらせ、剣を抜いた。
「おやおや、勇ましいことで」
覆面は何故か嬉しそうな声を出した。
掠れた女の声だ。
ゾッとさせるのは、首から下げた肉片の首飾りである。
女の後ろにいた金髪の坊主頭も抜刀した。
右目に眼帯をしている。
「あん? お前ぇ、なんか……どっかでぇ、会ったぁ?」
「会うのは二度目だ。エッカルト・ベルヴァーレ、お嬢様には指一本触れさせやしない!!」
ダーラの声は低く凄みがあった。
普段の気弱で優しい様子からは想像つかない。
「ふぅん……覚えてねぇけどなぁ……て、身バレしてんじゃん!? 俺達の仕業って露骨に分かるとまずいんだろぉ。グレースぅ、どうするぅ?」
「殺れよ」
間延びした調子のエッカルトに覆面女はドスの効いた声で答える。
「あ、もしかしておめぇ、亜人野郎!?」
返事の代わりにダーラは男へ斬りかかった。
乾いた金属音が響く。
速い──
勉強を教えてやる代わりにユマはダーラと木剣で打ち合ったりもした。だが、いつもとはまるで違う。別人である。
激しく打ち合う様は獣のごとく。残像と飛び散る火花しか見えない。
棚は派手に倒れ、埃が舞う。倒れた棚の上に飛び乗り男達は刃をぶつけ合った。
剣技を教わり、できる気分になっていたのが錯覚だったのだとユマは気付いた。
速度だけでない。力も桁違いだ。
一撃で骨は断たれるだろう。
──あんなの、どうやって目で追うの
「やべぇ……こいつ、強ぇぇわ……」
眼帯の男エッカルトが呟いた時、誰かがユマの腕をつかんだ。
グイと引き寄せられ、羽交い締めにされる。
喉元にヒヤリ、金属を感じた。
「おいおい、ご立派な従者様! こっちを見な!」
ダーラの動きが止まる。
見開いた薄茶色の目には怯懦が宿っていた。
ナイフを突きつけられたユマを前に戦意は失われる。何とも呆気なく、勇猛な獣は牙を抜かれてしまった。
「あんたの大事なお嬢様を守りたいんだったら、大人しく剣を捨てるんだねぇ……エッカルト! この亜人はあたいの獲物だ。手出しすんなよ」
ダーラの手から剣が転がり落ちる。
エッカルトはふぅと息をつき納刀した。
ダーラの瞳にはユマしか映ってなかった。
畏れはユマの無事に対してである。自身のことなど、これっぽちも考えてない。
──彼らは私を殺さないわ。でもダーラは……
「手間ぁ、かけさせやがって……」
眼帯エッカルトがダーラを蹴りつける。
ダーラは声を出さずにくずおれた。
「ほら、これ」
覆面の女がナイフを突きつけているのとは反対の手で縄を投げた。
エッカルトは受け取り、ダーラを縛り始めた。
『どうしよう。ダーラが殺されてしまう』
いつも側にいてくれたダーラが……
どんな時でも話を聞いてくれた。
剣の使い方も教えてくれた。
あの最低な父親と大喧嘩した時も慰めてくれた。
どんなわがままも受け入れてくれた。
八つ当たりや意地悪な物言いにも。
──何より私はダーラのことが好き
それなのに刃を向けられた体は石のごとく動かない。
──動け、動け、私……私のせいでダーラが死んでしまう
いくら心の中で鼓舞しようとも動けない。
唾を吐かれ、殴られるダーラが目の前にいるのに。
動かない体と反対に目からはとめどなく涙が溢れ続けた。
「……めて……ダーラを……殺さないで……」
震える声はダーラに届いた。
顔を腫らしたダーラは悲しげな瞳をユマへ向けた。
「ユマお嬢様、守れなくてごめんなさい」
「お願い……ダーラ、死なないで」
「ユマ様……何があっても生きていれば、あなたはあなたらしくいられます。絶対にくじけないでください。心までは誰も汚せないのですから」
ユマは手を伸ばそうとした。
両脇に差し込まれた腕の締め付けが強くなる。首に生暖かく濡れる感じがあり、その後、じんわり痛みが滲んできた。
「貴様っ! お嬢様を傷つけるなっ!」
ダーラの言葉で、ユマは首が傷つけられたのだと気付いた。
「だって……動くのが悪ぃんだろ? 大人しくしてろよ。お嬢様にはエッチなことするだけなんだからさ」
覆面の女はダーラを嘲った。
「ほんとにご立派なことで。あたいは今までおまえみたいな亜人の皮を何枚も剥いできた。みんな大層なこと言ってても、最後に言うのは泣き言だけさ。お前もおんなじ。泣き叫んで命乞いすればいいさ。大好きなお嬢様の前で惨めにな。クククク……」
しかし、不快な笑い声は続かなかった。
割れるような騒音──
突如、階下から音の嵐がやってきたのである。
喚き声、床を派手に踏み鳴らす音、剣撃……
猛烈な勢いで階段を駆け上がる音がしてから彼らの仲間が姿を現すまで、ほんの数秒だった。
「敵襲です!! 兵士が攻めてきました!」
「チッ……思ったより早かったなぁ。で、グレース、どうする?」
エッカルトは舌打ちし、覆面の女を見た。
「なあに、お嬢様の初物は頂けなかったけど、糞アスターを笑い物にすることぐらいはできるさ」
言うなり、覆面……グレースはユマの拘束を解いた。そのまま床へ倒れそうになるユマの首根っこを掴み、自分の方を向かせる。
そして、一気に──
ナイフをユマの胸元から下へ振り下ろしたのである。
一瞬、斬られたと思ったユマは悲鳴を上げた。
「きゃははははは。見なよ、エッカルト! お嬢様、結構いい身体してんじゃないの」
切られたのは着ていたものだけだった。
上から真下へスッパリ切られている。
しかも切った後、グレースは素早く衣服を剥ぎ取り、エッカルトへ投げた。
手際良く素っ裸に剥かれてしまったのである。乳房から鳩尾、へそを通って、下の茂みまで丸見えだ。
ユマは慌てて前を隠した。
「おいおい隠すなよぉ……」
ヤらしい笑みを浮かべながら、エッカルトが近付いてくる。赤剥けの薄汚れた手をこちらへ伸ばし……
ドンッ──
指が届く寸前、エッカルトは床に突っ伏した。後ろにいるのはダーラだ。
拘束していた縄は腰に差していたダガーで断っている。素早く駆け寄り、脱いだ上衣をユマに掛けた。
「いってぇぇ……これだから亜人はよぉ……」
「エッカルト、遊んでる暇はねぇよ。行くぜ」
覆面の女グレースは窓を指した。
書斎の壁はほぼ本棚で隠されていたが、窓の一角だけ何も置かれてなかった。恐らく換気のためだろう。
階下から足音が近付いてくる。
さっきまでの乱暴で荒々しい足音とは違う。
慌てていても品のある力強い足音だ。味方に違いない。
エッカルトとグレースは窓へ走った。
先にエッカルトの姿が窓の外へ消え、グレースは窓枠に手をかけた。
……一旦止まり、こちらを振り返る。
「あ、そうそう。狐くん、魚屋さんによろしくね」
急にかしこまった女らしい喋り方になった。
狐くんというのはダーラのことか。
「魚屋さん?」
「今は宰相様だったかしら? ふふふ……」
女は懐から布切れを取り出し放り投げた。
布はフワリ舞って、ダーラの足元に落ちる。
ハンケチだ。
藍色の背景に可愛らしいアトリが描かれている。紅い実、同じ色の月──
夜空に赤々と燃える月は美しい。
紅い実は尖った葉と描かれているから、柊の実だろう。
アトリの胸毛の鮮やかなオレンジが目に焼き付いた。
ユマは同じ物をダーラが持っているのを知っている。
確か五年前、カワラヒワの暁城を離れる時に娘達がくれた物だと。
「忘れ物、彼に届けといて。じゃあねぇ!」
グレースはひらり、身を翻して窓から飛び降りた。部屋のドアが開けられるのと、闇へグレースが消えていくのと同時だった。




