第一部前編 百二十六話 「ユゼフの記憶が浮遊する」のあと(ディアナ視点)
(ディアナ)
「ずっと真っ白でつまらないわ」
ディアナ王女は溜め息を吐いて、気球のゴンドラの中に座り込んだ。
「霧の魔法の札で隠れながら行かねば、危険ですから……」
ミリヤが答える。ニーケ王子はミリヤの肩にもたれ掛かり、静かな寝息を立てていた。
「呑気なものね。我が弟ながら呆れるわ」
「恐ろしい目に合い続け、疲れてしまったのでしょう……」
「あんな亜人の娘に懐いて本当に馬鹿な奴……ねえ、あの娘、死んだかしら?」
ミリヤは困った顔をして沈黙した。
「あんたのあの男も……」
「どうせ一緒にはなれません」
「そうね……でもイザベラは生きていると思うわ。あいつ、しぶといもの……ねえ、エリザ、グリンデルまではどれくらいなの?」
ディアナはホスローの横で注意深く見張りをしているエリザに声をかけた。
「まもなく、魔国を出ますのであと少しです」
疲れているのか、怒っているのか……エリザは無愛想に答えた。頬の傷周りには乾いた血がこびりついている。彼女の視線の先には白い霧があるだけだ。
ディアナはまた溜め息を吐いた。
『溜め息をつくのは何度目だろう。本当に退屈でつまらない』
気球の周りは真っ白で何も見えないのだから……
「ん?」
先ほどとは何か違う……
奇妙な違和感を感じた。
霧の中から現れたのは白いふわふわした浮遊物だ。雪……のような?
『何かしら? 何かの種?』
一つだけではない。その綿毛のようなものは幾つも城の方角から飛んで来ていた。
「何かしら? 綺麗だわ」
ディアナは立ち上がり、それに触れようとした。
「いけません! 王女様!」
ミリヤが叫ぶ。
「なんで?」
「怪しい魔国の植物です。触っては危険ですから、身を低くしていてください」
ディアナは膨れながらも、ミリヤの言う通り座った。
見上げると、操縦士のホスローが手拭いを振り回して綿毛を散らしている。そのすぐ横に居るエリザの頬を一筋の涙が流れ落ちていった。
「エリザ、どうしたの?」
眉を寄せ尋ねるディアナに対し、エリザは嗚咽で答える。目から涙が溢れ出て止まらなくなってしまった。押さえつけていた感情が一気に溢れるように。
ホスローが振っていた手拭いを差し出し、エリザは震える手で涙を拭った。
「何てことなの!? エリザの頬の傷が消えてる!」
ディアナは目を見張った。
こびりついた血糊がこそげ落ち、白い素肌が現れたのである。薄い刃で切られた幾つもの傷は跡形もなく消えていた。
「……これは……ユゼフだ……」
エリザは声を詰まらせながら、聞き取れないくらい小さな声で呟いた。
「何て言ったの? 今……ユゼフって?」
ディアナは立ち上がった。
「いけません! 王女様!」
ミリヤの大声で王子が目覚める。
寝ぼけ眼のニーケ王子から離れ、ミリヤはディアナのそばへと、近くまで飛んで来た綿毛を振り払おうとするも……
ディアナはミリヤの腕を打ち払った。
「邪魔しないでちょうだい!」
とうとう、手を伸ばし「それ」に触ってしまった……
†† †† ††
次の瞬間、ディアナが居たのは暗闇の中だった。
地下室だろうか……水の滴る音が聞こえる……奥の方で誰かが鼻をすすり、嗚咽している。
『誰なの?』
時々、漏れる声は子供のようだ。
──僕は悪くない……お母さんに会いに行っただけなんだ……
ディアナの心の中に子供の感情が流れ込んで来た。
『何なの!? これは?』
†† †† ††
「王女様! ディアナ様!」
ミリヤの声でディアナは現実に引き戻された。
「ご無事ですか? 王女様」
「ええ……子供がいたわ……」
「私も見ました。青い髪の……」
ミリヤは言いかけて口をつぐむ。
ディアナは好奇心を抑えきれなくなり、ゴンドラの外へ身を乗り出した。
「危ないです!」
後ろからミリヤが抱きかかえた途端、気球は消えた……
†† †† ††
ディアナは自分にそっくりな女の前にひざまずいていた。
周りは大勢の兵に囲まれ、両腕は固く縛られている。兵士達は唾を飛ばして来たり、激しく罵っているようだ。前に立つ女は冷たい笑みを浮かべ、こちらを見下ろしていた。
女は輝く金髪を腰までなびかせ、髪と同じ色の甲冑を身にまとっている。
『亡くなったお母様かしら?……でも肖像画とは違うわ……』
ディアナは自分を産んで亡くなった母かとも思ったが、何か違う気がしていた。
女は鍔の部分に三頭のイヌワシの彫刻がされた剣を振りかざし、そのままディアナに向かって降り下ろそうとした。
ディアナが息を呑んで体を硬直させた時……
後ろから抱きかかえるミリヤの腕に気付いた。
綿毛は次から次へ飛んで来る。今度は激しい憎しみが心へ流れ込んで来た。
†† †† ††
「ディアナ様、大事ないでしょうか?」
ミリヤの声が聞こえる。
気球のゴンドラにディアナはぼんやり座っていた。
「ああ、大丈夫だ」
「ディアナ様!?」
突然、男のような口調で答えたディアナにミリヤは狼狽した。
「何でもないわ。お前も見たでしょう? 誰かの記憶が頭の中に流れ込み、少し変な感じがしていただけ……」
ディアナは膝を立て顔を伏せた。
「少し、寝るわ。気分が悪い……」
唐突に、エリザが霧の札を剥がした。
霧がさあっと晴れ、オレンジ色の西日がゴンドラの中に入り込む。
気球の周りを浮遊していた綿毛は西日に当たると煌めきながら跡形もなく消えてしまった。
「グリンデルに入りました!」
ホスローが嬉しそうに叫ぶ。
ホスローはしっかりした足取りで後方へ移動すると(骨折治ってる)薄暗い魔国の方を仰ぎ見た。
「皆! 生きてろよ!」




