第一部 前編 七話 女剣士 カットした回想シーン
(ユゼフ)
体の震えはまだ止まらなかった。
生まれて初めて人を殺した。
一度に三人も。
手にはまだ生温かい命の感触が残っている。
馬車の中からでも精神を集中させれば、外にいる人間の心音を感じ取る事が出来た。これは訓練の賜物ではなく、ユゼフに生まれつき備わった能力である。目を閉じると、瞼の裏に精気が映し出されるのだ。
命の源を剣で貫くことは難しくなかった。
ユゼフは馬の手綱を握る自分の両手を見た。
最初に頸動脈を斬った御者の血がまだ付いている。それを見て震えは強まった。
幌馬車からの脱走を果たしてからずっと、身体は小刻みに震え続けていた。
「どうしたの?」
後ろで馬に揺られるディアナが不安そうな声を出した。ユゼフ達は幌馬車を曳いていた馬に乗っている。逃がした後に呼び寄せたのだ。
一見、追っ手を上手く撒いたかに見えた。
だが、まだ彼らの住処である森からは出ていない。
偽の足跡をあちこちにつけて小細工はした。それも長くは持たないだろう。早く森を抜けなくては……
モズ共和国の東に広がるこの森は魔法使いの森と呼ばれている。モズは魔法使い達が作った国で王も元首も存在しない。五年ごとに占術で選ばれた者達の議会が国政を担っていた。
この深い森はモズの国土の三分の一を占めており、ナフトという巨大都市に通ずる「魔法使いの道」が一本通っているだけだ。
「魔法使いの道」であれば結界が張ってあるので安全だが、一歩でも道から出れば魔物の住処である。ユゼフ達がいるのは高いトウヒの木々の間だった。
「……ほら、また聞こえた。動物の鳴き声ではないわ」
ディアナは震えながらユゼフの腰にしがみついた。
先ほどから「ケラケラケラケラ」と奇妙な音が少し離れた所から聞こえてくる。彼女の言う通り動物ではなかった。
しかし、奇妙な音がした方角から水の音が聞こえた。
「近くに湧き水があります。行きましょう」
二人とも喉が渇いていた。
馬もそうだったのだろう。水音のする方へ勢い良く駆け出す。
湧き水が流れる小川まで、数分も掛からなかった。木漏れ日を反射しキラキラ流れる小川は美しい。思わず二人は喜びの声を上げた。
馬から飛び降り、濡れるのも厭わず川の中へと。
まず手を洗い、顔を洗い、水を飲む。
渇きを癒やした身体は貪欲に水を欲し続けた。
喉を鳴らして、直接水面に顔を埋める。鼻に入ろうが構わない。傍目から見れば溺れているのかもしれなかった。
水をがぶ飲みするユゼフを見て、ディアナは呟いた。
「お前、喉が渇いていたのね……」
こんなことになる前、王女護衛隊は食料と水の入った馬車を盗まれた。節約をしなければならなかったのである。ユゼフは手持ちの水を全てディアナに差し出していた。
前触れもなく……彼女は近付いた。
「??」
飲むのを止め、ユゼフは顔を上げる。
パァン!!
次の瞬間、響いたのは小気味よい打撃音だった。
頬を平手打ちされたのだ。
「痛っ。何するんですか?」
「今のでこれまでの無礼な態度を許すわ」
頬にジィンと痛みが走る。
何度も経験あるのに慣れることはない。屈辱的だ。しかし、頬を押さえた時、不思議と体の震えは止まっていた。馬車を脱走してからずっと続いていた震えが。
怒りが恐怖を克服したのだ。
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彼女と初めて出会ったのは十二歳の時。
ディアナ王女はまだ九歳でユゼフの上の妹と同じ年だった。
謁見する時、緊張しながらも妹の事を思い出し、親しみを感じた。豪華な衣装に身を包んだ王女と魚臭い妹達とは、天と地ほどの差があるにしても。
教えてもらったばかりの作法で必死に礼儀をつくすユゼフ。一方でディアナは退屈そうに欠伸をしていた。
そもそも彼女に引き合わせられたのは、これから宦官として仕えさせる為の予行であった。
だが、その宦官の話は一旦たち消えてしまう。
母がヴァルタン卿に直訴したのである。
母はヴァルタンの屋敷の塀下で跪き、泣きながら懇願した。
「戦争はまだ終わりません。二人のご子息に不幸があった時、ヴァルタンの血は途絶えます。もう少しお時間を下さい。どうか、どうか……」
固く冷たい地面に跪く母の姿は哀れで、宦官になっても構わないからすぐにこんな事はやめさせたかった。
「お母さん、僕は大丈夫だよ。僕は大丈夫……」
しかし、幾ら縋っても母は頑として動かない。まるで強大な石を前にしているかのようだった。
母が動いたのは、ヴァルタン卿が首を縦に振ってからである。
願いが聞き届けられた後、母はユゼフに毅然と言い放った。
「お前は種を絶やしてはいけない。絶対に……」
いつもの物優しい母とは別人のようだった。恐ろしいほどの猛々しさを感じ、ユゼフは何だか怖くなったのを覚えている。大好きな母に対して初めて畏敬の念を抱いたのである。
こうしてユゼフは猶予を与えられた。
が、宦官になる事を免れても、時折王女の遊び相手をしなくてはならなかった。
ディアナは幼い頃から我儘。
気性の荒い暴れ馬だ。
ユゼフは馬になって何時間も庭園を歩き回らされたし、棒で叩かれたり、パイ皿を顔に投げられたりもした。これは気の合わない従兄弟達の相手をするのと同じくらい最悪だった。
加えてユゼフには吃音があった。
ディアナの前で言葉に詰まって吃ると、馬鹿にされ大笑いされる。
言葉はますます出辛くなり、次第にユゼフはどこへ行っても無口になった。
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「また……また聞こえたわ。今度はすごく近かった」
ディアナは怯えてユゼフの腕にしがみついた。
「ケラケラケラケラケラケラ……」
今度はすぐ近く、足下の辺りから音がする。
突如、足裏にふわふわした感触があり、地面がユラユラと動き始めた。
体が持ち上がるのを感じたユゼフはディアナを抱きかかえて跳んだ。
震源は二人の立っていたすぐ真下。
物凄い轟音が鳴り響き、小川は真っ二つに割れる。
「ギィヤァァアアアア!!!」
気味の悪い鳴き声だ。
小川の下から地響きを立てながら出現したのは、クリーム色のぶよぶよした巨大芋虫だった。
目と鼻はなく、あるのは尖った歯がみっしり生える大きな口だけだ。
木に繋いでいた馬が狂ったようにいななく。
ユゼフにできるのはロープを切って馬を逃がすことだけだった。
「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ……」
怪物の咆哮は強風となって、周りの木々を次々に打ち倒した。
風はユゼフ達を吹き飛ばし、固い大木に打ち付ける。
脇腹に刺すような痛みが走った。
辛うじてディアナの体を離さずにはいられたが、今の衝撃であばら骨が折れたようだった。
しかし、痛みを感じている余裕などない。
化け物は尺取り虫の動きと同じにもかかわらず、物凄い速さでこちらへ向かってくる。
風でだいぶ離れた所まで飛ばされているものの、ユゼフがディアナを抱えて走るより圧倒的に化け物の方が早い。
大きな木のうろを見つけたのは幸運だった。
そこにディアナを押し込め、
「絶対にここを動かないでください」
それだけ伝え、ユゼフはすぐに場を離れた。
口笛を吹けば、音に反応してユゼフの方へ向かって来る。ディアナから出来るだけ遠ざけたかった。
ユゼフは全速力で口笛を吹きながら走った。
身体中から湧き出る汗。息が切れる。
余りに必死で苦しいのが呼吸なのか、折れた肋骨なのか……よく分からなくなってくる。
呼吸音はハァハァから、次第にヒューヒューへと変わっていった。
もういいだろうと思い振り返ると、すぐ後ろに虫はいた。
「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ……」
激しい風が向かって来る。
後ろに跳び、辛うじて避けた。すかさず巨虫の後側に回り剣で切りつける。
巨虫の体は伸縮性があり、剣で切りつけても薄皮を削りとることしか出来ない。
痛覚はあるのか、体をうねらせて牙だらけの口をユゼフに向けてきた。
避けてまた、切りつける。
何度か切りつけるも、大した損傷は与えられなかった。
虫の鼓動を読み取って、攻撃を避ける事は出来る。だが、じくじくと痛む脇腹を抱えての持久戦は限界を向かえようとしていた。
「ダメだなあ。あんた、魔物と戦うの初めてか?」
不意に頭上から甲高い声が聞こえた。
見上げると甲冑に身を包んだ男が木の枝に腰掛け、足をぶらぶらさせている。兜で隠れているから顔は分からない。
集中力が途切れた為、虫の尾の部分(そこにも口らしき物のがあるのだが)が迫ってくるのに気付かなかった。
ギリギリの所で避ける。
飛び上がり、ユゼフは木の幹をよじ登って男に近付いた。
「あのな、ああいった汚れた魔物と戦う時は精霊の力を借りなければならない。あんた、祈祷は出来るかい?」
声の感じから鎧兜の中は若い男と思われた。十代か二十代前半の……
「神学校に二年通っていた」
「十分だ」
男は足をブラつかせながら答える。
「祈りの言葉を剣に帯びさせるんだ。精霊の力をまとわせて切りつける。そうすれば、魔物に致命傷を与えることが出来るよ」
──なるほど
魔物と対面するのは初めてだった。
鳥の王国で魔物に遭遇するのは魔国との国境付近ぐらいだ。
それと、国の真ん中にポッカリ空いた内海の島々にはこういった魔物が出るらしい……ということは知っている。だが、都市部で安穏と暮らしていたユゼフには関係のない話だった。
──なるほど、魔の力には聖の力を当てるわけか
魔物はまだ、木の上のユゼフに気付いてない。
「天の神よ、地の神よ、水の神よ、火の神よ、全ての物に宿る精霊達よ、神の御心を、精霊を汚すものを罰したまえ。我は神に許されし者、認められし者、始祖エゼキエルの子孫である。我に聖なる力を与えたまえ……」
ユゼフが祈祷を始めると、剣は光を帯びた。
いわゆる魔法剣というやつか。
全て初めて。でも以外と簡単だった。
木から飛び降り、すかさず魔物の体の真ん中をぶった斬る。
今度はユゼフの細い剣でも化け物の体を斬る事が出来た。
胴体を斬られた巨虫は雄叫びを上げながら崩れ落ちていく。切り口からは白い汁が溢れ出た。例えるなら熱々の腸詰めである。中で、はちきれんばかりに沸騰した汁がナイフを当てただけで、勢い良く放出される。
化け物がひるんだ隙にユゼフは振り回されながらも、その体をよじ登った。最後、後ろから口の部分に剣を突き刺す。これがトドメだ。
貫通した剣はニョッキリ顔を出すと、陽光を浴びてきらめいた。
ようやく、化け物は止まった。
「お見事!」
木の上の男が手を叩いて兜を脱ぐ。
光沢のある焦げ茶色の髪が肩に落ちた。
木の上に居たのは女だった。
そばかすのある白い肌と長い睫毛に縁取られた青灰色の瞳、大きな口で笑うと不揃いの歯がのぞく。
女は木から飛び降りると、手を差し出した。
「指導料、頂けるかな。背の高いお兄さん」