第一部前編 百十三話「アスターとみんな①」のあと。(ユゼフ視点)
(ユゼフ)
ユゼフは城門の前まで来ると、立ち止まった。
怖じ気づいた訳ではない。
激しい戦いの後、大量に血を抜かれ気分が優れなかった。軽い目眩もある。
吐き気を感じ、茂みに嘔吐した。
休んでいる場合じゃないのは分かっているが……吐き気が収まるまで城壁にもたれかかり、しばし休むことにした。城の正面から城壁添いに角を曲がる。
以前、ラセルタが言っていた。
体温と呼吸、拍動を生命維持に必要な最小限にまで抑える。すると、効率良く体力を回復できるのだと。
今、それをやっていた。
ラセルタから聞いた時は「なんだ、それ?」と思ったが、やろうと思えばできるものである。
……どれぐらいの時間、そうしていたか。
村に何人か残してアスターは城へ突入してしまったかもしれない。
充分に回復する時間がないことぐらい分かっている。急く気持ちと休みたがる身体が五分の戦いをしていた。
何とか壁から離れた時には、回復不十分でありながら休み過ぎた感じが否めなかった。ユゼフは気合いを入れるため両頬を叩いた。
西側面から正面へと移動する。
跳ね橋は下がっていた。人間や魔物の気配は全くない。ディアナ王女が逃げる時に通った裏門からの方が安全だろうが……ホスローからの文で救出に成功したことは知っていた。
『気配はないんだから、いいか』
面会の時は正面から入ったし、そっちの方が行きやすい。裏手に回るのは面倒だし。
足取りはまだふわふわしていた。
はね橋を渡り中庭を通る。馬が一頭もいない厩舎の横を通り過ぎると、正面に中央塔、右方向に東塔が見えた。
東塔からの強い気配に気を取られがちだが、中央塔からも邪悪な気配を感じる。東塔からは非常に強い邪悪な気配が一つと、中央塔からはおぞましいものが沢山蠢いている気配を感じた。
『アンデッドだろうか……』
しかし、他にもう魔物はいないようだ。
城内はガランとしてとても静かだった。
東塔近くまで来ると、人の気配が微かだが感じられた。自然と早足になる。
『サチに違いない』
東塔の入り口は低めのアーチ型になっており、扉は付いていなかった。
『あれ?』
先程まで強く感じていた邪悪な気配が消えている。
ユゼフの来訪に気付き、隠れたのだろうか……言い様のない気味悪さを感じ背筋が冷たくなった。だが、人の気配は強くなっている。それに後押しされユゼフは塔の入り口をくぐった。
塔の半分辺りまで螺旋階段を上った所で、カーブの向こう、人がしゃがんでいるのに気付いた。
「サチ!」
安堵の溜め息を吐きながら、カーブを曲がると……
「ひっ!」
小さな悲鳴を上げてから慌てて口を押さえたのはイザベラだった。
イザベラは突然のユゼフの出現に驚きながらも、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「もう来てくれないと思ってたわ……でもよかった。来てくれてほんとによかった」
声を詰まらせ涙ぐむ。
「来て。サチの居る所へ案内するわ」
イザベラは立ち上がり、スカートの裾を掴みながら階段を上り始めた。
塔の中は松明の代わりに光の札が等間隔で貼られていて、明るい。
「この札は?」
「私よ」
「魔術が使えるのか?」
「まあね」
意外だった。
貴族のしかも名家の娘が魔術を使うなんて話は聞いたことがない。
イザベラは美しい黒髪を上の方だけ左右三つ編みにして腰まで垂らしていた。イザベラのキュッと締まった腰の辺りを見ながら、少し前から疑問に感じていたことを聞くか聞くまいかユゼフは迷っていた。
彼女は美しい名家の娘でユゼフにとっても高嶺の花だ。学校に通っていた時はこんな風に会話をするなんて考えられないことだった。それは勿論サチにも当てはまる。
「失礼かもしれないが、君はサチと……その、どういう……」
イザベラは立ち止まって振り返った。頬が気持ち赤らんでいるようにも見える。
「恋人同士……では、まだないけど、たぶん彼も私の事を好きだと思う」
イザベラはそれだけ言うと、そそくさとまた階段を上り始めた。
サチは貴族ではない。イザベラが変わっている娘だとしても身分に差があり過ぎる。身分の低い男と高貴な身分の娘の恋愛は世間的に認められないだろうが……
それでも羨ましいと思いながらユゼフはイザベラを追いかけた。
階段を一番上まで登ると正面に鉄扉があった。錆びた鉄扉には円を描くように一面、呪文が書かれてある。その呪文の上を斜めに剣で切りつけたような新しい傷痕があった。
異様な雰囲気にユゼフは息を呑む。
「この扉の向こうにサチはいるわ」
イザベラが古代語で「解除」と言うと、銅の錠前はガチャリと音を立てて外れた。
「でもここは、塔の最上階では?」
最上階の窓から魔物が出入りしているのを昨日、面会の後に見た。
「早く助けに行って」
イザベラは若干緊張した面持ちで言い、ユゼフの後ろに回った。ぐいぐい背中を押してくる。ユゼフが躊躇したのは部屋の中から全く気配を感じなかったからである。
ユゼフが止まって動かないので、イザベラは扉の取手を握り、勢いよく開けた。
燭台の明かりで明るい部屋にはソファや暖炉、小さな棚が壁際に並んでいる。階段の壁は黒曜石が剥き出しになっているが、この部屋の壁は白い。こぢんまりとした居間のようだ。
ソファに腰かけているサチの姿が見えた。両手を後ろに縛られている。
「ユゼフ!」
サチはユゼフを見ると嬉しそうに声を上げた。思わずユゼフは走り寄る。
「今、助ける!」
ユゼフは腰からダガーを抜くと、サチの体を縛っている縄を切り始めた。
「何があったんだ? 魔物達は?」
「後で説明する。今は早く逃げないと……」
縄を切ると白い手首が見えた。縄でこすれたり圧迫したような跡はなく、とても綺麗だ。
「サチ、いつから拘束を?」
背後で鉄扉がバタンと閉まる音がした。ガチャンと錠のかけられる音も……
そこで初めてサチから心音が聞こえていない事に気付いた。不穏な空気を感じ、ユゼフはサチから離れ後ずさる。
サチは薄く微笑んでいる。
「気付いたか。朕の分身よ」
サチがそう言うと燭台の火は消え、辺りは濃い邪気に包まれた。
ユゼフは黒獅子天子が残した黒曜石の剣を抜いた。
「何者だ?」
「言わなくても分かるだろう? お前は朕であるし、朕はお前でもある」
「分からない。化物め、サチの体から出て行け!」
「言われなくてもそうする。そのためにお前は来たのだから。このエゼキエルと一つになるために」
サチが手をかざすと、影の集合体がクルクル回りながら現れた。
最初は小さなつむじ風だったそれはどんどん大きく成長し、天井へ達するまでの大きな竜巻になった。数えきれないほどの人影が螺旋を描きながら、高速で上から下へ下から上へと移動を繰り返している。
突風に吹きつけられたユゼフは両腕で顔を防御した。部屋の中の家具は影の竜巻に巻き上げられ、天井は突き破られた。
「ずっとお前の事を見ていた。王女を捕えれば、お前がここに来ると聞いたからイアン・ローズに協力した」
『ずっと、見ていた?』
カワウの土漠で兄の護衛隊の一員として宿営している時から感じていた邪悪な気配……あの晩、今まで何度も見ているあの夢を見た。
磔にされ、体を燃やされ、全身から憎悪が吹き出すようなあの感覚は毎回とてもリアルで夢とは思えなかった。
「そうだ。あれは夢ではない。現実に起こったことだ」
サチに乗り移った何者かがそう言うと、影の竜巻は急に細く短くなり巻き上げられた家具は床へ落下した。
今度は長細い形になり先を尖らせていく。ぐるぐる回っていた影の密度は濃くなり艶が出てきた。たちまちそれは黒く鋭い輝きを放つ剣のようになった。
サチの肉体は黒い剣を握り、片手でかざすように構えた。
「何故だ? 俺の体が目当てなのなら、直接連れ去れば良かったじゃないか?」
「シャドウズは自分より力の強い者を運ぶことはできない」
邪悪な力によりサチの心臓が動き始めているのがユゼフには感じられた。脈動を感じられれば、動きを追う事ができる。しかし……
「無知で無邪気、哀れな王よ。最愛の妃をむごたらしく殺され、国も民も全てを奪われた……朕はお前の闇の部分。憎悪に支配され復讐を誓った。三百年前、お前は憎しみの記憶をこの場所に封印した。転生した後、本当の自分に戻るには朕とお前は一つにならねばならない」
喋り終えると、サチの体は一瞬で消えた。
次に気配を感じたのは、背後だ。
鋭い一撃を黒曜石の剣で受けるのは、紙一重だった。すかさず二打目が来る。
数回、刃をぶつけ合い火花を散らせるとまたサチの体は消えた。
今度は左横から間合いに入ってくる。
サチは消えては現れて攻撃し、また消えてを繰り返した。
どうやら高速で移動しているわけではなく、瞬間的に別の場所へ移動する事ができるようだ。
「抵抗するのは互いの為によくない。朕も自分の体を傷つけたくない」
サチの顔で微笑む邪悪な化物には虫酸が走る。緩んだ口の端から魔甲虫がチラリと見えた。
『魔甲虫に操られているのか?』
ユゼフはレーベの実験でラセルタに魔甲虫を寄生させた時の事を思い出した。
──朕はアニュラス国王エゼキエル。この大陸を統治する者である。今は仮の体の中にいる。朕の分身よ、早く余の元へ……一つになり転生するのだ
ラセルタの体に寄生したこの魔物は古代語で確かにそう言っていた。
その後、アスターがラセルタを強引に湖へ落とし、虫が体内から出た後、息を吹き返したのだ。
サチの様子はあの時のラセルタと同じで脳と心臓を食われたアンデッド達とは違う。体内から虫を取り除けば、もしかしたら助かるかもしれない……
サチは突然現れては消える。避けるのが精いっぱいで的確にこちらから斬り込むことはできない。できたとしても手加減はできないからサチの体が無事で済む保障はなかった。
何回か攻撃を受ける間に慣れてきて、思考する余裕が少し出てきた。消えた後、現れるのは後ろか、右か、左か……
不意に頭上から気配を感じて、ユゼフは顔を上げた。
宙に飛んだサチが上から斜めにユゼフの左肩から右脇腹までを切り裂いた。間をあけず、今度は下から剣を振り上げてくる。
ユゼフが二撃目を辛うじて受けると、下に構えた状態での鍔迫り合いになった。
身長はユゼフの方がサチより十ディジット(十一センチ)以上高い。サチは体格もまだ少年のようだ。
にも関わらず、信じられないほど強い力でユゼフは押され後ろの壁まで追いやられた。下に鎖帷子を着込んでいたため無事だったが、今の攻撃で着込みは切り裂かれてしまった。
更に強い力で下から上に剣を振り上げ、ユゼフの剣を払う。そのまま左足で踏み込み、左肩を狙ってくると思った。ユゼフは身を屈めて構え直そうと……
だが、サチは上から振りかぶる事はせずにユゼフの腹を突き刺した。
ズブリ……
影で作られた黒い剣はユゼフの背中を突き抜け、後ろの壁に刺さる。
「観念しろ。お前もそれを望んでいる」
サチの顔をした邪悪な王は勝利を確信したのだろう、ユゼフの顔を下から覗きこみながらニッコリと笑った。
サチが口を開けると、中で無数の魔甲虫が蠢いているのが見える。
『もう終わりか……』
そう思った時、扉の外でイザベラが何か叫んでいるのが聞こえた。それから、金属同士が激しくぶつかり合う音が……
一瞬、邪悪な王は扉の外に気を取られた。
そのほんの僅かな隙をユゼフは見逃さなかった。それは意識的ではなく、自衛本能が無意識に動いたのだった。
拍動する心臓の位置をユゼフは的確に捕らえる。
黒曜石の剣はサチの心臓を一瞬で貫いた。




