第一部前編 八十五話 エデン犬 視点ジェフリー・バンディ
(シーマの家来 ジェフリー・バンディの視点)
十分も経たぬ内、シーマは「やる事」を済ませて広間に戻って来た。
血の付いたままの上衣を見て、ジェフリーは違和感を覚えた。というのも、シーマは身嗜みを気にする性質だから出かけるまでに着替えると思ったのである。
逃げないようカオルとウィレムの両手を縛らせる。その後、買い物などに使う荷車へ乗せた。
供の者は連れて行かず、荷車を運転する御者と猟犬一匹、それとジェフリーだけ連れ、シーマはローズ城を出た。兵士達はローズ城の中庭で待機させたままだ。
どこへ行くのかジェフリーには理解出来なかった。グリンデル人二人の話だと、イアン達は壁を越えるつもりのようだったが……
ローズ城の状況から見て、イアン達は数時間前に発っている。兵を城に待機させるのではなく、捜索に当てた方が現実的だと思われた。
「今からハンティングをする。ちょっとした気晴らしだ」
馬に乗ったシーマは、荷車のカオルとウィレムに向かって言った。
「シーマ様、あの……」
「ジェフリー、何も言うな。お前の言いたい事は分かっている」
おずおずと声をかけたジェフリーの言葉を遮り、シーマは先に馬を走らせた。
ローズ城から馬に乗って逃走したのは四人。
蹄の跡がそれを裏付けた。猟犬が逃走者の馬の臭いを辿る。
四人の逃走者達はローズ城を出て、真っ直ぐ北を目指していた。トウヒの森を抜け、山を越え、渓谷を渡り……いつの間にか日は暮れかかっている。
『帰りは真夜中だ。城もあのままにして……どういうつもりだ?』
ジェフリーの心配をよそにシーマは呑気に口笛を吹いている。
「今夜は野宿ですか?」
ジェフリーは恐る恐る尋ねた。空腹だし寒い外では寝たくなかった。
「さあな」
シーマは口笛を続ける。ジェフリーはその聞き覚えのある節がいつどこで聞いたものなのか気になった。自分の屋敷で聞いたものではないと思う。小さい子供が口ずさむ民謡のような……
渓谷を渡ってしばらくすると、だだっ広い平原に出た。レンゲソウやつくしが風に揺れているだけで起伏はほとんどない。この平原には、人口的に植えられたと思われる杉の巨木が一本あるだけだった。
先には真っ黒な闇の集合体が大蛇のように横たわっているのが見える。
「壁だ」
シーマの一言に分かってはいるものの、緊張が走った。
「壁を見るのは初めてか?」
シーマはジェフリーに尋ねた。
「いえ。八年前に……」
シーマはカオルとウィレムを見た。
二人は何も言葉を発しなかったが、表情からジェフリーと同じなのは分かる。
「八年前、十二の時に……」
シーマは呟くと、馬の腹を蹴って速度を上げた。
その真っ黒な化け物は、近くに行けば覆い被さってくるのではないかと思えるほど流動的だった。まるで生きているようにも見える。
中では砂粒のような黒い粒子が蠢き、規則正しく同じ方向へ直線的に動いたり、かと思えば渦を巻く粒子の集まりもあり、どのような方式で動いているのかは全く見当がつかない。
太陽が沈んだかどうかはこの黒い怪物のせいで分からなかった。しかし、先ほどまで照りつけていたオレンジ色の光はなくなり、辺りはひんやりとした青色に染まっている。
壁は地平線を隠し、その向こう側の景色を全く覆い隠してしまっていた。黒い粒子の集合体が蠢きながら永遠に続いているのが見えるだけだ。
どこかで遠吠えをする犬の鳴き声が聞こえる。
カオルとウィレムは荷車から降ろされた。
シーマは落ちている木の枝を拾うと、杉の大木の根元から指で測りながら、壁まで垂直に伸びる直角三角形を描いた。次に木から垂直線に沿って壁へとロープを引っ張る。
その間もずっとシーマは口笛を吹いていた。可愛らしげでどこか悲しい曲を。
この木を境に魔国とグリンデルの国境線があるので、どうやらそれをはっきりさせたいらしい。
ジェフリーがシーマの口笛をどこで聞いたか、あと少しで思い出さんとしている時、シーマは壁の前まで来た。
手にはピンと張ったロープを持っている。最後に人差し指を立て片目をつむり角度の調整をする。それからシーマはロープを地面に置いた。
「このロープの線から左が魔の国、そして……」
シーマがそう言いかけた時、ロープで区切られた右方向から犬の吠える声が聞こえた。
一同、視線を移動させる。すると、広がる平原の向こう、小さな丘から動物がかけ降りて来た。
「マリク!」
次の瞬間、シーマは犬の方へ走り出していた。
「マリク! マリク! ……信じられない。まさか、そんな!」
興奮して叫び、その愛らしいエデン犬を撫で回した後、首輪に天蚕糸で結ばれた文を見つけた。
途端に驚きと喜びの入り混じった顔をして、シーマは震える唇を手で押さえた。
文の封蝋に押されていたのは……冠の下に交差する剣、ヴァルタン家の家紋だ。
「ペペ!」
シーマの声は数十歩離れた所にいるジェフリー達にもはっきり聞こえた。
シーマは天蚕糸を小剣で切ると、指を震わせながら封を開けた。
「どうしたんです? ペペって、ユゼフ・ヴァルタンの事ですか?」
眉間に皺を寄せたジェフリーが尋ねたが、シーマは読むのに夢中で答えなかった。
カオルとウィレムは顔を見合わせている。
「なるほど……分かった」
数秒で文を読み終える。シーマの手から、魔術だろうか……赤い炎がチラッと見えた。瞬く間に炎は文を包み込み、一気に燃え尽きる。
それから上衣の内側から一通の文を出すと、シーマは言った。
「ここに居るカオル・ヴァレリアンはこのシーマを欺き、最も重要な事柄を隠していた。その罪は重い。だからお前ら二人の裏切り者達に試練を与えようと思う」
シーマは残虐な笑みを顔に浮かべている。
「アダム・ローズがなぜ死んだか知りたいか?」
シーマの問いにカオルとウィレムは硬直したまま、答えられなかった。
返事を待たずにシーマは続ける。
「体に重りを付けて時間の壁を渡らせたのさ」
シーマは楽しそうにカオルとウィレムの顔色が変わるのを確認した。
「この壁を象っている時間の粒子が体内に入り込めば、あっと言う間に……言わなくても分かるな? 死にかけのアダムは俺のかけた暗示で、律儀に手紙を学匠シーバートへ渡すと息絶えたとさ」
驚いていたのはカオル達だけではない。
シーマの傍にいるジェフリーも何も聞かされていなかった。
ジェフリーの脳裏に浮かんだのは三年前。
貧民窟に迷い込んだ時、シーマが暴漢達を次々にひざまずかせた不思議な力の事である。
『あんな奇術は他に見た事も聞いた事もない……』
アダムは恐らくあの力で暗示にかけられたのだろう。
「ユゼフへ宛てたこの文をお前達のどちらかに託そうと思っていた……が、このタイミングでマリクに出会えた偶然は奇跡的でとても喜ばしいことだ。
この賢い犬はユゼフのいるモズから虫食い穴を経由してグリンデルへ行き、壁を渡った後、ローズの森の虫食い穴を通って我がシーラズ城へ行く所だったのだ。
何故、そんな遠回りをするか、だって? モズから一直線にシーラズ城へ向かえば、ローズの兵に見つかってしまうではないか……もう今はいないがな。
※マリクは赤い〇の虫食い穴を通ってからピンクの〇の虫食い穴を通ってシーラズ城へ行くつもりだった。シーマ達が今いるのはローズ領上部水色の〇の所。鳥の王国、魔国、グリンデルの国境が交わる場所である。
「この可愛い犬のお陰で壁の向こうの状況もよく分かった……それゆえ、お前らに情けをかけてやってもいい」
シーマは喋りながらゆっくりと歩き、壁の真ん前まで来た。そして、手首を壁の中へ入れる。
黒く細かい粒子はぐるぐると幾つもの円を描きながらシーマの手にまとわりついた。手の周りだけ粒子の動きが激しくなる。次第にシーマの手を引っ張り、その力はどんどん増していった。
シーマはバランスを崩してよろめき、壁から手を抜くと同時に後ろへ尻餅をついた。
「面白い! すごく変な感じだ。最後の方、手を強く引っ張られるまでは何とも形容しがたい感触だった。ジェフリー、お前もやってみろよ。すごく楽しい!」
シーマは楽しそうに笑ったが、ジェフリーは困った顔をするしかなかった。
『あんなおぞましいものの中に手を入れるなんて……どうかしてる。もしも引きずり込まれたら……』
ジェフリーの考えを見透かしたのか、シーマはつまらなそうに舌打ちをした。
「はあー、つまらない奴。ユゼフなら絶対やってくれるのに」
その一言はジェフリーの胸に決して消える事のない爪痕を残した。
シーマはカオルとウィレムに向き直る。
「本題に戻ろう。もし持っているならグリンデル鉱石を出せ。それで壁を渡るのはチャラにしてやる」
ウィレムは首を横に振ってからカオルを見た。カオルは身動ぎせずに俯いている。
「グリンデル鉱石だよ、グリンデル鉱石。この壁を渡るにはレンズ豆程度の大きさがあれば充分だろう。マリクを壁の向こうへ遣わした時、念のため往復分のグリンデル鉱石を体に埋め込んでおいたのだが、今はもうない。この可愛い犬を文の輸送で老犬にはしたくない。可哀そうだからな」
マリクは舌を垂らしエデン犬の特徴である丸まった尻尾をしきりに降っている。つぶらな黒い瞳はジッとシーマを見つめていた。
「壁の向こうではイアンがディアナ様を連れ去ったそうだ。でも俺は大丈夫だと信じてる。大切なお姫様を絶対にユゼフが取り戻してくれると。だからこそ、俺はちゃんとユゼフに伝えなければ。ニーケ殿下が生きて、イアン達と一緒にいるってことをな」
まくしたてるように言葉を吐くシーマに対し、カオルは無言で目を閉じた。
「ないのか? 一つぐらいは持っていないのか? ……ジェフリー、城なしの貴族というものは持っていないものなのか?」
ジェフリーは自分も所持していなかったので苦々しく笑うと、「さあ」とだけ答えた。
シーマは歌いながら木の枝でカオルとウィレムを交互に指し始めた。
「ど、ち、ら、に、し、よ、お、か、神様、精霊様、ケルビム様、メシア様……赤豆、白豆、黄色豆、緑豆、梅、桃、桜、林檎の実、今日は何をた、べ、よ、か……な」
ピタリ……
木の枝が指したのは……
「よし、お前に決めた。カオル・ヴァレリアン」
シーマはカオルを立たせると言った。
「安心しろ。グリンデル国境付近は他国より警備されているが、ちゃんと王家の紋が入った通行証も用意してある」
不意に、カオルは顔を上げシーマを睨み付けた。何か、揺らぎない決心をしたような……そんな顔。少し前までの怯えた態度とは違う。
「グリンデル鉱石ならある」
「……え?」
シーマは一瞬驚いて見せてから笑いだした。
「こいつ、どこまでクズなんだか。自分じゃなくてウィレムが選ばれていたら見捨てるつもりで黙っていたんだな」
ウィレムは青ざめている。カオルはシーマから目を離さずに言った。
「ほら、上着のポケットの中に」
シーマがカオルのポケットを探ると、金の懐中時計が姿を現した。
蓋の上には大きなグリンデル鉱石が嵌め込まれており、底には三つ首のイヌワシの紋が刻まれている。
シーマはそれを注意深く観察した。
「これは王家の物では? ……失礼だが、ヴァレリアン家と王家にどんな繋がりが?」
「これは母が王女様の乳母をしていた時に賜った物だ」
「……へえー。乳母が、これを? ……そして養子のお前にあげたのか?」
疑いの目を向けるシーマからカオルは目を反らした。
「まあいい。日も暮れてきたし、約束通りマリクに行かせる」
空を見上げると星がもう瞬き始め、欠けた月が笑うように浮かんでいる。
シーマはマリクに餌を与えた。その間に文と懐中時計の入った小袋、通行証は剥き出しで首輪の後ろへくくりつける。
マリクが餌を食べ終えると、顎と鼻を撫でてやり、
「いい子だ。手紙を持ってまた五首城へ行くんだ」
と言い聞かせた。
その言葉はジェフリーの耳に残った。
『五首城? 壁の向こうでユゼフが拠点にしているのか……』
マリクはしばらくシーマに身を任せていたが、腰を軽く叩かれ、
「行け!」
命令されると、一寸躊躇した後、壁の中へと飛び込んだ。
シーマ以外の三人は息を呑む。
マリクが飛び込んだのはロープの右側、グリンデル王国の方である。
壁を造っている黒い粒子は一斉にマリクの体へ集まり、マリクは見えなくなった。
が、それは一時だけで、黒い粒子は柔らかい虹色の光に弾き飛ばされ、マリクは丸い光に包まれた。
―――グリンデル鉱石の力か
まばゆい光はマリクを包み、走るマリクと一緒に移動する。
数秒の間に黒い粒子は大きな波となって、マリクの通った所へ覆い被さった。瞬間、マリクと光は闇に飲み込まれて消えた。
全て終わるとシーマは満足そうな顔で、またあの口笛を吹いた。
『ああ、やっと思い出した』
喉に引っかかっていた骨が、ようやく取れたような感覚だ。
ジェフリーは幼い頃の記憶を手繰らせる。
あれは子供の頃の夏、父と内海の島へ行った時、聞いたものだ。
金色に輝く陽光を浴びて、農家の子供達が畦道を歩いている。楽しそうにスキップを踏みながら、大声で歌っていた。
―――確か農家の娘が戦争に向かう恋人へ向けて歌った歌だ
―――愛しい人よ、代わりのキュウリ、枯れちゃった……
この歌詞が子供心に強い衝撃を与え、ずっと覚えていたのだった。幼い子供が歌う童歌なのに内容は大人びているから、歌詞をメモまでした。今となってはほとんど思い出せないが。
行かないでおくれ
と言っても行かねばならぬ
置いて行かないで
と言っても行かねばならぬ
愛しい人よ
枯れちゃった
赤んぼができた
父なし子じゃ