第一部前編六十話 魔人の血 レーベ視点
※若干、設定変更しています。
(レーベ)
アスターの肩に包帯を巻き終えた所で、レーベはベッドに腰掛けた。
ホッと一息。
大きな溜め息を吐く。
傷口の縫合は経験あっても、切って異物を取り出すという外科的処置をするのは初めてだ。さすがに疲れた。
アスターは意識を失っている。
弱いながらも呼吸はあるが……
肩の動脈を傷付ける事なく虫は取り出せた。しかし思いのほか出血が多く、虫の毒素による体の衰弱が激しい。
『このままだと、この人死ぬかも』
この男は死んだ方が世のためになるんだろうが、自分の力量不足を突き付けられるのは嫌だった。
外はすっかり暗くなっている。
屋敷の外へ出て辺りを見渡せば、時間移動したような錯覚すら覚えた。
輝きを増す一番星。おぼろげになりつつある地平線の紫色がどこか物悲しい。
冷えた空気が心地良かった。昼間の熱気が消えかけている地面も。暖かな匂いがフンワリとレーベを包み込む。
『やった! 今日は鴨肉のハーブ焼きだ』
集会所へ着くと、丁度食事時だった。
エリザが顔を強張らせて駆け寄って来た。
「どこ行ってたの? 心配して探してたんだよ!」
「ごめんなさい」
俯いて謝るレーベの後ろをユゼフ達が通り過ぎて行く。
アスターの話をしているのが聞こえた。
「呼びに行った方がいいかな」
「放っとこうぜ」
とバルバソフ。
「アスターさんなら今、具合が悪くて部屋で寝てますよ」
レーベは思わず声をかけた。
横にいたエリザが目を丸くする。
「レーベ、アスターと一緒だったの?」
「体調が優れないというので、看てあげてたんです」
「あの糞オヤジも具合悪いことがあるんだな」
バルバソフが笑った。
それに釣られて、周りも軽い笑い声を立てる。誰も心配していない。
唐突にユゼフと目が合った。
「レーベ、話があるから食事が終わったら部屋に来てくれ」
「あんたも具合が悪いの?」
レーベは笑った。
ユゼフは首を振ると静かに去って行く。
一人だけ真顔だった。
レーベは首を傾げた。
『アスターの事だろうか……あいつなら気付いてそうだな』
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食後、レーベが部屋を訪ねると、ユゼフは真剣な顔で落ち着きなく部屋を歩き回っていた。時折、ピタッと止まったかと思うと顎を触り、指をしきりに動かして何か計算しているようにも見える。
部屋に入ってきたレーベの存在を忘れているのか、こっちを見ようともしなかった。
「また何かお得意の悪巧みですか?」
嫌味ったらしく言ってやる。
それには答えず、ユゼフは小瓶をレーベに投げて寄こした。
男性の小指ほどの大きさのその小瓶は一見、ガラス製の薬品入れに見えるが、よく見ると角度によって表面が七色に変化する。微弱な魔力を纏っていた。
「これが五十本欲しい」
「……魔瓶ですね。五十本って? とんでもない数ですよ」
魔瓶は熟練の魔法使いが一週間かけてやっと一瓶作る。材料には貴重なグリンデル鉱石を使っていて、安価な物ではない。
「何に使うんです?」
ユゼフは少し躊躇ってから口を開いた。
「一度に五十体であれば操作が可能だ。アスターさんが居ない間に森で動物を集めて試してみた。リスや鳥、ウサギで。五十を越えると魔力の消耗が激しく体力が奪われていく。知能の低い虫系の魔獣であれば、五十体以上操作できるはず」
レーベはどんどん人間離れしていくユゼフに唖然としたが、顔には出さなかった。
「ふーん。でもそんなに力を使ってもいいんですかね? ちょっと顔を見せて下さい。体に変化はありませんか? 犬歯が伸びたりしてませんか?」
レーベは不遠慮にユゼフの事をジロジロと見た。ユゼフの顔に不安がよぎる。
「……力を使いすぎるとどうなるんだ?」
「そりゃあ、本来の貴方の姿に戻るんですよ。化け物の姿にね」
楽しそうに答えてやった。
「亜人達は血の存続のため能力を内包したまま、全く別世代に隔世遺伝させる事ができるんです。ユゼフさんは人間として生まれたのかもしれないけど、魔人の能力を完全に隔世遺伝で引き継いちゃってます。貴方はね、もう人間じゃないんですよ……ちょっと耳を見せて下さい……やっぱりそうだ」
「どうしたんだ!?」
レーベは意地悪な笑みを浮かべながら、手鏡を渡した。
鏡の中のユゼフは青ざめた顔をしていたが、十割方人間の姿をしていた。レーベはユゼフの髪を掻き分け、左耳の先を指差して見せる。
よく見ないと分からないぐらいの小さな違い。耳の先が尖るのは妖精族と魔族に多く見られる特徴である。
ほんの少しだけ、ごく僅かに……ユゼフの左耳の先は鋭くなっているだけだった。だが……
震えた指からスルリと手鏡が滑り落ちた。
すんでのところで、レーベは受け止める。
いつも涼しい顔をしている無愛想が動揺しているのを見るのは楽しい。
「爪も見せて下さい。体に鱗の生えている所はありませんか? もしくは尻尾や羽根は? ちょっと服を脱いで見せて下さいよ……とても興味深い」
「ハサミを貸してくれ」
「何に使うんです? まさか、耳の尖った部分を切るとか?」
「その通りだよ」
ユゼフはそう言うと、レーベの手からハサミを奪い取り、左耳の先をチョッキンと切り取った。その動作にはなんのためらいもなかった。
真っ赤な血が有り余った生気を勢い良く放出する。花がぱぁっと鮮やかに開いて、飛び散っていくかのように……
それは美しいだけでなく一種の凄みがあった。
レーベは慌てて、流れ落ちる血を乳鉢で受け取る。
「こんな事をしても意味ないのに……でもまあ、血は頂きますよ。これ、使えるかもしれないんで」
乳鉢に血が溜まると、レーベは満足そうにそれを瓶に移しかえた。
「ちょっと待ってください。これが終わったら手当てしてあげます。まあ、動揺しますよね。もし亜人て事が公になったら、せっかく邪魔者の父親と兄達が居なくなったのに爵位継承できるか分からないですもんね」
レーベはそう言ってクスリと笑った。
「外形の変化を抑える方法はないのか?」
「……そうですね。あるにはあるけど……あんた次第かな」
ユゼフは鋭くレーベを睨んできた。
縄張りを争う獣が標的を定める目だ。鼻梁の辺りの浮き出た血管がいつもより青い。手は血で濡れていたが、もう震えてなかった。
『ほーら、本性現した』
レーベの見立てでは、この男はもともと物凄く気が強い。立場と状況で大人しく殊勝に振る舞っているだけなのだ。
「条件を出したいなら、さっさと言えよ?」
「僕を子供扱いするのはもう止めてください。あんた達には僕の力と知識が必要だ。手を貸して欲しいなら同等に扱ってもらいたいんです」
「……分かった」
素直に頷いたユゼフを見てレーベは満足した。まあ、大した要求ではなかったから安堵したのだろう。
「シーバート様から引き継いだ薬品で変化を抑える薬を調合出来ます。ただし、これは魔力を抑え込む作用があるので力が弱まります。魔の国でその力が必要になるかもしれないので、見た目が隠せないほど変化してきたら使うようにしてください……それと魔瓶の件ですが、金がいります。気球に使う金と同じだけ。頭領にまず相談してみてください」
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ユゼフの耳の手当てを終えると、レーベはアスターの部屋へと向かった。
思わぬ収穫に自然と足取りは軽くなっている。
アスターは相変わらず、弱々しい呼吸のまま寝ていた。目の下は黒ずみ、髭の間から僅かに覗く皮膚は生気を失っていた。さっきよりも死に近付いている気がする。
レーベが耳元で大きな声を出して呼んでも、頬をピシャピシャ叩いてみても全く反応がない。完全に意識を失っていた。
さっそく、レーベはお椀に入れた血をスプーンですくって、恐る恐るアスターの口元に添えた。それをゆっくり傾ける。
血はツツーと口の端から髭のジャングルへ流れ落ちる。無反応だった口がピクリと動き、それは次第に大きな動きへ変わった。モゴモゴした動きのあと動作は喉へと移動する。しばらくして、ゴクリと音がした。
途端、顔に色味が戻ってきたように見える。
もっと飲みたいのかアスターは口をパクパクさせた。今までにない動きだ。
レーベは体を少し起こさせ、お椀を唇に当ててやった。するとゴクゴクと喉を鳴らして、豪快に血を飲み始めたのである。
全て血を飲み終わると、アスターはまたベッドに倒れこみ、今度は大きなイビキをかきながら寝てしまった。
顔色、呼吸、共に先ほどとはまるで違う。
自然な赤みを帯びた肌色は生き生きとした呼吸に合わせて上下していた。
『力の強い魔人の血には強い治癒力がある。迷信だと思っていたけど……』
結果としてアスターを助けてしまった事にレーベは葛藤を感じずにはいられなかった。
彼らは善人ではなく、彼らのやろうとしている事は正義ではない。成り行きで彼らの手助けをする事になったが、それがいい結果を産むのかは分からなかった。
『まあ、いい。倫理的な問題を考えるのは止めよう。今は魔虫と特別な魔人の血が手元にあって調べることができる。今まで押さえ付けてきた探究心を自由に解放することができるんだ』
レーベは良心を封じ込め、意気揚々とエリザの待つ部屋へと戻った。