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第一部 前編 一話 シーバート視点

(シーバート)


 憎悪のこもった咆哮が荒野に響く。

 

 シーバートは苦しみもがいている青年の肩を揺すり、叩き起こした。


 ここは暖かなオレンジの光に包まれた天幕。青年の額には汗の粒が光っている。


 青年の名はユゼフ・ヴァルタン……名家ヴァルタン家の私生児だ。王女護衛隊の隊長ダニエル・ヴァルタンの弟である。


 シーバートは恐る恐る青年の顔を覗きこんだ。端正な顔立ちだが、鼻梁(びりょう)に青い血管が浮き出ているのは(かん)の強さを表している。眉間には神経質そうな皺が刻まれていた。



「大分うなされておった」


 芯の通ったしゃがれ声で老人シーバートは言った。


「申し訳ございません」


 掠れ声でユゼフは答える。


「水を飲んだ方がいい。すごい汗だ。服も代えないと。ああ、さっきの声で王女様がお目覚めでないといいのだが……」


 

 王女の天幕はすぐ隣だ。

 さっきの叫び声は筒抜けだろう。

 隣に筒抜けどころか、宿営地中、響き渡ったに違いない。


 シーバート老人は王室付学術士の中でも最も上位とされるグランドマイスターの称号を持っていた。腰は曲がっていても、膨大な知識と洞察力には自信がある。


 旅の道中、ユゼフはどことなく物憂げでいつにも増して暗かった。そして、連日のように悪夢にうなされている。



 ──何かあるのだ。きっと口に出して言えない何かが



 シーバートはこの不遇な青年を心配していた。安心感を与えようと、ゆったりした所作でコップに水を注ぐ。

 

 ユゼフは寝ぼけ眼でボンヤリそれを眺めていた。



「あの、ここは?」


「まだ、寝ぼけておるな。ここはカワウの土漠じゃ。我々は王女様の婚約儀式に付き添い隣国であるカワウに滞在中……」


「壁が現れた……」


「そうじゃ。お前の従兄弟が文を持って来てくれた。壁を抜けられる場所が隣のモズにあると……」


「ああ……そうでした。それで我々は兄上の指揮のもと、土漠を横断してモズへ……」


「その通りじゃ。ようやく正気に戻ったか」


 

 ホッと息を吐き、ユゼフの顔が(やわ)らぐ。安堵のしるしに僅かな笑みを浮かべて、コップに口をつけた。


 ……ん ……ん


 水が口腔を通り、咽頭を下っていく。

 生々しい躍動が音となって落ちていく。


 水を二口飲んでから、ユゼフはハッと気付き、近くのテーブルにコップを置いた。



「こ、この水はどこから?」


「ああ、気にせんでもええよ。この爺が隠し持ってたやつじゃ。全部王女様に飲まれたら堪らないからなあ」



 老人は大きく口を開けて朗らかに笑った。

 歯はない。



「い、頂くわけにはまいりません。」


「遠慮はいらんよ。お前さんに倒れられたら、こっちも堪らん。それにモズまではあと百六十スタディオン(三十キロメートル)ほどじゃ。馬で行けば明日の昼までには着くじゃろうて」


「で、でも…」


「皆、水や食料は隠し持っておる。馬鹿正直なのはお前さんぐらいじゃよ」



 そう言うと老人は有無を言わせず、水の入ったコップをユゼフの手に押し付けた。



「いえ、もう二口頂きましたから、もうこれ以上頂くわけにはまいりません」



 ユゼフはきっぱり言い切り、立ち上がった。

 

 足元が少しふらついている。

 この二日間、彼が何も口にしていないのをシーバートは知っていた。



「大丈夫です。シーバート様、一週間くらい飲まず食わずの事もありましたから。私は大丈夫。その水は他の方に分けてください」



 この一見すると弱々しい青年には、意外と頑固な所がある。自分では気付いてないだろうが、先ほど謝っていた時と別人のような低い声には一種の迫力があった。


 絶対に従わないという強い意思表示。

 シーバートは首を振りながら、これ以上勧めるのをやめた。

 

 その時だ。

 

 興奮した獣のような荒々しい気配が天幕の前にやってきた。冷たい風が吹き込み、天幕の幕がまくり上げられる。

 ひんやり流れ込む甘い香り。春の花と若い女の体から発せられる瑞々しい香りだ。


 天幕に入ってきたのは荒々しい気配とは想像もつかない二人の美しい娘達だった。年齢的には二人とも淑女なのだが、淑女というにはまだ幼く、体つきにはまだ童女の名残が残っている。


 途端に老人とユゼフは地面にひざまずき、ひれ伏さなくてはいけなかった。


 彼女は国の第一王女。

 ディアナ・ガーデンブルグである。



「楽にしてよい」



 (まぶ)しいくらいに輝く金髪を触りながら王女は言った。次に口を開いたのは茶色い巻き毛の娘だ。



「王女様は眠れないのです。先ほども恐ろしい狼の鳴き声が聞こえてとても怖くて…」



 気の弱そうなその娘は瞳に涙を浮かべながら震えながら言った。王女は哀れな娘を肘で小突く。



「誰も怖がってなんかいなくてよ。ただ、私は野獣の鳴き声が聞こえたので危険は回避すべきだと思うの」


 ユゼフと老人は顔を見合わせた。


「ユゼフ、お前の兄はこの隊の責任者でしょう。今すぐに兄の天幕へ行き出発するように言いなさい」



 言葉に詰まっているユゼフの代わりにシーバートは答えた。



「獣の鳴き声など我々には聞こえませんでしたが」


「いいえ。はっきりと聞こえましたわ。とても恐ろしい狼の声でしたわ」 



 王女の横で侍女は声を震わせる。

 

 ミリヤという名のその侍女は見た目は可愛らしかったが、鈍重で知能が低いように見えた。物覚えが悪く、何をするにも時間がかかるため王女をいつも苛つかせていた。



「狼ではないわ。お前は本当に愚かね」


 王女は侮蔑の表情でミリヤを一瞥すると、


「あれは、野獣の声よ……いいえ、魔界から逃げてきた魔獣の声だったわ」



 はっきり確信の籠った声でそう言った。

 

 先ほどの雄叫びがユゼフの発したものだったとは、口が裂けても言えない。

 シーバートは下を向いて笑いをこらえた。


 王女護衛隊の隊長、ユゼフの腹違いの兄ダニエル・ヴァルタン。

 

 彼は国の英雄だ。

 

 ダニエルは絵に描いたような軍人で、筋骨隆々とした肉体に鋼の精神を持っていた。ユゼフとの共通点は身長が高いことくらいだ。


 あの(いかめ)しく豪放な男が、王女という肩書きぐらいで小娘の我が儘に耳を貸す筈がなかった。



「王女様、あれは野獣の声ではありません」



 ユゼフは優しくゆっくりと話した。

 緊張すると吃音(きつおん)が出る。恐らく自分でコントロールしているのだろう。



「お前の意見など聞いていないわ。お前は私の言う通りにすればいいのよ。私の従者なのだから」


「いいえ。違うのです。あれは野獣の声ではありません。私が寝ぼけて出した声なのです」



 ユゼフの告白を聞いたシーバートは額に手を当ててため息をついた。



「何ですって!」



 王女の美しい顔はみるみる内に真っ赤になっていく。荒々しく地面を踏みつけながらユゼフに近付いた。そして、事もあろうか、ひざまずいているユゼフを蹴り飛ばした。 



「お止めください」



 更に倒れたユゼフを足で踏みつけようとする王女をシーバートは制止した。



「ディアナ様、それ以上は王女として恥ずべき行為ですぞ」



 王女はシーバートにまで掴みかからんとする勢いだったが、ミリヤが泣きながら老人の前にひれ伏すと少し落ち着いた。



「シーバート様、王女様は予定外の長旅にお疲れなのです。どうぞご勘弁ください……」



 学匠の重鎮であるシーバートを暴行すれば、大陸中に悪評が広まるだろう。

 

 大人しそうな侍女は高飛車な王女の代わりに謝ったのだった。



「不快だわ!」



 王女は忌々しげに叫び、背を向けようとした。

 

 その時、テーブルの上に置いてある木のコップに気付いたようだ。それをいきなりユゼフに投げつけた。


 派手にしぶきを上げ、貴重な水がキラキラ飛び散る。ユゼフはびしょ濡れになった。



「水でもかぶってしっかり目を覚ましなさい。お前は寝ずに私の天幕の外で見張りをするのよ」

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