2、夏をひと掬い
「あーあ、負けちゃった」
それから数十分後、日焼け止めクリームでテカテカになったワンピース姿の美咲を助手席に乗せ、愛車である国産の普通自動車を走らせた。
目的地は車で三十分ほどに位置している海水浴場。夏季期間限でおしゃれな海の家が開設されている所だ。最近では県外からの顧客を呼び込むために県を挙げての開発が進み、寂れて閑古鳥が鳴いていたのが一転、老若男女が楽しめる観光スポットに生まれ変わっていた。
砂浜に面した高台に南国をイメージした出店が円を描くように並び、中央にプラスチックの机と椅子が何列も続いている。飲食スペースのはずれには背の高いヤシの木が乱立し、ハンモックが優雅に繋がれていてなかなか風流だ。白布をピラミッドのように尖らせたテントも砂浜のあちこちに設置され、夜になるとランタンが飾られて幻想的な雰囲気になる。
現在はまだお昼過ぎだったけれど、海岸沿いの歩道には家族やカップル、それから暇を持て余した高校生や大学生で溢れ、無料駐車場のあたりからすでにごった返している。
「すごい人だかりだね」
「迷子になるなよ」
「はーい」
心なしか美咲の声が明るい。後部座席に黒茶色のミニチュアダックスフンドを乗せたワゴン車と入れ替わるようにして、車を停める。砂でざらつく歩道橋を渡り、看板の矢印に従ってカラフルなレンガの一本道を進んでいく。両脇には夏祭りのような屋台が並び、冷やしパインやりんご飴、キャラクターの絵柄で包装された綿あめなどが軒先で売られている。どこもかしこも行列で満員御礼、商売繁盛だ。
まわりの雑踏に押し流されないように、美咲がおれの二の腕に腕を絡めた。暑かったが嫌じゃない。おれはすこしだけ歩く速度を落とした。
一際出入りの激しいお土産屋さんがあり、ほとんどがガラス張りになっていて外からも室内の賑わいをうかがうことができた。日向夏やマンゴー味のお菓子や地方原産のワインが所狭しと並べられ、併設されたカフェではアイスコーヒーやソフトクリームなどの涼しげなメニューがこちらを誘惑している。見ているだけで楽しくなる。
「暑さでバテたら戻ってこようぜ」
「うん。私、カフェでアフォガード食べてみたい」
青空がどこまでも持ちあがっていくような開放的な気分で進んでいくと、徐々に潮の香りが濃くなり、やがて人だかりが左右に崩れて視界がぱあっと開けた。
見渡す限り一面に白い砂浜が広がり、波打ち際には多くの人たちが黄色い歓声をあげていた。プリズムのように眩しい水面に人々は漂っていた。遊泳可能エリアにはプールのレーンを区切るのに用いられるコースロープが貼られ、褐色の肌と屈強な肉体を持つライフセイバーが海面に厳しい目を光らせている。白浜では褐色の肌の持ち主たちが、スイカのビーチボールやフリスビーを全力で追いかけていた。ちいさい子供たちも砂浜でお城を築き、仲の良い友達を生き埋めにしようと欲しいままだ。夏に浮かされた非日常の世界だった。
絡まった腕の力がすこし強くなる。貝のようにぴったりとくっついている美咲に目を向けた。美咲は頬を紅潮させてこちらを見上げ、はやく行こうと語りかけている。
おれたちは砂浜までそれぞれの履物を脱ぐことにした。太陽光で熱せられたアスファルトに悪戦苦闘しながら砂浜前まで近づき、違う世界に踏み出すように「せぇの」と掛け声を合わせて足をつけた。途端にくしゃっと砂が解けて足首をくじきそうになった。そんなダサいおれを見て、美咲は可笑しそうに笑った。
沖から吹く風にはどこか粘り気があり、太陽はさらに勢いよく燃えていた。二人で茶色が濃い波打ち際まで行き、寄せ返す波に足を浸した。流砂が肌の表面をくすぐる。自分たちの立っている場所の砂がふやけて心もとなかった。その感触はなんとも言えない愉快さだった。
「水着を持って来ればよかったね」
眩しさに目を細める美咲。髪がなびいているあいだだけ見える耳の形が愛おしくて、指をしっかり結んでいる左手に力を込めた。おれたちはそのあと童心に返り、水を掛け合ったり浜辺を走ったりしてはしゃぎまくった。さっきまで喧嘩していたのがどこ吹く風、といったようにテンションを爆発させる自分たちに驚いた。
だけどそんなことなんてどうでも良くて。無邪気に微笑む美咲に想う。
きっとさ。幸せって、そんなに難しいことじゃないんだよ。
ちょっと扉を開ける勇気さえれば、楽しいことが待っているんだから。
すこし気分が落ち着き、一番きれいな石を探そうと目を皿のようにして砂浜を歩いていると、小学生たちの水鉄砲合戦に巻き込まれるハプニングに見舞われた。冷たい流水が直撃して全身ビッショリになった。戦場だったら名誉の戦死だ。純朴そうな少年兵士たちが真っ青な顔で近づいてきて「すいません」と平謝りされた。悪気はなかったのは明らかだったし、こちらも前方不注意だったのでお咎めなしで別れた。
けれどもびしょ濡れのまま車の座席に座るのは憚られ、近くの店で赤い文字で『特売』と銘打たれた甚兵衛を購入することにした。おれの身長は百八十㎝で当てはまるサイズがなく、丈裾がかなり短かったが、背に腹は変えられないので妥協することにした。店員に用意してもらったビニール袋にびしょ濡れの服を入れて更衣室を出ると、着替えたおれを見るなり美咲は相好を崩した。窓のそばに吊るされた風鈴が、嬉しそうにチリンチリンと揺れていた。
「お、似合っているじゃん。夏だねぇ」
「嘘つくなよ。笑ってるじゃねぇか」
「『馬子にも衣装』だね。はい、これ」
おれが着替えているあいだに購入していたのだろう。タグがすでに切られた、大きなヒマワリくらいの大きさの麦わら帽子を手渡してくれた。
「これ、おれがつけるのかよ」
「そう。似合うと思って買っちゃった」
美咲のきらきらした眼差しに降参し、プレゼントを頭に乗せて店を出た。浮かれた出で立ちで闊歩する羽目になり、なんとなく視線が痛いことに気後れするが、美咲は横で楽しんでいるので良しとする。
流石に暑さにウンザリしてきたおれたちは木陰で涼みながら海を眺めた。おれはノンアルコールビールの瓶に口を付け、美咲はレモネードをストローで飲んだ。すこしだけ日差しは弱まり、波も穏やかになっていた。
「夏だねぇ」美咲が口元をハンドタオルで押さえながら言う。
「じゃんけんで負けてよかった。私の左手に感謝」
「だろう」
おれは瓶口から唇を離してあたりを見回した。イギリス人だろうか、金髪で中年のおっさんが三味線を脇に挟んで木陰に佇み、おそらくはアルコールであろう赤い液体を豪快に飲み干していた。おれたちのすぐ隣では、女子高生たちが自撮り棒のさきの携帯にポーズを決めていた。その後ろには浴衣を着た赤ちゃんがむすっとした顔でベビーカーに乗せられ、大人たちは夏の雰囲気に酔いしれるように談笑している。
「あのさ」おれの横でパタパタと足を動かしていた美咲が言う。
「今日は誘ってくれてありがとうね」
「うん。どうしたんだよ、急にあらたまって」
「だってさ、私一人じゃここまで来られなかったもん。最近は仕事でヘトヘトになって出掛ける元気がなかったから。連れ出してもらえて良かった」
「そっか」
最近、なにかあったのか。具体的に尋ねたくなる自分がいたけれど口を噤んだ。たがいに分からないことがある。そんなのあたりまえじゃないか。
きみがいて、おれがいる。過去でも未来でもない、一緒に居られるキラキラしたこの瞬間におれは生きていたい。全力で抱きしめていたいんだ。
「さて、本日はお日柄も良く」美咲が節をつけたように言う。
「次はどこに行きますか」
そこには普段は見ることができない、穏やかな表情を浮かべる美咲がいた。なんだか付き合いたての頃の記憶が蘇った。おれの横にいるのは数時間前にソファで横になっていた美咲とは違うのかもしれないし、いつもの美咲なのかもしれない。
「そうだなぁ。美咲はどこに行きたいんだ」
そう言いながら美咲の方を見遣ると、なんとなくしんどそうにしているのが分かった。無理もない。最近は引きこもり生活を愛していたにも関わらず、この炎天下のなかをあんなにはしゃぎ回ったんだから。
行きたい場所は色々あった。だけど。おれは美咲の顔の前に腕をまっすぐ伸ばした。
「じゃんけん。次の行き先はじゃんけんで決めよう」
「え、いいの」
「ああ。男に二言はねぇよ」
「分かった、いっくよぉ。じゃんけん……」
頬をくすぐって流れていく夏色の風に、おれは目を細めた。
美咲が勝ってどこかを提案すればそれに従う。もし仮におれが勝ったとしたら「家に帰ろう」と提案するつもりだ。まだまだ遊び足りないけれど、すこしだけ夏をひと救いできた。今日だけで遊び尽くしてしまうのはいただけない。
けれども、おれが運よく勝つことが出来たなら。
夕飯は素麺を作ってもらおう。
ふんだんのかつお節で出汁を取って、豚バラ肉を入れたおれのお気に入りのやつだ。クーラーの効いた部屋で日焼けした肌を冷ましながら、クリスタルの容器に浮かぶ素麺に舌鼓をうつ。そのとき美咲にオススメのアニメを教えてもらおう。もしそれでたがいの好きな時間を共有できたなら最高の夜になる。そうだ、夕食のあとにはスイカを食べよう。もし手頃のサイズが売ってなかったらカキ氷もいい。
おれは美咲が振りあげた拳に力が入っていることを見抜き、即座にパーを選択する。
脳科学によれば、恋は三年もすればドーパミンが切れて終わるという。それならいまのおれを突き動かしている、一緒にいたいと願う熱情はなんなのだろうか。分からない。それが線香花火のように燃え尽きるのか、打ち上げ花火のように大輪の花を咲かせるのかは分からないが、今は美咲の側で笑っていたい。
変わりゆく自分たちを笑い飛ばしながら、変わってゆく季節を一緒に過ごそうぜ。
山登りに、バーベキューに、浴衣で夕涼み。色々と夢は膨らむ。
いずれにせよ、夏はこれから。
夏の風物詩を詰め合わせてみました。