1、夏をひと掬い
今日こそは、美咲を外に連れ出そう。
がらんどうになった駐車場をビーチサンダルで横断していると、そんな衝動が湧いてきた。蝉たちが夏を輪唱する八月。四年の付き合いになる美咲とアイスを賭けてジャンケンし、あっさり一回戦で敗北したおれは、コンビニでお使いを済ませた帰り道だった。
汗でピタピタになったポロシャツをぱたつかせながら、送電線の向こうに広がる夏空は見上げる。パステルカラーの青いキャンバスに、柔軟剤を混ぜたようなふわふわの白雲が漂っている。今日は休日、それも絶好のデート日和だ。部屋に引きこもるなんてもったいない。
そう思いながらも、おれは手で庇を作って低い声でうなった。
だがいかんせん、暑すぎる。出不精の美咲を説得するのは骨が折れそうだ。
アパートまで戻ってエレベーターに乗り込む。なかは蒸し風呂状態で、顔から噴き出した汗は塊となって首筋を流れた。
これはたしかに、テレビで連日報道されているとおり、近年稀にみる猛暑日だ。ここ一週間で熱中症がうなぎのぼりと聞く。現に会社の同僚の数人が暑さにやられて、病院の厄介になっていると業務連絡があった。それも納得だ。
部屋と部屋を繋ぐコンクリートの渡り廊下を歩いていると、これから出かけるのだろうか、腰に浮き輪を付けてはしゃぐ少女とキャリーケースを引きずる両親とすれ違った。近所のよしみで会釈すると、みなはち切れんばかりの笑顔を返してくれた。単純なおれはその熱に浮かせれて、自分の部屋の銀色のノブを勢いよくひねった。
「美咲、帰ったぞ。ほら、約束のアイスだ」
「おかえりー」
裸足でぺたぺたいわせながら居間に戻ると、美咲はキンキンに冷えた部屋のソファで女王のごとく横になり、ガラス机に置かれたノートパソコンに首ったけになっていた。部屋にはシリアスなBGMが流れ、優男風の声の持ち主が「世界を変える」とかなんだか騒いでいる。
おれはなんだか笑ってしまいそうになるのを堪えながら、ソファの後ろに回る。最近の美咲はアニメにいたくハマっていて、休日になるとずっとこんな感じだ。
おれは代わり映えしない日常に風穴を開けるべく、イタズラを敢行することにした。美咲の眼中にないことを良いことに背後にそっと忍びよる。無防備なミディアムヘアーの向こうには、案の定、美咲がはまっている声優の主演夏アニメが流れている。友達をおれの部屋に勝手にあげては「マジやばい」と騒いで、仕事帰りのこちらをウンザリさせるやつだ。
「ほい、アイス」
「ひゃあっ」
しずくが滴るカップアイスを首筋にくっつけると、美咲はあられもない声で身をよじった。そのあとで唇を尖らせて「なにすんのよ、バカ」と、抱きしめていたぬいぐるみを投げつけてきた。いつも下らない争いに巻き込まれるぬいぐるみに同情しつつ、ホットパンツから伸びている足を退けて隣に腰掛けた。
「なんだよ、はしたねぇ声で。バカって言った奴がバカなんだぞ」
「うるさい。可愛い彼女を虐める方が、よっぽどバカだ」
そうやっておれたちは罵詈雑言、あるいは屈折した愛の言葉を投げつけあいながら、仲良く味違いのカップアイスに棒スプーンを入れた。アイスの表面は若干溶けてしまっていたが、ムースみたいな舌触りで美味しかった。
一足先にアイスを片付けたおれは、ガラス机に転がっていた『絶対に外れない、夏のオススメコーデ』とうたうファッション雑誌を手に取り、心ここにあらずでアニメを見入る美咲にカマをかける。
「ねえ、今日はどうすんの」
「このまま有馬の家でゆっくりする」
「ふうん、そうなんだ」
こっちを見て返事をしろなんて、大袈裟なことを言わない。だけど最近、正面から会話することがすくなくなってきたのは、気のせいじゃない。
おれは雑誌をパラパラと眺めながら、アニメが終わるタイミングを見計らって、もう一度出かける提案をすることにした。長い付き合いになり、一回で了承を得られるなんて、はなから期待しちゃいなかった。
なんの期待もせずに雑誌の中身をさらっていると、ふと恋愛のページに眼が止まった。
そこにはロクな恋愛をしたことがなさそうな風貌の脳科学者の写真が貼られていて、『恋の寿命は三年。三年のあいだはドーパミンという脳内物質のおかげで理性が麻痺していますが、それを過ぎると理性が再活性化、恋に盲目の時代が終焉を迎えるのです』と宣っていた。
おれは鼻白む想いで雑誌を閉じた。そのあとで待てよと記憶を巡らせる。
そういえば、おれが美咲に不満を持つようになったのは、たしか三年目の記念日を終えたあとじゃなかったっけ。美咲が良くおれの家に来るようになってからだったから、たぶん間違いないはずだ。おれたちの関係の変化を奇しくも言い当てられていることに、寒くもないのに鳥肌が立った。
出逢った頃の美咲を思い描いてみるに、今のように極端なインドアではなかった。
暇があればあそこに出かけよう、どこそこに行こうとおれを困らせた。空中に漂う羽みたいに、おれの知らない世界を軽やかに舞っているみたいだった。それがなんでこんなふうになってしまうんだろう。
溜まった不満をページをめくる推進力に変えていると、耳慣れたエンディング曲が流れはじめた。美咲はタッチパッドを操作するべく身をかがめる。チャンス到来。おれはノースリーブから伸びる二の腕を掴んで、強制的に意識をこちらに向けさせた。美咲は目を丸くした。
「え、なに」
「なあ、今日はどっか出かけようぜ」
「……どこに」
「そうだなぁ。たとえば駅前の商店街とかどうだ。バザーもやっているらしいし」
美咲は露骨に顔をしかめた。
「えー、暑いもん。買いたいものもないし」
「それなら水族館はどうだ。屋内なら冷房だって効いているだろう」
「水族館ってうす暗くて眠くなるんだよね。それに生き物自体、あんまり好きじゃない」
「それなら映画はどうだ」
「行ってもいいけど、有馬はなにか観たい映画はあるの」
いちいち返事に歯切れが悪い。外に出たくない雰囲気を察してくれという雰囲気に、すこしばかり苛立って雑誌は机に投げた。
「べつにないけどさ。最近ずっと、家に篭ってばっかじゃん」
おれは自分の言葉に、心の表面を引っ掻く程度の非難を込めた。あくまでも全体の声のトーンは明るく後腐れがないように。すると美咲は困ったように首を傾げて「ああ……」っと言い淀んだ。
「有馬は私と家にいるだけじゃ、不満なの」
「そんなことねぇけど」
「そっか。こんな根暗な彼女だとさ、有馬には吊り合わないから、もうすぐ振られちゃうかな」
それからしばらくのあいだ、目覚まし時計の秒針が罰ゲームのような空虚な時間を刻んだ。たまによく分からなくなることがある。なぜ美咲はおれの部屋に遊びに来ておいて、こんな卑屈なことを言うのだろうか。
「吊り合うとか吊り合わらないとか、なんだよ。くだらねぇ」
外の浮かれ陽気とは正反対の悲しい気持ちに沈みながら、おれはソファの背もたれに身を任せた。
「そんなのさ、分かんねぇよ」
時間という歯車によって、俺たちの関係がすこしずつ軋みはじめていたとしても、おたがいのすれ違いを強調して傷つけあう必要なんて、ないんじゃねぇかな。
美咲はおれの気持ちを知ってか知らずか、曖昧に微笑んだ。
「そっか。じゃあ、ジャンケンで決めよう」
「え」
「有馬が勝ったらさ、好きなところについていくよ」
美咲が立ち上がると、ううーんと背伸びして腕を前に差し出した。おれはすこしだけ呆気にとられたあと、半袖をノースリーブのようにして、今度こそは勝ってみせると意気込んで拳を握りこんだ。