六月の陽と
私の呼び名は「信次」。で、これが本名。
ところでカウンター越しに眺めている、エプロンを付けた彼女は「軽海柚香」、改め「三沢柚香」。
私と結婚生活を共にして3日目。今日は私に手料理の夕食を振る舞ってくれるらしい。何となく申し訳なくて、始めに「何かする事ある?」と椅子から腰を浮かせたが、「ぃ、いいの信次は!!」と柚香に凄い勢いで押し返された。
嬉しい反面、幸せな自分にまだ慣れなかったりするのだが…。こういうのを、平和ボケと言うんだろうか。
「――でも良かった。信次が今日は早く帰ってきてくれて」
ぼうっとしていた私に、キッチンから可愛らしい声が聞こえた。一瞬、間を開けてから、ああと思って、
「珍しく高木さんが出張だったんだ、ほら、私の上司の」
高木さんは結構な酒好きで、ここの所ずっと「三沢の結婚祝い」とか(勝手に)かこつけて、毎晩飲みに付き合わされたものだった。だから夕食を家で食べるのは久々だ。
柚香はトントンと何かを切りながら、顔をこちらに向けて、
「…あの方も、そんなに悪い人じゃないんですけどね―――あ、ぃたっ!」
瞬間、笑顔を引きつらせ、柚香がはっとして左手を押さえた。私は急いで声をかける。
「どうした?」
「ううん、何でもないの。ちょっと切っちゃっただけ」
とか言いながら、柚香は救急箱を探し始める。よく見れば左手人指し指から、ちろちろと血が出ていた。どこが「ちょっと切っただけ」なんだ。
「えーっと、えーっと……どこだっけ、バンソーコーは…」
「はい」
「あ…」
柚香が私の手元の絆創膏と、私の顔を交互に見た。
私はちょうど仕事の鞄の中に入れておいた絆創膏を、柚香に手渡す。柚香は「ありがと」と短く言って受け取った。
「手伝おうか?」
これで今日何度目か分からない質問を、またする。
「え?」
私がちょいちょいとキッチンを指すと、慌てて柚香は首を横に振る。
「あ、あれはあたしがするから!いいの!!」
と、また同じ答えを返される。柚香は絆創膏のフィルムのゴミを丸めて捨てると、
「待ってて。もう少しで出来るから!」
と強く念を押してまな板に戻った。ちょっと盗み見たところ、キッチンはかなり散乱している。フライパンが3つ、3つしかないコンロを全て占領している。まな板の上にはいびつな形(みじん切りの、かろうじて一歩手前の状態)のニンジン。
何を作ってるんだ…。
私は椅子に戻って、パラリと新聞を開いて暇を潰していると、
「わあー!!」
という悲鳴。悲鳴だ。ぎょっとして駆けつけようとすると、キッチン寸前で柚香が両手を広げて牽制してきた。
「だ、大丈夫。ちょっと焦がしただけ…」
彼女の背後に、コンロの上で白い煙を立ちのぼらせるフライパン。
「………。」
何も見なかったことにして、と言われて、素直にそうした。
ぶくぶくぶく。
じゃぱーん。
しゅー。
しゃかしゃかしゃか。
どんがらがっしゃーん。
「…で、できました……」
弱々しい(あるいは恥ずかしそうな)声がようやく聞き取れた。
ケチャップやら何やらを付けたエプロン姿で、柚香はおぼんの上に2つの皿を載せて、私の座るテーブルの方に来た。ことん、とテーブルの上に並べて置く。
皿の中身は、表面は赤くてところどころ黒い(と言うか焦げている)。
ぐたり、と私の正面の椅子にへたり込む柚香だった。
私は見た目はともかく、その(焦げたせいか)香ばしい香りに微笑んで見せて、
「お疲れ様。いい匂いだね」
お皿を自分の方に寄せた。
突っ伏した顔をテーブルから上げて、柚香はぽつりと、
「……わかる?」
「ん?」
「ミートスパゲッティ」
「……」
あ、なるほど。だからエプロンはケチャップの赤なんだ。ところでお皿の中の、ぶつ切りのこの細いのはパスタか。
出来るだけ間を開けずに、私は頷く。
「うん。いただきます」
言って、フォークで一口。
お世辞にも美味しいとは言えなかった。香りは最高なんだけど。どうもスパゲッティの香りでないのは、さて置き。
それは本人が一番身に染みたようだった。
一口、二口、食べて。
「ごめん。味見するの忘れてた」
ぽつりと悲しそうに呟いた。
私は少しフォローの仕方に困った後、フォーク――それだとぶつ切りパスタが食べにくいので――でなくスプーンでミートスパゲッティをすくい、
「何を言うんだよ、柚。ほら口開けて」
「ん?あー」
私はその口に、ミートスパゲッティ(らしい)を食べさせる。
「味見しなくても十分おいしくないか?」
「……そう、かな」
柚香は思いっきり顔を赤らめて、黙って頷いた。
料理開始から1時間後の、午後7時。その日の平和的夕食。
* * *
その夜、私は会社の仕事の残りをこなすために、パソコンを開いてデータをUSBに保存したりしていた。
……カチャ。
「うん?」
1階のリビングのドアが開く音がした。こんな時間に。柚香だ。寝付けなかったりしたのだろうか。
頭半分でその事を考えながら、結局手元のパソコンから離れないでいた(これもそれも、高木さんが自分を毎晩連れ回して、家でろくに残業もできなかったせいだ)。
―――しばらくすると、今度はがたんという大きな音がした。
これは椅子が倒れる音だ。
「…柚香が。」
次は何をしたんだろう。
データの保存もそこそこに、階段をいそいそと降りていった。
「柚香?一体何を――」
「あー。信ちゃん…」
その呼び名は、彼女が酔っている時のものだった。
見回すと、床に這いつくばって苦しそうにしている柚香がいた。テーブルの上には空になったビールの缶が、3、4コ転がっている。
「……柚…」
ひとまず体を起こしてあげる。
柚香はなおも眉間にしわを寄せながら、弱く低い声で、
「気持ち悪……。」
「当たり前だよ、こんなに飲んで…。柚香はお酒に弱いだろう?」
ここは可哀想でも叱るしかなかった。少し語調を強めると、柚香は唸ってうつむいて、
「だって…だって、あたし料理うまくないし、今日のスパゲッティなんて最悪…」
相当自覚しているらしい。それはショックだろうが、あれが最悪で、あれ以上酷くならないのなら十分だとは思うが…(これでフォローになるのだろうか)。
私は小さくため息をついて、
「でもヤケ酒なんて、柚にはとんでもないよ。今までも酎ハイぐらいで二日酔いだったのに、もう――」
「信ちゃん…。」
「?」
「吐きそう」
「……」
私は仕方なく柚香を洗面所に連れて行った。今日はとにかくこれ以上は責めずに、そっとしておいてあげようと思う。
しばらく柚香は吐き気と戦っていたが、結局出すものは出せず、そのまま寝室に戻って寝た。
* * *
次の日どうやら柚香は、遅刻することなく会社に出勤できたようだった。柚香はパートタイムで、午後5時には家に戻ってきている。結婚しても共働きでいようと、お互いで決めたことだった。
「おい三沢。新婚生活はどうだ?」
夜近くなって、鞄の中を整理して帰る準備をしていると、窓際の机から高木さんがにやりと問いかけてきた。
「いろいろありますけどね。やっぱり最初は問題があるぐらいがちょうど良いんでしょう」
「なんだ。訳ありで言いにくそうだな、三沢」
「いえ、高木さんにお世話になるほどでもありませんよ。さすがに離婚を申し込まれたら頼りますけど」
高木さんは顔を曇らせて、
「…おい。結婚して早々に、縁起でもないことを」
問いつめるように椅子から立ち上がりかけたが、
「大丈夫です。残念ながらその心配はないですから」
軽く冗談を言って返すと、結婚十年を超えたベテラン(自称)高木さんは、
「ふうん。何か大変な事があったら、いつでも相談に乗るからな。仕事帰りに、どこか飲み屋に連れて行ってくれれば」
私は上司の笑顔をありがたく受け取って、
「はい、その時は。ではお先に失礼します」
――その日の夜、私はいつもより遅めまで仕事をやりきり、一緒に暮らす一戸建てに帰ってきた。
昨日より随分遅くなってしまった。夕食を待っていてくれているだろうか。
少し急ぎ気味にドアを引くと、柚香が玄関で出迎えてくれた。
「…柚。」
何だかもじもじとして、悲しそうな笑い顔をしている。今すぐにも泣き出しそうな顔に見えて、私は何も言えずにそのままリビングに入った。
ふと気付くと、テーブルの上にビニール袋がいくつか置かれている。近付いていって覗き込むと、近くのスーパーのお惣菜だった。
「――今日は…信次、夕食は心配しなくてもいいから」
私はそう言った柚香に応えられず、テーブルの脇に鞄を置いた。
少し、顔を背けている柚香。やっぱり泣きそうで。
「………」
しばらく逡巡していると、ぽつりぽつりと一人言が聞こえてきた。
「……良かったのかな…、私、こんなんで…」
「―――」
私は心底思う。
妻は、おっちょこちょいで料理が下手でお酒に弱くて―――、
愛しい。
――とても。
とても。
私は歩み寄って、柚香の髪をそっとなで下ろす。
「そんなに気にしなくて良いんだ、本当に」
「でも…」
「良いんだよ」
私はその言葉を何度も語りかけた。
「これからも一緒に夕食を食べよう。柚の夕食を」
「…。」
やっと、うつむいていた柚が嬉しそうに笑って、それからすぐに私のYシャツに顔をうずめてきた(さっき上着のスーツを脱いでおいて良かった。もちろんネクタイも。今、クリーニング代が2つ分飛ぶときつい)。
「そうだ、柚。明日、近くのスーパーでひき肉でも買ってきてくれないか」
「ええ?」
柚香はぱっと顔を上げて、私を見上げた。
「二人で、ハンバーグでも作ろう。明日は今日遅かった分、早めに仕事を終らせられると思うから」
「……!」
柚香は涙で潤む目をもっときらめかせて、
「…信ちゃん!!」
私の胸に頬をこすりつける。ありがとう、とか小さく何度も呟いていた。
私はくしゃくしゃと妻の髪をかき回した(さっきは撫でて整えたくせに)。
「ほらほら」
ぽんぽんっと妻の頭を軽く叩いて、顔を上げさせる。私は妻の顔を笑顔で見つめ返した。
「あ、そういえば…」
妻が思い出したように言葉を濁らせて、
「―――おかえりなさい」
「……ああ」
忘れていた。
「ただいま」